カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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12-06 主の道を整え その道筋をまっすぐにせよ

英神父 ミサ説教  イグナチオ教会

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マルコによる福音書 1:1-8 神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 今日の福音書は、マルコによる福音書の一番最初のところです。この洗礼者ヨハネが、荒野から活動を開始するというところが朗読されました。洗礼者ヨハネはイエス様の救いをいわば準備するような、役割というか、道をあらかじめ整えるという使命があったわけですが、この荒野から始めたということなんですよね。日本の中には荒野はあんまりないんですけれど、イスラエルの国の南の半分ぐらいは砂漠というか、ゴツゴツした岩場みたいな感じのところが、延々と広がっていて、およそ人間の住めるところではないというか、いまだに誰も住んでいないわけですけれど。日常生活は街中というか農村とか、動植物とか人間のいるところで暮らしているわけですけです。洗礼者ヨハネは、荒野から救いの第一歩のメッセージを語ったということです。そのことはわたしたちも、しっかりと受け止めていくべきかと思います。

というのは今年の待降節、アドベントはまさしく新型コロナウイルスの感染拡大期に、ちょうど合わさってきたということで、例年のこの時期というのは街中も、もうちょっと賑やかで華やかな感じで、イルミネーションだけでなしに、やたらクリスマスソングがあっちこっちから。いわゆる歳末のクリスマスバーゲンセールかなにか。忘年会とか、クリスマスパーティーとか、騒がしいというか、非常に華やかです。だいたい12月ですけれども、今年はコロナウイルスのおかげで、非常にしんみりしたというか、盛り上がらない12月という感じになった。

でもこれは荒野の中に置かれている、わたしたちが。そういう意識で日々を過ごしたらいいかと思います。むしろ今年こそが一番待降節らしい待降節を過ごせる時かもしれないと思います。

皆さんもわたしもそうですけれども、今いわゆる忘年会とかクリスマスパーティーはほとんどないと思うんです。だから、しんみりと12月を送らなければならない。でも本来はイエス様の誕生を迎える時は、荒れ野の気持ちで、むしろあんまり騒がしかったり、人と会って、どんちゃん騒ぎしない時期で設定されていると思いますね。今年こそわたしたちは、本当の意味で待降節を洗礼者ヨハネの荒野の気持ちっていうか、つまり今の環境を、まさしく心を整えて、主の道を整えて、道筋をまっすぐにする時として、受け止めることが出来るのではないかと思います。

新型コロナウイルスが終われば、どうせいつものどんちゃん騒ぎの12月に戻ってしまうでしょうけれど、今年はそうでないからこそ、イエス様の誕生をじっくりと待ち望む心の準備を整えたいと思います。

今だけが荒野ではなくて、今年2月ぐらいからもずっと荒野だと言えるでしょう。人との関係、人との関わりは、家族以外の人とは接する機会も非常に減ったでしょう。みなさんの中で、go to イートや go to トラベルに、でかけた人もおられるかもしれないですけれども、あれは反動でやりたくなる気持ちも分かります。自粛すればするほど、どこかに行きたくなる。我慢すればするほど、外食に行きたくなる人間の気持ちですから。だから政府だけの良いとか悪いとかの問題だけではなしに、そういう気持ちも分かりますが、ただわたしたちは荒野を過ごす。人との関わりや交わりをなるべく減らして、世間との付き合いもなるべく置いて、神様に向かっていく心を、今こそ整えたいと思います。

古来からユダヤ人の伝統で、荒野というのは特別な意味があるんです。エジプトを脱出して、荒野を40年間彼らは旅をしなければならなかったし、今日のイザヤ書の引用で実際はバビロンから囚われている、バビロン捕囚から荒野を通って、イスラエルに戻るという、そこを描いているんです。荒野を通らなければ、約束の地に戻れない。特別な試練であり、恵みなんです、荒野というのは。

そしてユダヤ教の中の予言者達っていうのはだいたい荒野に住んでいるんですよ。街中に住んでいない。荒野というのはどういうところか。試練であり、恵みのところなんです。何が試練かというと、荒野というのは、元々人間が生きているところではないですから。獣とか動物とか、そしてイエス様の荒野の生活を見れば、悪魔も出てきてですね。結局荒野というのは、悪と対面するというか。あるいは人間の罪を見つめる場所であるわけです。そういう意味で試練だけれど、自分の弱さや至らなさ、罪をしっかり見つめる場所ではあるわけです。だから皆さんもこの2月からいつもと違う非日常の中で、思わぬ自分の弱さや、あるいは思わぬ苦しみに出会った方も多々おられるでしょう。普通の生活をしていたら、全く分からなかったような、何か様々な、こんなことに引っかかっていたんだとか。こういう弱さとか、人間関係でも、こういうところに問題があるとかということに、気づかれた人もいるでしょう。でもそれはお恵みだということです。それこそがお恵みだということです。悔い改めるための。日頃の生活で分からないことに気づけることは、大きなお恵みだということです。だから今日の洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼、悔い改めるということができるわけです。もちろん日常生活でも弱さはあるんですけれども、特別な時に分かる弱さや人間の醜さや、自分の醜さかもしれない。周りの醜さかもしれないですけれども。それを気づけるところから出発だと思います。それを悔い改めるところから、気づいてそこから神様に変えてくださいと願うところから、一人ひとりの救いが始まると思います。

そして荒野というのは試練の場所でもありますけれども、恵みの場所でもある。つまり神と出会う場なんです。日常生活のことでごちゃごちゃしていたら、多分日常生活のことばっかりだから。神様に心が向かわないですよね。荒野の中でなんにもないからこそ、神様と本当に向き合える。そして神の恵みを本当に味わえるのは荒野の中なんです。預言者とか、ユダヤ人の試練の中でもですね。だからわたしたちは、この待降節の時を荒野の時として、この恵みの時として過ごしたいと思います。一つは自分の罪や弱さに気づくということと、もう一つはこういう時だからこそ、恵み。本当に感謝することは何なのか。本当に私たちが喜ぶ所はどこにあるのか。何を自分が本当に望んでいるのかですね。それをしっかりこの神様と向き合うというか、神の恵みを振り返る時にしたいと思います。

そのような荒野の時があるからこそ、イエス様の誕生を私たちは心から喜んで迎えることができると思いますね。イエス様も実際は馬小屋で生まれたんですから。荒野といえばオーバーですけれども。でも家の中ではなくて、外れですよね。そうなるとやはりエジプトに旅をするのだから。荒野にすぐに行かなきゃならなかったわけですから。イエス様自身、マリア様、ヨセフ様だって、いつもの快適なところにおられたわけでは全くないわけです。ベツレヘムに旅をするところから一種の荒野が始まっているわけですから。そのことを思いながら、わたしたちが本当に神の恵み、わたしたちの人生で、わたしたちの周りこそ、新しいイエス様が誕生してくださるように、新しい光、新しい生き方、新しい自分が変わっていく。きっかけや希望。それを見出していけるように、この待降節を有意義なものとして、いつもとは違うからこそ、有意義なものとして過ごせるように、心を合わせて祈りをささげたいと思います+

第一朗読  イザヤ書 40:1-5、9-11
慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口が(そう)宣言される。
高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ 良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるなユダの町々に告げよ。
見よ、あなたたちの神 見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ 御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い 主の働きの実りは御前を進む。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。

第二朗読  ペトロの手紙 二 3:8-14
愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。