カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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12-20 お言葉どおり この身に成りますように

英神父 ミサ説教  イグナチオ教会於

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https://youtu.be/1XYHajlUbvM

ルカによる福音書 1:26-38(そのとき、)天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った+ 

   今日の福音書はルカの1章、非常に有名なところだと思います。マリア様が天使ガブリエルからのお告げを受けて、イエス様を御懐妊される。マリア様の受諾するところですね。神の呼びかけに対して。マリア様の「お言葉どおり、この身に成りますように。」ガブリエルを通して、神の呼びかけに対して、マリア様が「はい」と応える。ここから救いの歴史が開始して、そしてこのことがあってこそ、イエス様がこの世に誕生されるわけです。
「お言葉どおり、この身に成りますように。」神様に委ねる気持ちいうことは、わたしたち皆にとって信仰者のいわば基本的な心の態度というか、信仰の置きどころではないかと思います。それはマリア様にとって、あるいはわたしたちにとってもそうですが、乙女の女性が、今の日本語でいったら処女の女性が、聖霊によって身ごもるというのは、なかなか考えにくいことで、信じられない人には説明しにくいことですが、マリア様自身がそれを驚いたわけです。「どうして、そのようなことがありえましょうか。」マリア様自身が、それは信じられない気持ちだったわけです。
それに対して天使が、丁寧に説明をしたので、あるいは天使とマリア様が話し合って、それで結局マリア様は受諾するということです。
わたしは「どうして、そのようなことがありえましょうか。」という言葉が大切だという気持ちがあります。この後マリア様が、エリザベトの所に行ったり、あるいは子供が産まれるのがベツレヘムで、しかも馬小屋でということになるわけです。その度ごとに、マリア様は心の中で「どうして、そのようなことがありえましょうか。」とつぶやかざるを得なかったのではないかと思います。
その後はエジプトに逃げなければならなかった。マリア様の人生をみたらハプニングの連続で、その度に「どうして、そのようなことがありえましょうか」と言わざるを得ないことが何回もあったと思います。それに対して、その度ごとに「お言葉どおり、この身になりますように」と毎回毎回神様に委ねる気持ちを新たにしながら、歩まれたのではないかと思います。それはわたしたち皆の信仰の心構えだと思います。
今年はコロナのことで、どうしてこんなことが、とみんな思っているわけですけれども、でもそれも受け止めて、お言葉どおりになるように、神の御旨を果たせるように、気持ちを神様の方に向けられるかどうかでしょう。
コロナだけではない、一人一人の人生に、様々な困難や難しいことが起こってくることが多いですけれども、その度ごとにわたしたちは、「どうして、そのようなことがありえましょうか。」という気持ちになりますけれども、でもそこで神様との対話、自分自身との対話を通して「お言葉どおり、この身に成りますように」と受諾して、自分の道をはっきりと歩めるかどうか。
わたしたちの信仰というのは「どうして、そのようなことがありえましょうか」「お言葉どおり、この身に成りますように。」この二つの言葉の距離感というか、両方があるわけで、両方の言葉の距離をどう縮められるかということに、わたしたちの信仰の質が決まってくるのではないかと言えると思います。
ガブリエルとの対話は5分、10分ぐらいだったかもしれない。そんなにすぐにわたしたちは切り替わらないですから、何か大きな事があって、1ヶ月2ヶ月、何年も、どうして、そのようなことがあるのか。という気持ちになることがありますけれども、でも神との対話を進めていく中で、「お言葉どおり、この身に成りますように」と言えた時に、わたしたちはまた新しい一歩を踏み出すことができるのではないか。それこそがわたしたちに与えられている、信仰の恵みそのものではないかと思います。
今年はコロナの年なんですが、わたしはクラシック音楽ファンなんですが、2020年はベートーヴェン イヤーなんです。ベートーヴェン生誕250周年のお祝いで、正確には250年前の12月16日に生まれた。だから先週が250年の誕生日のお祝いで、クラシック・ラジオとかクラシック番組とか、ずっとベートーヴェンなんです。特にベートーヴェンばっかりだった。どの音楽番組を聴いてもベートーヴェン特集で、ベートーヴェン、ベートーヴェンというくらい、クラシックファンの人はコロナよりもベートーヴェンというくらい、一色に染まっていました。
色んな番組でベートーヴェンのことを聞いていたんですが、ある程度は皆さんもご存知でしょう。わたしも詳しくは知らなかったんですが、ものすごく大きな苦しみを背負いながら生きていたわけです。音楽家でありながら難聴。そして最終的には耳が聴こえなくなって、いわゆる聴覚障害になった。音楽家であって耳が聴こえないというのは致命的でした。
