カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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8-30 自分を捨て 十字架を担い 復活の恵みにあずかる

 英神父 ミサ説教 イグナチオ教会 於

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マタイによる福音書 16:21-27 (そのとき、)イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」十

 今日の福音書は、先週のマタイ16章の前半に続いている非常に大事なところです。この前の箇所は、イエス様が生ける神の子、メシアであることをペトロが言葉を通して明らかにされる。自分が救い主であるということを、弟子たちだけには示されました。メシアであるということと、今日のところは切り離すことができない。メシアであると宣言したその続きで「エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され」る。いわゆる受難予告を同時にされるということです。メシアであるということは、十字架にかかって自分の命を捧げるということと一緒で、それをイエスが語るということです。でもそれはペトロにとって大きなショックだったわけで「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」というわけです。ペトロの気持ちは分かる気がします。

メシアである、救い主だと思った時にペトロは、この世的な救いを強く感じたでしょう。やはり苦しんでいるイスラエルの民が、これでやっと解放されると、イスラエル王国を立て直してくれる方が来たと。ペトロもあわよくば大臣にでもなれるかと思ったと思います。イエス様がメシアであると言ったとたん、十字架にもかかるということを言うわけです。考えてみたらショックなことであると思います。というのはここに集まっている方々は洗礼を受けられている方が多いと思いますが、どういう意味でクリスチャンとして歩んでいるのか。イエス様をメシアとして信じている方々だと思いますが、メシアとして信じているイエス様が、十字架にかかられた方だという、そこが大きなポイントです。この後に出てくるわけですが、イエスの弟子であるとはどういうことか。イエスについていくものは「自分を捨て、自分の十字架を背負って」いく。それが弟子のクリスチャンの生き方だということです。でもこの十字架の神秘をわたしたちは本当はよく分かっていないことも多いのではないかと思います。

せっかく洗礼を受けたのに、なんでこんなに不幸がわたしに注がれるのですかと、時々言われることがあります。でも洗礼を受けて、この世的な幸せをイエス様はどこにも約束していないので、つまりイエス様は自分を捨てて、自分の十字架を背負う生き方をせよということです。だからここの「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」今でいうと、コロナウイルスが流行って、世界中が大混乱になっているわけで「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」起こっているから仕方ないですが、わたしたちはイエス様の道は何であって、そして自分たちはどういう道を歩むのかということを、しっかり受け止めなければならないのではないかと思います。それは簡単なことではないと思います。

イエズス会の前総長のニコラス神父様の書いた記事、イエズス会員だけに配られたものですが、ディストラクション、いかにわたしたちはまと外れなのかということを彼が書いています。とにかくイエズス会員は成功にとらわれている。成功と完璧にとらわれていて、失敗はできない。だから十字架の神秘を聖週間の典礼でお祝いをしているだけで、実生活では全くお祝いしていない。不幸や困難があったら、イエズス会員も皆さんもそうですが、結局、嫌なわけです。なんでこんなことが起こるかという気持ちに、不幸があったら思ってしまうわけです。でもイエス様が求めているのは、十字架を担いで行け、ということです。「わたしのために命を失う者は、それを得る。」全く違う観点で自分の生き方を見つめて、それを生きていくということです。だからといって苦行主義というか、いたずらに苦しめと言っているわけではないと思われます。やはり自分を捨て、自分の命を捨てた先に、神様の恵みの世界がある。それをわたしたちはしっかり見なければならないであろうと思われます。

以前一人の青年が神父になるかどうか悩んでいたら、交通事故にあって、生きるか死ぬかの状況に陥った。その意識が混濁している時に夢を見て、どういう夢かといったら、彼が崖から落ちそうで、何とか崖から落ちないように、木の根っこか何かにしがみついていたそうです。それは彼のその時の状況を表していたのかもしれない。そうしたら天から声がして、どういう声がしたかといったら、それは驚くべきですけれども、「手放せ」と天から声が聞こえた。崖っぷちから下に落ちそうで、木の根っこに捕まっているのに、上から聞こえてくる声が「手放せ」手を放したら下に落ちてしまうのに。生死をさまよいながら夢を何回も見て、必死で何かつかんでいたそうです。そしてとうとう彼は夢の中で「手放せ」という声に従って、手放したということでした。手放したところから、劇的に状況が変わって回復した。それは彼のとらわれだったかもしれないけれども、そこでイエズス会に入ることを決意して、神父になったわけです。

命を捨てるとか、失うとか強い言葉ですが、結局は自分のとらわれ、これさえなければならないということを手放した先にあるものは、恵みの世界でしょう。だから命を捨てた先に、もっと大きな命がわたしたちに与えられる。その命を目指してわたしたちは生きているということです。当然ですけれども、十字架の向こうに復活の恵みがあるということですから、わたしたちは復活の恵みを目指して歩んでいるということです。

わたしたちは何となくコロナのことも続いて、逆に慣れてしまって緊張感がなくて、危ないなと感じることもしばしばあります。でもわたしたちは日々の小さな生活の中にある十字架を、しっかり受け止めていくということでしょう。実際に日々あるのは小さな小さな十字架だと思います。それをしっかり受け止めて、いやいやながらとか、戦うとかというより、小さな十字架を受け止めて、そして自分の執着とかとらわれを見た時に、十字架が恵みというか、復活に変わっていくのではないかと思います。

苦しみと十字架の何が違うというのか。苦しみというのは、ただわたしたちが苦しんでいるのが現実ですけれども、でもその苦しみをイエス様と共に担うならば、十字架の恵みになるでしょう。でもイエス様と共に担った時に、その十字架はいつか、すぐかどうかは分からないけれども、主が復活の恵みに変えて下さるでしょう。それがわたしたちに与えられている本当の命のお恵みだと思います。その恵みをわたしたちは信じて希望して、歩めるように主を信じながら、日々の小さな十字架をしっかりと受け止めて、歩んでいけるように、共に心を合わせて祈りたいと思います十

第一朗読  エレミヤ書 20:7-9
主よ、あなたがわたしを惑わし わたしは惑わされてあなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ人が皆、わたしを嘲ります。わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい もうその名によって語るまい、と思っても主の言葉は、わたしの心の中骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとしてわたしは疲れ果てました。わたしの負けです。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 12:1-2
兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい十