カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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9-22 神の御心の恵みで 心に清い水が流れる

英神父 ミサ説教  聖イグナチオ教会 於  いやしのミサ

ルカによる福音書 8:19-21(そのとき、)イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった十

 いやしのミサということで、コロナの中でこういうミサをした方がいいのかなと思いました。マリア聖堂が、ギリギリ入るかなと思い、ソーシャル ディスタンスですね。今朝、急遽やはり主聖堂でやろうと思ったのです。これぐらいの人数だったら安心してミサもできるのではないかと思います。

この第一朗読の箴言ですが、面白い言葉があります。「主の御手にあって王の心は水路のよう」王の心は水路、水の流れるものだというわけです。わたしたちは今日は健康を願ってミサをしているわけです。やはり大切なポイントの一つは、水路のようにわたしたちの心と体を整えるということです。これは非常に大事なことだと思います。水路というのは水を流す通路です。それが本当に清い水が流れていくことによって、水路というのは役割を果たすわけです。わたしたち人間も水路のような形で生きていく。つまり清い水を流すようなパイプであるような形で生きていくというか、そういう心がけが必要だと思います。

象徴的な形でいうならば、何で病気になるかといったら、場合によっては清い水を、わたしたちにとっては聖霊の水ですけれども、それを流さずに、この世的な欲望ばかり自分の中に流していたら、当然、動脈硬化とか血管が詰まってくるのと同じです。わたしたちの心を悪いもの、「高慢なまなざし、傲慢な心」「あわてて事を行う者」「うそをつく舌」そのような心でわたしたちが生きているとしたら、そのものをわたしたちの心に流しているとしたら、それはわたしたちの心と体に良くないというのは確かです。それは体のことで言ったら、体に良くないものをいっぱい食べたら、体が悪くなるのと同じように、わたしたちも清くないものを自分の心の中にいっぱい溜め込んでしまったら、それはやはり体に心に害を与えるのは間違いありません。わたしたちは悪いものも罪も、わたしたちの心の中にいっぱい生まれてきますけれども、いかに水路のように綺麗に流していくというか、流しとるというのは、それはわたしたちにとって大切な、それは本当に清い流れの循環を作るというのは、やはりそれは祈りであったり、わたしたちの生活を整えたり、単に健康に気を配るだけでなしに、神の御心を行っていこうとする態度の中で、わたしたちの中に清い水が流れるということです。だから時々、働きすぎてダウンする人がいますけれども、それは水路の水が少ないのに働きすぎたら、それはエンストになってしまうということですから、当然その流れに沿った、自分の中に流れてくるエネルギーに沿った生き方をしなければならない。適切な休憩や睡眠とかも必要だと思います。

「王の心は水路のよう」だというのですけれども、わたしたちの本当の心と体の健康には、水路のようなものが必要だということです。ただ人によっては難しい職場にいたり、難しい人間関係を抱えていたり、清いものばかりが流れてくるばかりではない方もおられるんでしょうけれども、当然そこには神様の聖霊の恵みの中で、自分の心を清い流れにしていくという心がけを、絶えずする必要性はあるでしょう。それが足らないとイライラしたり、人に当たってしまったり、急に怒りっぽくなったり、あるいは愚痴が出たりということにもなるのですけれど、いかに自分が清い水路で、神様の恵みをしっかり流していく、パイプのような存在ですね、それを心がけることが、大事なことだと思います。

十分な神様の恵みがあるならば、悪いものは自然と流されて消えていくでしょう。そしてイエス様が福音書で言われるわけですけれども、イエス様にとって誰が本当の家族なのかということです。「母上と御兄弟たちが、お会いしたい」イエス様の兄弟というのは、いとこだったかもしれないですけれども、あるいは異母兄弟だったかもしれないです。するとイエス様が、わたしの家族はこういう人だというんです。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とはっきり言われるわけです。これも非常に大切なことだと思います。わたしたちは一体どこに属して、誰と本当の家族なのか。皆さん一人一人家族を持って、一人暮らしの人も多いかもしれませんが、今の現代の家族は難しい問題を抱えている家族の方も多いと思います。

家族というのはやはり大切なものです。入院したり病気になったら、本当に世話をするのは家族だけですから。あるいは入院して面会謝絶で会いに行けるのは家族だけなわけです。わたしは修道院に属していますけれども、修道院が家族みたいなものです。誰か入院して院長が見舞いに行くと、苗字の違うおじさんが出てきても、お医者様は何も説明してくれない。あなた誰ですか、と言われます。説明しても分からないです。わたしたちにとっては家族のようなものですが。日本の制度に合っていないので、なかなか説明はしてくれなかったりとか、奥さんを呼んで下さい、とか言われたりして。とにかく日本のシステムと合ってないことがあります。

わたしたちにとって本当の家族は、イエス様を中心とした家族だということです。わたしたちはイエス様を中心とした家族を生きていけるということができる。わたしたちのお母さんはマリア様だというわけです。イエス様がお父さんにあたるのか何にあたるのか、その時々によるでしょうけれども。家族のありがたみというのは本当に困った時なんです。困った時にこそ助け合う存在が家族であるわけだから。その家族と共にわたしたちは日頃歩んでいるわけです。その家族がイエス様だったりマリア様だったり、そのような繋がりの中でわたしたちは生きていけるという。イエス様の家族となるような恵みも与えられているし、そのような生き方をしていくということを、わたしたちのメインにしなければならないと思います。

イエス様もマリア様も、十字架の苦しみを通らなければならなかったことがあったわけですから、当然わたしたちにも十字架の苦しみを通らなければならならない時もあるでしょう。それは全てイエス様とマリア様と共にということです。だからわたしたちは苦しみを乗り越えて、イエス様の復活の恵みに、マリア様と預かることができるんだろうと思います。

病気とか様々な苦しみは、当然一つの十字架ですけれども、わたしたちが家族であるイエス様と本当に結ばれているなる、十字架を超えた復活の恵みに、わたしたちはいつも預かることができると思います。

そのような神様の本当の恵み。神様こそわたしたちの本当の身内として、歩んでいけることができるように、特に苦しい時や辛い時にこそ、家族であるイエス様やマリア様を信頼して、困難を乗り越えていくことができるように、共に祈りながら、本当の意味での癒しというか、本当の意味での救いの恵みをわたしたちが味わっていけるように。特にこのコロナの中で負けないで、主と共に歩んでいけるように。

自分の心を清い水で、水路のように神の恵みを自分の心の中に行き渡らせるような。それはイエス様からくる恵みですから、イエス様とマリア様に聞きながら、歩んでいけるように、心を合わせて祈りましょう十

第一朗読  箴言 21:1-6、10-13

主の御手にあって王の心は水路のよう。主は御旨のままにその方向を定められる。人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる。神に従い正義を行うことは いけにえをささげるよりも主に喜ばれる。高慢なまなざし、傲慢な心は神に逆らう者の灯、罪。勤勉な人はよく計画して利益を得 あわてて事を行う者は欠損をまねく。うそをつく舌によって財宝を積む者は 吹き払われる息、死を求める者。神に逆らう者の欲望は悪に注がれ その目は隣人をも憐れまない。不遜な者を罰すれば、浅はかな者は知恵を得る。知恵ある人を目覚めさせるなら 彼は知識を得る。神に従う人は逆らう者の家を識別し 神に逆らう者を災いに落とす。弱い人の叫びに耳を閉ざす者は自分が呼び求める時が来ても答えは得られない十

 

2020年 9 月 22日(火)
 年間 第 25週日〈緑〉A 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記