カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆イエズス会 英隆一朗司祭の福音朗読 ミサ説教 講話などの公式ブログです☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆

210110 主の洗礼 神のあたたかさで放たれたもの

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会於 

      youtu.be

stand.fm

 

マルコによる福音書 1:7-11 (そのとき、洗礼者ヨハネは)こう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた+

   今日の福音書ではイエス様が洗礼を受ける場面が朗読されました。イエス様の洗礼といっても、皆さんは子供の時に洗礼を受けたから、どうだっか覚えてないでしょう。皆さんは額にちょっと水をかけて洗礼を受けた。大人もそうですが。皆さんの中で洗礼を受けた時に泣いた人も多かったでしょう。
でも、イエス様の洗礼というのはそうではなくて、ヨルダン川に入って、全身が水に浸るような、水浴びみたいな感じだった。そこから出てきたら「天が裂け」た。あるいは「天が開い」た。というんです。非常に不思議な表現です。ここの天井も塞がれていて、これが開いたら大変なことになります。でも、「天が開く」とはあまり聞いたことがないでしょう。あるいは青空を見ていても、天が開くのは見たことがないでしょう。天の向こう側に何があるかといったら、当時の考え方で神様の世界があるんです。だから天が開いてどうなったかといったら、「“霊”が鳩のように御自分に降って来」たと言うんです。向こう側の世界に神様の世界があるから、開いたらどうなるかといったら、空っぽではなくて、神様の恵みが滝のように降ってきた感じだったと思います。滝のように降ってきたのは鳩といっているんですけれども、多分鳩も一羽ではなくて、百羽とか千羽ぐらいが上から降りてきたんではないかと思います。つまり神様の恵みがイエス様に降ってきたという感じです。
分かりにくい表現ですが、ここを読むといつも思い出すのが、みなさんもご存知だと思いますが、イソップ物語に「北風と太陽」の競争があって、今日みたいにものすごい寒い日に、旅人が道を歩いているんです。そうしたら北風と太陽が、旅人の着ているマントをどっちが脱がすことが出来るかという競争をするんです。北風の方は、冷たい風を旅人にあてるんです。そうしたら寒いから、今で言えばコート、昔で言えばマントを握りしめて、体が震えるので、いくら強い風をあててもマントがとれない。太陽はどうしたかといったら、温かい熱のある光を旅人にあてるんです。どうなったかといったら、暑いから自然と旅人がマントを脱ぐというお話です。
確かに温かい日に太陽があたったら、自然とマントを脱いだ。それで、北風と太陽はどっちが勝ったかといったら、太陽が勝ったというお話です。
それはそのとおりと思うんです。これはマントの話しをしているんですが、本当はこのお話しのポイントはマントを人間の心に例えていると思うんです。
今、緊急事態宣言が出ていて、またかとか、うつったらどうしようとか、不安な気持ちになったりして、自分を閉じるような気持ちがあると思うんです。マントというのは人間の殻みたいなもので、心が閉じ籠るような気持ち。もちろん今はコロナが流行ってるからマスクしたりうつらないように自分を守らなければならない。でも、もっと大事なのは、それでも神様はわたしたちに太陽の光を注いでくださっているということです。
空とか天井が開いたということよりも、このお話のポイントは、イエス様の心が開いた。つまり心が開くと、神様の恵みがその人の中に入ってきたという話だと思うんです。「北風と太陽」のお話も同じで、いつもマントで心を握りしめていたら、悲しくなったり、辛くなったり、気持ちが滅入ってしまったり、へこんでしまったりしちゃうけれど、その時に皆さんの頭の上から神様の恵みが降り注いでいるような感じ。それに心を開いたら、温かいシャワーを浴びたら気持ちいいのと同じに、神様の恵みがシャワーのように上から降ってきている。だからイエス様は愛する子だと言われるわけです。
別の言葉で言ったら、日本語で言ったら、大丈夫だから、おまえはわたしの愛し子というか大切な存在なんだ。と神様が言ってくださることだと思います。
今はコロナで厳しい状態で緊急事態宣言も出て、自粛しなければならないから仕方がない。外面的にはマントをしっかり着て、うつらないように気をつけなければならないけれど、でも、心まで閉じちゃったら、悲しさとか不安とかが膨らんでしまうから、心は天井が開くように、自分の心を神様に向けて、開けて、熱いシャワーを浴びるように、神様の恵みが自分の心と身体に降り注いでくる。そういうイメージでお祈りをされたらいいと思います。そして神様が大切だよって呼びかけてくださっている。その気持ちを大事にしながら歩みましょう。その中でわたしたち一人ひとり神様からもらった役割も、果たすことが出来るでしょう。
皆さんは学校で勉強したり、制限された中で友達と遊んだり友達と助け合ったり。皆さんの中には学校の中で勉強を教えている子もいると聞きました。お互い友達同士で助け合いながら、歩んでいけるように、心を合わせて祈りをささげたいと思います+

第一朗読  イザヤ書 55:1-11
(主は言われる。)
渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。
穀物を求めて、食べよ。
来て、銀を払うことなく穀物を求め 価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか。
わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。 あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。
耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。
わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。
見よ かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし 諸国民の指導者、統治者とした。
今、あなたは知らなかった国に呼びかける。 あなたを知らなかった国は あなたのもとに馳せ参じるであろう。
あなたの神である主 あなたに輝きを与えられるイスラエルの聖なる神のゆえに。
主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。
神に逆らう者はその道を離れ 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。
天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。
雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。 それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人には種を与え 食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。

第二朗読  ヨハネの手紙 一 5:1-9
(愛する皆さん、)イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。証しするのは三者で、“霊”と水と血です。この三者は一致しています。わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです+

 

2021年 1 月 10日(日)10:00
 主の洗礼〈白〉B 年 こどもとともにささげるミサ
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記