カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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12-13 いつも喜んでいなさい 絶えず祈りなさい どんなことにも感謝しなさい

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会於

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ヨハネによる福音書 1:6-8、19-28
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

 今日の福音書も洗礼者ヨハネについて語られています。洗礼者ヨハネは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」荒れ野で叫ぶ声だというわけですが。今のわたしたちは、新型コロナウイルスの感染症拡大で、また荒れ野に近づいてるという気が非常に強くしています。
わたし自身の実感で言ったら、緊急事態宣言を出すぐらいの状況じゃないかと個人的には思っています。gotoキャンペーンすら止めていない状況ですから、問題ではあると思いますけれども。もう感染者のことはあっちこっちで。今まではあまり感染した人のことをほとんど聞かなかったですけれど。今はあっちこっちで感染者のことを聞くようになって、非常に危ない状況がひしひしと近づくのを感じている気がします。わたしたちはまさしくこの荒れ野の中にいるというですね。そういう自覚を持たなきゃならないと思います。
なかなか2月から続いているものであって、半分慣れっこになっているところと。あるいはさらにもう一度、これ以上自粛をするというですね、何か心理的な抵抗感もありますけれども。でも感染症はわたしの感覚ですが、これからが一番厳しい。この冬ですね。いま始まっている感じです。この冬はもっと厳しくなるという感じなので、これから覚悟を決めていかなきゃならないかなというような、深刻な危機的状況になっているんじゃないかと思います。
聖書的にいうと今日の箇所でいったら、荒れ野の中にわたしたちはいるという、覚悟を決めなきゃならないでしょう。忘年会とかもやってるどころの話しじゃないという感じだと思います。わたしたちがその荒れ野の中でどう生活するのか。洗礼者ヨハネは、この荒れ野の中で叫ぶ声だというわけですね。そこでこそ洗礼者ヨハネは預言者だったからでしょうけれども、やはり使命があって、語らなきゃならない。人々に対してですね。荒れ野の中でこそ語らなきゃならないことがあったということですね。
わたしもよく感じることで、やっぱり伝えなきゃならない。
昨日一昨日から教会の公式インスタと公式 Twitter を始めたんですが、わたしの Twitter も2ヶ月ぐらい前からちょっとやったりですね。何か荒れ野だからこそ、語らなきゃならないことがあるし、荒れ野の中でこそわたしたちは果たさなければならない使命が、御一人御一人にあるんじゃないかと思います。
わたしたちがクリスチャンで召された以上、そこで語り、そこで果たしていくことが、危機の中でこそわたしたちはあるという、そういう自覚が改めて必要でしょう。それはどういうことか。
今日は待降節第3主日なので、わたしもちょっと変わった祭服を着ていますけれども、喜びの日なんですよね。第一朗読でも「わたしは主によって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。」第2朗読の最初も「いつも喜んでいなさい」いつも喜んでいなさいという、これは有名なところですけれど「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」ですけれども、こういう危機の中でこそ、どういつも喜べるのかということですね。景気がいい時とか、調子がいい時に喜ぶのは当たり前ですけど、「いつも喜んでいなさい」ということですね。特に危機とか苦しい時にこそ、わたしたちはあえて喜びを見い出さなきゃならないということですね。いつも喜べる、そういう喜びというのは、消えていく喜びの話しではないでしょう。お酒を飲んでいるのも喜びですが、シラフになったら消えていく喜びです。いつも喜べる喜びを、わたしたちはしっかり見い出さなきゃならない。それは主から来る喜びであって、信仰の喜びでしょう。
そして危機の時は、あえて喜びをお互い見つけて作らなきゃならないと思います。勝手に来るものでもない。互いに喜べるように、わたしたちはこういう時こそ喜びを見い出し、喜びを作っていく。何のためかと言ったら、苦しんでいる人々を励ますためですね。自分自身が苦しんでいたら、まず自分自身を励まさなければならないと思います。
新宿のルミネがあって、だいたい月に何回かお葬式があるから、車で新宿南口を通るんですが、新宿ルミネのキャッチコピーというのは、尖っていたり、なかなかと思う言葉が多いんですよね。あれを作っている人は、超一流のコピーライターだと思いますけれども、クリスマスにあたってキャッチコピーが今は「ほめよう。わたしたちを」励ましの言葉です。やっぱり、今こそわたしたちはお互いを褒め合う。耐えてきた自分たちを褒めたり、励ましたり、喜びをどこかで見い出していく生き方を、今こそ本当に求められていると思います。それを見つけていくことを、この待降節の目標にしたいと思います。
イエス様が誕生するという、大きな喜びに向かってわたしたちは歩んでいるから、この喜びを見い出し、この喜びを分かち合っていけるように、小さな喜びでいいですから、それを今週の一週間、見い出しながら、分かち合いながら、それをつくっていく。そのような形でこの待降節を過ごしていけるように。喜びを分かち合っていけるような日々を、毎日を大切にしていけるように、神様に恵みを願いましょう 十

 

第一朗読  イザヤ書 61:1-2a、10-11
主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年 わたしたちの神が報復される日を告知(させるために)
わたしは主によって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ 花嫁のように宝石で飾ってくださる。大地が草の芽を萌えいでさせ 園が蒔かれた種を芽生えさせるように 主なる神はすべての民の前で 恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。

第二朗読  テサロニケの信徒への手紙 一 5:16-24
(皆さん、)いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。