カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆イエズス会 英隆一朗司祭の福音朗読 ミサ説教 講話などの公式ブログです☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆

210124 時は満ち 神の国は近づいた 悔い改めて福音を信じなさい

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会於

   youtu.be

stand.fm

マルコによる福音書 1:14-20
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

 今日の福音書はマルコの福音書のイエス様の活動の冒頭になるところです。イエス様がどういう言葉から活動をされたかというと、今日のところです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」この言葉からイエス様の活動が出発したわけです。大切な言葉だと思います。
わたしたちの生き方は、悔い改めて福音を信じていく生き方。そこから始まったし、そしてその生き方を今も続けていくということだと思います。悔い改めて生き方を変えながら福音を信じる。神様の恵みを信じてそれを生きていく。その生き方を繰り返していくようなものだと思います。
最初の実例がこの後に書いてあるシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネの召し出しのところです。イエス様に呼びかけられて、彼らは悔い改めて生き方をガラッと変えて、イエス様に従う生き方にいわば180度の方向転換をしていく生き方を選んでいるわけです。これをわたしたちも心がけられたら素晴らしいと思います。その悔い改めていく生き方を変えていくというのは、神の国が近づいてくるという、その恵みの中で変えられていくような。そういうものではないかと思います。
日本のカトリックの作家で有名な高橋たか子という方がおられて、もう亡くなられましたけれども、祈りをすごく深められた方で、小説も良かったですがエッセーも素晴らしかったです。わたしは好きでよく読んでいたんですけれど、フランスのパリに長い間生活していて、その時のことをエッセーなどに書いてある。パリの教会で朝晩、祈りを捧げていたという。平日は来る人が同じようなメンバーが来て、一緒に祈りをささげていたパリの一人の女性のことを書いていた。祈っている間に段々服装が変わっていくというわけです。祈りを深めていくうちにその女性が段々と薄化粧になってきて、指輪とかマニキュアとかとうとう無くなったら、その人は修道会に入るのを決めた、そういう時が来たと言う。悔い改めるということは神様の恵みの中でだんだんと変えられて、そこに大きな新たな喜びが湧いてきて、自然と変えられていくような。それが悔い改めて福音を信じていく生き方だと思います。
もちろんこれだから変えようと倫理的な決断をして、生き方を変えていくということも時には必要です。でもやはり私達は恵みの中で生きている。神の恵みの中で生きているわけですから、神の恵みに触れれば触れるほど、神の国が近づいてきて神の国に触れれば触れるほど、結局私たちの生き方がいつのまにか変えられて決断があるかもしれない。でもそれが高橋たか子と一緒に祈っていた人は、服装とかお化粧とかがどんどんシンプルになっていて、それで最終的にその女性が修道会に入る決断をしたというのは、すごく自然な流れではないか。それが私たちの生き方を変えていく一つの流れではないかと思います。
皆さんの中で成人洗礼を受けた方で経験があるでしょう。教会に来るようになったら前に楽しかった事があまり楽しくなくなってしまった。違う大きな喜びを自分の中で感じるようになって、いつのまにか趣味とか自分の生活が整えられたり変わっていく。そういう恵みを私たちは味わえることがあるのではないかと思います。
自分のことも考えてみたら、若い頃に洗礼を受けて、その後イエズス会に入る。どんどん趣味が変わって、音楽についてはクラシック以外は全く聞けなくなって、 j-pop とか全く興味がなくなって聴けないんです。三十年ぐらいそういう音楽を聴いていなかったんです。
雑談になりますが、ここの教会に来て、中、高生会や青年会の担当になって若い人と接していたら、また趣味が変わって j-pop の若い人の音楽を聴くようになり趣味が違うような感じになりました。また主任になって若い人の担当が外れたら、興味がなくなってきて、また今クラシック音楽しか聴かなくなりました。付き合ってる人とかの影響はあると思います。
とにかく私たちは福音を信じていく流れに乗っていくというか、祈りを深めたり、聖書の話を聞いていくうちに変えられていく。自然と福音を信じていく喜びが更に深まって、生き生きとした違う生き方ができる。そういう喜びだろうと思います。
みなさんがミサに預かって何か恵みを思い出して、明日からの一週間をまた新たな気持ちで歩める神様の恵みにかなった。その流れを大切にできたらいいと思います。
特に四人の弟子たちです。生き方もガラッと変ったわけですが、多分ペトロにしても、イエス様に何回か会っているうちに、心の中に動くものがあって、結局全てイエス様に従う。その時にどんなに大きな喜びと、彼らの中に何か新たな世界に開かれる、喜びと恵みの世界、新たにされるような気持ち。それこそは悔い改めて福音を信じていく具体的な中身だと思います。それをわたしたちも大切にしましょう。
時々逆戻りをしてしまうこともありますけれども、神の恵みに触れれば触れるほど、神様に似たものに少しずつ変えられていきます。それをわたしたちの信仰の喜び。福音の恵みがそこにある。それを日常生活の中でも見い出しながら、日常生活の中で福音を信じる生き方を少しでも歩んでいけるように。今コロナで色々できないことも多くて、気持ちがふさぎこんでしまうこともあるかもしれませんが、こういう時こそ神の恵みに触れて、福音を信じる喜びの生き方。恵み、生き方をしっかりと意識しながら歩んでいけるように、共に祈りをささげたいと思います +

 

第一朗読  ヨナ書 3:1-5、10
主の言葉がヨナに臨んだ。「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」
ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。
「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」
すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。
神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。

第二朗読  一 コリントの信徒への手紙 7:29-31
兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです+