カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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210101 神の母聖マリア 平和への道のりとしてのケアの文化

  

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英神父 ミサ説教 イグナチオ教会於

ルカによる福音書 2:16-21 (そのとき、羊飼いたちは)そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、彼らは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である+

   1月1日は、神の母聖マリアをお祝いする祭日にあたっています。そして同時にカトリックでは、世界平和を祈願する日にあたっています。それに合わせて教皇様は、毎年世界平和のメッセージをこの日に発表されて、日本語は中央協議会のHPに掲載されているので、興味ある方は見てくださったらいいと思います。

今年の教皇様のメッセージは世界平和を築くために、必要なことはケアをしていく気持ちだというんです。英語でケアというのは、日本語でいったら心遣いとか、あるいは実際に世話をしたり、何かを手入れする時にケアという言葉を使います。

ケアの心を大事にしていきましょう。というメッセージで語られました。確かにわたしたちが大きな平和は政治家とかの仕事でしょうけれども、わたしたちの周りで築いていく平和は、小さなケアの気持ち。あるいは実際ケアをしていく、そのような中で築かれる。だから1月1日にあたって、あるいは今年を生きていくにあたって、わたしたちがケアを心がけていく。それを大切にしていきたいと強く思います。

今日のところでは、マリア様とヨゼフ様が馬小屋でイエス様を産むことになり、そして飼い葉桶に乳飲み子であるイエス様を寝かせた。そこに羊飼いたちがやってきて、そして経験したことを話した。それを聞いて人々は非常に不思議な話しだと思ったのですが、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」そこでマリア様が何を思い巡らしたのか。そのうちの一つは明らかだと思います。神様がどれほどヨゼフ様にしろマリア様にしろ、ケアをしてくださっているか。神様の具体的なケアがあるということを、マリア様は噛み締めていたのではないかと思います。

多分この時、マリア様もヨゼフ様もクタクタだったと思います。宿屋に泊まるところが、泊まれないとか。ハプニングが連続で非常に心細い気持ちもあったでしょう。そこで羊飼いたちが訪ねてきて、ヨゼフ様とマリア様は非常にホッとしたのではないかと思います。寝るための道具が揃ってなかったかもしれないし、夕食も満足に食べる暇は無かったかもしれない。でも羊飼いたちが、何かほんの少しの物でしょうけれども、それをマリア様とヨゼフ様にプレゼントしたのではないかと思います。それでヨゼフ様とマリア様は馬小屋でゆっくり温かく、しかも何か食べるものがあって、休むことができたのではないかと思います。それは羊飼いを遣わせてくださった神様の気遣い。まさしくケアの心。それをマリア様とヨゼフ様は感じたのだと思います。

わたしたちも神様から守られている。神様の極、小さなことを通して、気遣いや心遣いがあるということを、それをわたしたちはしっかり、マリア様のように受け止める。それは出発点でしょうし、神様のケアの心を受けて、わたしたちも周りの人々に対する心遣いをしていく時だと思います。

クリスマスカードや、今日は年賀状が皆さんのところに来ておられる。あるいはメールとか。そういう時は本当に自分の友達やしばらく会っていない人たち。そういう人たちに対するケアの心を思い起こすチャンスでしょう。特に今年は帰省できない人が多いでしょうし、日頃会う人とも会えないような状況の中で、こういう時こそケアの心を、まず心遣いを気遣いを通して、まさしくマリア様の心を通して、周りの人に対する心遣いを思い巡らすチャンスではないかと思います。

マリア様はこのことを通して、神様のケアの気持ちを学んで、多くの人にケアの心を示したと思います。一番最初はエリザベートの訪問のところからです。あれも具体的なケアの一つのしるしでしょう。ヨハネの福音書の2章でカナの婚礼の時に、マリア様はイエス様にぶどう酒が足りなくなったと、イエス様に言うんですけれども、あれもまさしく心遣いの一つの表れですね。周りを見て、足らないものは何であるかということを見ていた。そのようなマリア様のケアの心に倣いたいと思います。

そして心遣いと共にコロナで制限されているからこそ、わたしたちはもっと、日頃よりも周りの人に対するケアの気持ちを心がけたいと思います。

今年は特にコロナの事があるので、生活困窮者がかなり増えるのではないかと予想があって。しかもお正月でいろんな事情で、いろんな支援団体が活動する場が限られていたので、今日と1月3日は教会をお貸しして、特にコロナで困っている人々の炊き出しと、生活相談会を開くことになっています。そろそろ準備がこれから始まるのではないかと思います。これも一つのケアの具体的な実践として、教会が今年は取り組みたいと。そこから教会の1年が始まるということも、個人的には嬉しい慰めの気持ちが感じられます。やはり困っている人に対するケアの気持ちです。それをわたしたちも何らかの形に表していきたいと思います。

あるいはみなさんの中でケアが必要な人もいるでしょう。様々なことで苦しんでいたり、教会に来れなかったり、そういう方々も何らかの形で、助けのサインを出していただくとありがたいと思います。教会としてどれほど応えられるか分かりませんが、どこかで羊飼いみたいな人が現れて、ちょっとしたサポートが得られるのではないかと思います。

パパ様が言います。ケアの文化をつくっていきましょう。助け合ったり思いあったりする、そういう文化を築いていくことが平和の道だと思います。教会、そしてわたしたちクリスチャンは、そのような気持ちは普通の人よりも強いと思います。それを改めて思い起こしましょう。

やはり必要な時には人から助けられる必要があるし、ちょっと余裕がある時は、わたしたちは周りに対するケアの心を何らかの形で表していく。そのような事を心掛けるならば、コロナの重い影に負けない、違う文化をわたしたちが築けるのではないかと思います。

東京の都会の孤独みたいなのを逆に強く感じます。無関心、自分の世界に閉じこもって、自分だけがいいというみたいな風潮が、こういう都会ほど強いのではないかと思います。そのような風潮にも流されず、なるべくケアの心を大事にしていけたらと思います。

今日のこのミサもそうですが、わざわざグループで申込みにしてある一つの理由は、誘い合って来てほしいということです。お互いに対するケアの心をもって欲しいという気持ちも入っています。なかなかグループがつくれない方もおられるでしょうけれども、それでもやはり互いに対する心遣いを持ちながら教会に来るというのは、本当に大切なことではないかと思います。

それは教会だけではない。仕事においても家庭においても、隣り近所の方とも同じだと思います。少しでもわたしたちが現代の流れに逆らうかのように、ケアの文化を少しづつつくっていけるように、それが平和を実現していく、長いけれども、一番確かな道ではないかと思います。

教皇様に心を合わせて、そしてマリア様に心を合わせて、わたしたちが少しでも平和を築けることが出来るように、互いが助け合って歩めるように、共に祈りをささげたいと思います十

第一朗読  民数記 6:22-27
主はモーセに仰せになった。
アロンとその子らに言いなさい。
あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい。
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らしあなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように。
彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう。

第二朗読  ガラテヤの信徒への手紙 4:4-7
(皆さん、)時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです+