カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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11−08 謙遜 祈り 愛徳のわざ を兼ね備える

 

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会於      

   

                     

https://youtu.be/fuX3VWCq_b4

マタイによる福音書 25:1-13
(そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。)「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」十

 今日の福音書は、賢い乙女と愚かな乙女の対比のお話ですね。マタイ25章。これは世の終わりの心構えを書いてある箇所であると言われてます。11月になると教会のカレンダーは終わり頃になってですね、11月はだいたい死者の月で、それと世の終わりをだいたい黙想したりする。今日の箇所はその一環として読まれたんだろうと思います。

賢い乙女たち、肝心なところでともし火をともしてですね。しかもある程度の時間がかかったんであろうと思われますから油が必要だった。でも愚かな乙女たちは油を用意していなかったという話ですね。

もちろん例え話なので、やはりわたしたちは考えなきゃならないわけですが、ともし火というのは一体何なのかということと、油というのは一体何なのかということですね。これはいつ読んでも割と問いかけられることの一つの箇所だとわたし自身思ってるんですけども。このともし火をともすということなんですね。ともし火をともすのは今の時間のように夜にともすわけですよね。あるいは夜だからこそともし火をともさなきゃならない。昼間というのはつける必要性はない。夜というのは明らかに聖書的には世の終わりの混乱のことを語っていると思われます。普通で言うならば危機の時ですかね。非常に困難の時のことを言っていると思うんですけども。困難の時にともし火をともせるかどうかっていうのはまた一つ大きな問いではあります。

やっぱり暗闇に負けちゃうんですよ。暗闇の力にわたしたちは。流されてしまって、その時にともし火をともせるかどうかっていうのは、実は大きな問いかけではあるわけですけれど。プラス、ともし火をともし続けるために、油が必要です。油の方は昼間に用意しとくものでしょう。つまり普通の時にまさかの時に備えて、用意しとかなきゃならないものだということですけど。じゃあ、それはいったい、まさかの時に備えておくべき油って一体何なのかということですね。そういう問いとですね、ともし火は何なのかということと、油というのは何なのかですね。なかなか問われていることは大きいと思っています。

例えば、そろそろ十年になりますけれども、東日本大震災があってからあと半年ぐらいで十年になるんですけれども、やはり直後の混乱の中でですね、そのことをよく思いおこしますが、あの時ともし火をともせたかどうかということですね。あの混乱の中でみなさんがどういう状態にあったか人によっては違うでしょうけれど、一つの事なんでしょう。混乱の中でやっぱり自分のことで精一杯とか、いろんなことで特に東北地方の方々はそうだったんですけれど。なかなかそれも難しい。

二番目の油を準備するというのもそれほど簡単なことではない。この東日本大震災の後、福島はちょっとだけで、主に釜石にずっと関わっていて。今も関わっているんですけれど。この九年と半年の間の色んな変化を見てて、やっぱりともし火をともした人はたくさんいたんですね。ボランティアに行ったりしてですね。わたしはちょっと行ったくらいですが。やはりどっぷり関わった人で、長続きした人はあんまりいないんです。途中で油が切れちゃう感じで、燃え尽きるというか、力尽きて支援の現場から去っていった人を何人も思い起こされるんですけども。だからともし火というのは瞬間につけるんじゃなくて、ある程度の時間はつけなければならない。するともうダウンしちゃうんです。やっぱり油が十分にないダメなんですよね。九年と半年ですが、ずっとできている人もいますね。多くの人は何年間で撤退というか、見てると疲れ切ったりいろんなことですけれど。

今はコロナが長引いていて、また一つの別の危機にわたしたちはいるわけですが、今はちょっとましになっていますが、今から冬に向かって厳しい状況が来るんではないかという気がしますが。その中でやっぱりともし火を私たちがともしていけるかということなんですね。ともし火ともすにあたって、今わたしたちは油を準備してるかどうかっていう、今はちょっと戻っているところが多いですから。なかなかこれも大きな問いだと思います。

一番大きなともし火がなんなのか。わたしたちクリスチャンにとって。話しが飛ぶようですが、本当のわたしたちのともし火の一つはですね、殉教するということなんですよね。二千年の長い歴史で、日本の教会の中でも大先輩たちが何人も何人も殉教している。すごい数の人が殉教している。それは明らかにともし火をともすことでしょう。真っ暗闇で迫害されて、ものすごい厳しい中で、ともし火をともして、自分の命を捧げる。それが最大のともし火をともすという。一つの事例でしょう。願わくば私たちが生きている間に迫害がないことを願いますけれど。それもいつどう転んでどうなるかわからない。