彼は30代の前半くらいに「ハイリゲンシュタットの遺書」という有名な遺書を書いているんです。32歳ぐらいです。自分はもうダメだ。6年ぐらいでだんだん耳が聴こえなくなって、音楽活動ができないだけではなしに、社交的な人間で、人と会って喋るのが好きなタイプなんですけれども、とにかく人と会っても何も聴こえなくて、それがどんなに苦しいかということを遺書に書いているわけです。だから仕方がないから人に会って、今みたいに補聴器もないし、手話もそれほどなかったのかもしれない。だからコミュニケーションの手段がなかったので、だからだんだん人に会わなくなって、どんどん孤立していきました。でもそれは彼にとって本心ではない。本当はもっと人と会って喋りたいんだけれど、だんだん喋れなくなって、人に会って何も相手が言ってることが分からないから、だんだんと絶望的な気分になって、遺書を書くんです。何で彼が遺書を書いたのか、細かいことは分かっていませんが、自分の財産は自分の弟に譲るとか、遺書ですから財産分与の事とかも書いてあるんです。
でも結局彼は死ねなかったんです。遺書を書いて死ぬつもりだったのか、あるいは自死し損ねて、自分の音楽家としての人生を終わりだから、区切りとして遺書を書いたのか。とにかく遺書を書いた理由と前後のことは分からないんですが、でも彼は死を意識して、とにかく自分の人生をここでやめる決意をして、その遺書を書くんです。
でも結局遺書を書いた後から、耳が全然聞こえなくなってから、彼の本当の名作でるんです。皆さんがよくご存知の、ベートーヴェンで聴く有名な曲は、全部その後なんです。その遺書を書いた後、傑作の森と言われるんですが、どんどん傑作を書いたのはその後なんです。だから彼は作曲した有名な曲は、彼自身は生きている間に一度も聴いていないんです。もちろん頭の中に楽想があったからかけたんですけれども。実際の演奏は何一つ聞いてない。傑作の数々です。それで遺書を書いてから25年後に亡くなるんです。だからある程度の歳で亡くなるんです。
でも彼はどうして、そんなことがあり得ましょうかと、苦しみをずっと背負いながら、でも彼は信仰が厚かったですから、やはり神様に信頼して、彼にとっては耳が聞こえなくても作品を生み出す。一方で彼はピアニストだったんです。ピアニストも聞こえなくてできなくなる。それもやめてしまうんですけれども、作曲に専念して、そこから大きな実りをもたらすわけです。多分その遺書が一つのきっかけになったのではないかと言われています。そこでいわばもう自分のとらわれを全ておいて、「お言葉どおり、この身に成りますように」という気持ちが決まったのは、その後からかもしれません。神様に全てを委ねてそこで、いろんな困難があっても、そこから本物が生まれてくるとも言えるでしょう。
彼は本当にクリエイターです。わたし自身も時々本を書いたり、こうして説教をしたり、クリエイターな気持ちがあるんですが、生み出すということなんです。でもそれはどれほど神様に委ねないと、いいものは生み出せないかというのは、自分自身もよく思うことでもあります。でもベートーヴェンは本当に死を意識して、自分が本当にダメだと思って、神に全てを委ねた後から、本物を生み出すことができるようになった。マリア様もイエス様を産み出した、そういう全てを神様に委ねた気持ちから、イエス様が産まれたんだと思いますが、その気持ちにわたしたちもやはり倣いたいと思います。
コロナのことや、一人ひとり難しいことが多々あるかもしれないですけれども、でも神に全てを委ねた時に、委ね切った時に、新たな何かが、皆さんの存在から、皆さんの働きから、皆さんの活動や生活から、新たなものが生まれてくるでしょう。それでこそ本当はクリスマスでお祝いできたら素晴らしいのではないかと思います。
このマリア様に倣って。そしてベートーヴェンは朝あまり聞けず、ベートーヴェンのようにガンとくるのは夕方に聞きますが、人間ってしんどいなという気持ちにベートーヴェンを聞く。朝はモーツァルトで軽やかにスタートすると決めて毎朝しています。
誰に倣うかはともかく、やはり神様に全てを委ねて、待降節とクリスマスを迎えられるように、心を込めて共に祈りをささげたいと思います+


第一朗読  サムエル記 下 7:1-5、8b-12、14a、16
(ダビデ)王は王宮に住むようになり、主は周囲の敵をすべて退けて彼に安らぎをお与えになった。王は預言者ナタンに言った。「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ。」ナタンは王に言った。「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。主はあなたと共におられます。」しかし、その夜、ナタンに臨んだ主の言葉は次のとおりであった。
「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。主はこう言われる。あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。
わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。民はそこに住み着いて、もはや、おののくことはなく、昔のように不正を行う者に圧迫されることもない。わたしの民イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。
《あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。》
あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」

第二朗読  ローマの信徒への手紙 16:25-27
(皆さん、)神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。