カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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11-1 大丈夫 イエス様がそばにおられる

英神父 ミサ説教  イグナチオ教会於  初聖体

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マタイによる福音書 5:1-12(そのとき、)イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」十

 この記念の日にあたって、今日のイエス様の言葉を、みなさんはできれば心にしっかりと刻んでほしいと思うんです。有名な言葉なんですが「心の貧しい人々は、幸いである」とイエス様がおっしゃったんです。でも日本語としてちょっとおかしいでしょう。普通は心が豊かな人が幸せなはずで、心が貧しい人っていうのは、あんまり幸せじゃないと考えるのが普通でしょう。心が豊かで満足していて、心があたたかくて、そういう人々こそ幸せだと考えるべきだと思うんです。

次もそうなんですけれど「悲しむ人々は、幸いである」とイエス様がおっしゃるんですけれども、でも悲しむ人々は普通は幸いじゃないですよね。喜んだり嬉しい気持ちがする人が幸いというか、幸せだと思うんです。イエス様は何でこの心の貧しい人々や悲しむ人々に、幸いだって言ったのか。それは、簡単に言えばイエス様が言ったからなんです。あるいはイエス様がそこにおられるから、これが成り立つということなんです。

皆さんもあるでしょう。心が貧しいっていうか、普通の言葉で言ったら心細いこととか、心が寂しいとか、不安になったり何か恐れを感じたりする時があるでしょう。でもその時にイエス様がみんなに大丈夫だって言っているのが、この言葉の本当の意味なんですね。幸いって書いてありますけれど、これはイエス様が皆に大丈夫だと言っているんですよ。あるいは悲しかったり怒ったり、辛い時が皆さんの中にあるでしょう。その時にイエス様がそばにいるから、大丈夫だってみんなを励ましているんです。

だから皆さんが今日、御聖体をいただいて、クリスチャンとしてこれから更に生きていく時に、この言葉を心にしっかりと刻んでほしいと思います。心細い時とか不安な時とか、悲しい時とか辛い時こそ、イエス様がそばにいて、大丈夫だって励ましてくださってるんですね。ここは細かく説明しないですけれど、この八つは全部が励ましの言葉なんです。大丈夫だから頑張って、落ち着いて、一緒に歩んでいこうと、イエス様がわたしたちに呼びかけておられるんです。

僕がみなさんと同じ小学生の時にお昼寝していたんです。ハッと目を覚まして起きたんですね。お父さん、お母さん、妹の4人家族だったんですが、その時誰もいなかったんです。パッと目が覚めた時に家に誰もいないから、ものすごい不安というか寂しい気持ちになって、どうしたのかな、誰もいないと思って、その時小学一年か二年か、一人で寂しくて寂しくて、一人で泣いてたんですよね。そういう思い出があるんですが、その時はまだクリスチャンじゃなかったんですよね。クリスチャンになったのはもっと後ですが。確かにお父さんお母さんが急にいなくなって、妹もいなくなっちゃったら、ものすごい不安で、寂しい気持ちがしてですね、家の中にたった一人でって、すごい不安な気持ちで。その後どうなったか覚えていないけれど。多分お母さんが帰ってきて、何の問題もなくなったと思うんですが。

でも今の自分が、小学生の時の自分に言ってあげるとしたら、例え家族が誰もいなくて寂しくなったとしても、イエス様がそばにいて、大丈夫だよって言ってくれていると、今の自分が子供の時の自分に言ってあげると思います。

だから大人として皆さんに、今日プレゼントすることはそういうことなんです。心が不安な時に寂しい時に、イエス様が大丈夫だって言ってくださっていることを思い起こしてもらったらいいと思います。

ではなんで大丈夫だって本当に言えるのかと言ったら、今日この後から、イエス様の体を皆さんの心の中にいただくからです。食べるって事は、イエス様がこの体の中に入ってくるわけです。食道を通って胃に。イエス様の恵みがみなさんの体の中に入ってくるんです。

これからみんな大きくなるために、いろんなもの食べるでしょう。毎日毎日ね。お菓子が好きな人とかチョコレートとか、あんまりそういうのばかり食べていたらお母さんが言うでしょう。栄養のあるものをちゃんと食べなさいと。あんまりお菓子とかジャンクフードばっかり食べてたら、お父さんとかお母さんに怒られると思うけど。栄養のあるものをちゃんと食べたらいい。人参とかピーマンとか、みなさん何が嫌いかは分からないけれど。そういう栄養になるものをちゃんと食べなさいってみんな多分言われる。お肉もお魚もバランスよく食べなさいって言われると思うんですけれど。でもそれは体のために必要なんです。

では心の成長のために、一体何が必要なのか。イエス様が必要なんです。みなさんの寂しさとか不安とか、それを越えて心を成長させていくために、今日いただくイエス様のお恵みが必要なんですよね。

だから今日、御聖体をいただいてから、今は毎週ミサに預かれないでしょうけれど、教会学校のミサもあんまり頻繁には今はやっていないでしょうけれど。でもミサの度にこれからは、みんなイエス様を頂けるんですよ。それは本当の糧として、みんなの心と体の中に入ってくるお恵みなんです。味といっても何の味もしないんですけれどね。今日食べてもらったらわかるけれど、あまり美味しくも、不味くもない、味的には。でも心の栄養の塊なんです。

それを皆さんいただいて、イエス様と共に、毎日の生活を喜びと感謝のうちに、元気一杯ですね、歩めるように、心を込めて共にお祈りを捧げたいと思います十

 

第一朗読  ヨハネの黙示録 7:2-4、9-14
わたし(ヨハネ)はまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。
この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。
「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」
すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。

第二朗読  ヨハネの手紙 一 3:1-3
(愛する皆さん、)御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。

 

 

 

 

 2020年 11 月 1日(日)
 諸聖人〈白〉A 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記