カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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10-11 神の国の喜びを分かち合う

英神父 ミサ説教 聖イグナチオ教会 於

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マタイによる福音書 22:1-14
(そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに)たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
《「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」》

  マタイの福音書には天の国のたとえ話しが様々あって。最近の日曜日は、その主なお話を次々と読んでいるような形になっています。今日は天の国は、王子の結婚披露宴のようなものだということですね。ちょっと残念ながら今、コロナのおかげで、ほとんどの人がいっぱい集まるパーティそのものができないので、ちょっと心苦しいところもあります。

王子の結婚披露宴ということは、明らかに神の国の喜びというか、婚宴とかパーティーとかは明らかに神様の救いの喜びを表しているイメージです。そこに多くの人が呼ばれているのに、多くの人は仕事とかなんかで忙しくて、それにこたえなかったということを一つは語っているわけです。

イエス様がせっかく多くの人に救いの業を宣べ伝えながら、それにこたえる人が非常に少ないというのは、日本をみていてもそうですが、現実的にこのとおりだなと思います。ただここに集まっているみなさんは、日本の中では数少ないですけども、イエス様の招きにこたえて、この結婚の披露宴に、いわば招きにこたえて参加している方々だと言えるでしょう。そしてまたネット中継を見ている方々も、同じように神様の婚宴の喜びに、結婚式の喜びに、招いてくださった。その招きにこたえて、そしてその喜びを分かち合っていると言えるだろうと思います。

この神の国の喜びを、この結婚式のパーティーにたとえているというのは、非常に意義深いという気がします。皆さんも時々何がしかのお祝いのパーティーに招かれることもあるんじゃないかなと思います。

だいたいそのパーティーになんのために行くかといったら、大体二つぐらいの理由かなという気がします。もちろんその花嫁さんと花婿さんと知り合いで、やはり是非ともその喜びを分かち合いたいということで、そのパーティーに参加される方々もおられるでしょう。

もう一つは、パーティーに行けば知り合いに会えるので、その知り合いとの交わりを。ずっと花嫁さんと話しているわけにはいきませんから、参加したメンバーとの話し合いというか、旧交を温めたりするという、二つぐらいの喜びでパーティーに参加するんじゃないかと思えます。

そしてやはりこの二つともが大事だと思います。わたしたちが神の国に招かれているこの大きな喜びは、一つはこの王子様というのは明らかにイエス様のことでしょう。王様はということは父なる神様のことだと思います。神様との交わりや、自分が救われる喜びや恵み、慰め、それをこういうミサに出て味わえるということが、それが一番大きなお恵みが、この神の国の披露宴に招かれる喜びでしょう。

それと共に二番目のことはパーティーに参加している参加者同士の、一緒に食事をしたり、お話しをしたりできる喜びがあること。それも神の国で非常に大事だと思います。

パーティーというのはパーティーに参加した者同士が、お互い喋り合い分かち合いをしたり、そこに大きな喜びがあるということですね。

滅多にパーティーとかは参加しないですけども、ほんの時々呼ばれることもありますが、ただ呼ばれて参加を躊躇する時はどういう時かと言ったら、そのパーティーに知り合いが誰もいないであろうというパーティーに参加するのが、やはりわたしは人見知りだから、それが苦痛ではあります。行ったら誰も知り合いがいない。もちろん主催者とは知り合いですけれども、そこに来ている人々とは全然知り合いでなかったら、パーティーに出ているのが苦痛で、友達がいないと世間話しもする相手がいないし、最初から、あなた誰ですか、みたいなお話しをしなきゃならなかったりなどパーティーに出るのが億劫になるのは、パーティーに友人がいるかいないかっていうのが実はかなり大きい。誰か一人でも友人がいたら、その人と喋ったりするからオッケーなわけですが。