それで殉教の状況も突然ではなくてだんだん迫ってくる。当時のイエズス会員がいたわけですけれども、当時の書物とかですね、殉教の心構えとか殉教の勧めとか、日曜日の説教でもそんな話ばっかりだったんですよね。神父さんもそれに備えましょうとか、どういう心がけてとか。まさしくそれは油を用意しておくという一つの準備期間もあったわけです。実際迫害があって、もちろん神父様の中でも転んだ人もいれば、殉教した人もいるし、信者さんの中でも転んだ人もいれば、殉教した人もいるし。一つの地域では隠れた人たちもいるわけですけど。様々なある意味悲劇とそこに一つの大きな何か栄光と何か輝いた時ではあったわけですが。でも殉教の心構えというのはどういうのかっていうことなんですけどね。三つないし四つあるんですけれど。一つは殉教の心構えを当時のイエズス会の神父様が問いているのは何かといったら、一つは謙遜だというんですね。一番大事なのは謙遜を持って生きていく。なぜかと言ったら、殉教するというのは人間の業では絶対出来ないからですね。自分の力に頼ったら、絶対出来ないので謙遜の心を持って生きる事が一番大事。油を準備するというのがある。実は一番大事なことだと言われてた。

二番目が祈る。オラショ。やっぱり祈りをしっかりするってことは絶対必要。神の恵みを中でしかともし火をともせないので、祈りなしには不可能。だからもう一生懸命祈るっていうことが大事なこと。

三番目は何かっていったら愛徳のわざなんですね。困ってる人をどんな時でも助ける気持ち、愛徳のわざ。謙遜、祈り、愛徳のわざ。それを考えるならばある意味、私たちの日常生活で行う基本だと言えるでしょう。つまりともし火をともすかともさないかともかく。このコロナの中でもわたしたちはそうでしょう。まず必要なのは謙遜な心ですね。コロナの侵入とか止められないですから。もちろん一人一人は準備、心がけが大切ですけれども。でもいかに人間は弱いかっていう。小さなウイルスにすら勝てないわけでしょ。わたしたちがどれだけ謙遜な心を持てるか、持つかっていうことと、あとは祈ることと、ミサも今はそれほど自由に参加できないわけですが、その中でも祈りにどれだけ力を注ぐことができるか。そして愛徳のわざ。周りの困っている人を助けられるかどうか。それは本当に日常生活のごく普通のことでもあるし。危機に備える生き方でもある。結局それはやはり変わらないということでしょう。

わたしたちがこの三つを大事にしながら、日々の生活の中で油をしっかり蓄えるような心構えを養っていきたいと思います。

もう一つ言うと、殉教できた人とできなかった人の大きな違いはですね、共同体のメンバーであったかなかったかっていうのは、じつは大きなポイントなんですね。殉教した人のほとんどすべては、共同体のメンバーだったんです。仲間と共に殉教したんですね。孤立した信者で殉教できた人は一人もいないんです。一人になってしまった時に、人間は弱いから、すぐ転んじゃったんですね。だから本当に仲間がどれほど必要なのかってことも、今コロナになってもやはりそうだと思うんですよね。少しでも信仰を分かち合って、助け合って励まし合う人がいるかいないかは本当に大きなことだと思います。今はネットとかありますけれども。

この油を用意する事の一つが、仲間と共にということも本当に実は大事なことだと思います。もちろん殉教ほどの危機は来ないと思いますけれども。それでもわたしたちは個人的に様々な危機があった時に、助け合う人がいるかいないかというのが、天地の差ほどの差があるんではないかと思います。できればそういう仲間づくりというか、仲間と共に、家族でもそうですよね。家族の中で信者がいればそれ自身が本当のお恵みだと思うんですけれども。家族の中で一人だけ信者というのも多いかと思います。だから余計に信者同士の助け合いと言うか、関係も大事になると思います。

その他にもいろいろあると思います。しっかり日常生活の中で油を準備して、用意して、なんかあった時にともし火をともせるような、そういう生き方をこころがけられたらいいと思います。

一週間また日常生活の中に戻って、コロナの感染のリスクの中で働いてる方もおられるでしょうから、しっかりとわたしたちは謙遜な気持ちで祈りを深めながら、愛の心を持って、この一週間歩めるように、ともに心を合わせて祈りを捧げたいと思います十

 

 

第一朗読  知恵の書 6:12-16
知恵は輝かしく、朽ちることがない。知恵を愛する人には進んで自分を現し、探す人には自分を示す。求める人には自分の方から姿を見せる。
知恵を求めて早起きする人は、苦労せずに自宅の門前で待っている知恵に出会う。
知恵に思いをはせることは、最も賢いこと、知恵を思って目を覚ましていれば、心配もすぐに消える。
知恵は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き、道でその人たちに優しく姿を現し、深い思いやりの心で彼らと出会う。

第二朗読  テサロニケの信徒への手紙 一 4:13-18
兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
《主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。》十