神の国も同じかもしれない。神の国の喜びは、神様との交わりだけが喜びではなくて、神の国に参加している人間同士の繋がりが、神の国の喜びだということですね。

この教会にしろ、やっぱり現代社会にしろ、人間同士のつながりが残念ながら、ちょっと弱くなってるということが、このお話の一つのポイントになるかもしれないです。神の国は神様と自分だけの世界じゃないということです。神の国は、神と自分と仲間とのつながりの中で神の国があって、その人間同士のつながりも、神の国の大きな喜びの中にあるということです。今日は変形的な教会祭というまでのことではないですけれど、教会のことをわたしたちが祈るときに、やはり互いのつながりということを、思い起こしたいと思います。

本来ならこの御堂もいっぱいの人と一緒にミサを捧げたいという、本当にそういう気持ちですが、こうやってソーシャル・ディスタンスをとり、ここにはほんのちょっとの人しか参加はできていないわけですけれども、でもそのディスタンスをとることが、人間同士のつながりを妨げるものになってしまったら、これは本当に残念なことじゃないかと思います。

そしてこの面白いのは参加者の中に「婚礼の礼服を着ていない者が一人いた」礼服を着ていないものが、パーティー会場から追い出されてしまうというエピソードが、この後半に出てくるわけですが。これも非常に印象的なエピソードだという気がします。

日本人は少ないから、同調圧力が強いですから。 TPO にふさわしい服装してる人がほとんどだと思われます。でも礼服とはいったい何のためにわたしたちが着るのか。礼儀作法そのものの本質は何かと言ったら、思いやりの心です。礼儀作法、礼服。だから結婚式のパーティーに招かれていたら、喜びを表す服を着るのが、当たり前のことでしょう。そしてお葬式に招かれたら、それは悲しみを分かち合う時ですから、悲しみを表す不幸をやはり着るべきでしょう。わたしはロックコンサートとかは行かないですけど、そこに背広で行ったらおかしいわけで、やっぱりそこにある喜びや悲しみやお互いのつながりを表すものが服装だということです。それは表現なわけで、心の態度を服装に表すということですから。喜びであれ悲しみであり、遊びであり、ちょっとフォーマルな集まりであれ、それは自分の心をそこに参加している人と分かち合う印として、ふさわしい服を着る。これは交わりの大切な表現だと思います。

神の国の喜びの中にいるならば、神の国のつながりをやっぱり感謝して、喜びを分かち合う態度を、服だけではなくて態度の問題も全部含まれています。そのようなつながりというか、あるいは教会のメンバーであるって事も、やっぱり同じだと思います。共に喜び共に悲しむ。共に歩んでいくっていう事を、姿で行動で態度で表していく、お互い同士がです。それが神様とのつながり、人間とのつながりを表しているごく自然なことだと思います。だからこの人が追い出されてしまうのは、やっぱり仕方がないでしょう。だからミサに参加する、あるいは教会の集まりに集まるということも、互いに心を合わせるということです。

今のミサは別で、一昔前は男性は必ず背広とか。あまりドレスコードはないですが、やっぱり服装だけのものじゃなくて心がけです。心と表現とつながりの一つの表すものとして、わたしたちがどのような態度で神の国、そして教会のつながり、社会のつながりも全て、そうだと思いますが。そのような心を大切にしていきましょう。

コロナの中でもこのイグナチオ教会として、なるべくめげずに参加できる人は参加して。できない人はネットでとかで、様々な形で繋がっていこうとしていますから、そのような神様とのつながり、互いのつながりを大切にしながら、これからも歩んでいけるように、共に心を合わせて祈りを捧げたいと思います十

第一朗読  イザヤ書 25:6-10a
万軍の主はこの山で祝宴を開き すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布と すべての国を覆っていた布を滅ぼし 死を永久に滅ぼしてくださる。
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい 御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。
この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。主の御手はこの山の上にとどまる。

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 4:12-14、19-20
(皆さん、わたしは、)貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。

わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン+