カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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210207 心に主が触れてくださっている しるし

英神父 福音朗読とおはなし

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マルコによる福音書 1:29-39
(そのとき、イエスは)会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

 今日の福音書はマルコの1章、イエス様が活動を始められた最初の頃のところが出ています。シモンの姑が熱を出して寝ていたので、イエス様がそばに行って手をとって起こされると、彼女が癒やされたというお話がでてきます。
今はコロナウイルスのおかげで人と人とが接することができない。いわゆるソーシャル・ディスタンスをとらなければならないという形になっています。余計にイエス様がそばに行って手をとるというか、接するというか、イエス様は病気の人に触れられて、そして癒やされるという。こういうところが逆に心に響くような気もします。
一年と少し前、秋に二つの日本にとっては喜ばしいことがあって、一つは天皇陛下が即位されて、パレードをされて、ここのすぐそばを周られたということと、その後に教皇フランシスコが日本に来られたという、二つのおめでたいことが続いたんです。続いたから余計にそう思ったのですが、天皇陛下と教皇フランシスコは人との接し方が違うなと思いました。
天皇陛下はパレードで車が通り過ぎるのを見るだけで、みんな割と感激して、ありがたい気持ちになった人が多かったわけです。
教皇フランシスコは車から降りたら、東京ドームのミサでもそうでしたが、わざわざ赤ちゃんを抱き上げてキスをしたり、障がい者の人がいたら必ず寄っていって、まさしく声をかけたり触れられたりする。天皇陛下は日本人で日本文化と南米の人とは接し方が違うと言ったらそうですが。教皇フランシスコがああやって、信者さんとフランクに接している姿は本当にイエス様の姿を思い起こされる気がします。ただ単に遠くから拝んで崇めるというよりは、近づいていってイエス様のほうが。そして実際に触れられたり、手をとって起こされるという。神様のほうがわたしたちに近づいてきて触れてくださるという。そしてわたしたちが起き上がる力をわたしたちにくださるということですから、これは本当に大きなお恵みではないかと思います。
ただわたしたちは今、ミサも制限されて満足にあずかれる状況ではなくなって、今日も御聖体を礼拝しているわけです。でもわたしたちは神様と触れ合うということの、制限された中だからこそ新しいしるしを見い出していく必要性はあるかもしれない。
イグナチオ教会の教会報、マジス2月号で、コリンズ神父様が従来のしるしが制限されているので、新しいしるしを見つけなければならないと巻頭言に書いておられていて、本当にその通りだなと思います。神様は無限な方ですから、いろいろな形でわたしたちにしるしを通して語りかける。そしてわたしたちの心に様々な形で主が触れてくださっている。そのしるしをわたしたちが見い出していくということが大事なことだと思います。
ネットでミサにあずかる。そういう方も多くなりました。やはり新しいしるしを見い出して、そこでわたしたちは神様と接して力を頂くということです。新しいしるしをわたしたちは見い出していくことが出来るならば、やはり今も神様から力を頂くことが出来るのではないかと思います。
東日本大震災からそろそろ十年になろうとしているんです。あの時に様々なことがありました。教会のそばに住まわれている方が被災されて、家は大丈夫だったのですが、色々被害があって、それですっかり気持ちが落ち込んでしまって、死にたいと、力が無くなって仕事も無くなってしまって、非常に力を落とされ、いつ死のうか、いつ死のうかと、ずっと家に閉じこもって考えていたというんです。でもご存知でしょうが、教会がボランティアのベースキャンプになっていて、色んな人がボランティアに来るようになって、どこの教会も統一したカリタスジャパンの黄色のようなメッシュのベストを着て、みんなボランティアをしていたんです。人はどんどん変わるんですが、わたしも何回かボランティアに行ってベストを着てボランティアをしたんですが、教会のそばに住んでいた青年は、たまたま教会の側だったから、毎日毎日、窓から黄色いベストを見るんです。毎日毎日。人間は変わるけれど同じベストですから、同じ色の黄色のメッシュのベストを。毎日毎日見ているうちに、彼は黄色いベストに段々励まされてきて、あんなに多くの人が次々ボランティアに来ている。しかも同じ黄色のメッシュのベスト。それが段々彼の心に触れるようになって、黄色いベストを見ると、自分は生きなければならないんじゃないか。また新たに立ち上がって、起き上がらなければならない気持ちが段々と湧いてきた。とにかく毎日毎日通りすがるのを見ていたわけですから。とうとう彼はある時決心して起き上がって、新たな人生を新たな仕事を探して歩むことを決めたというんです。
もちろんボランティアに来た人々はその青年を助けるつもりではなかったですけど、他の人々を助けるつもりで毎日毎日来て交代でボランティアをしていた。何かしるしとしてベストが、力を失っていた青年を力づけて、そして最終的に起き上がる力になったということなんです。
神様からのしるしというのはそういうものではないかと思います。そのようなしるしをわたしたちは神様から今でも与えられているでしょう。そしてまた、わたしたちクリスチャンが他の人のためのしるしとなって浮き上がっていくための手助けになることも、わたしたちは出来るのではないかと思います。
この御聖体は当然わたしたちにとって最大の神様のしるしでしょう。このしるしをわたしたちは黙想しながら、イエス様の心を味わいながら、わたしたち自身が立ち上がっていくことが出来るように、そしてわたしたちが小さなしるしを通して、このシモンの姑のように力が無くて寝てしまっている人が起き上がる。そういった手助けになるような、そういうしるしになれるように、少し黙想したいと思います+

第一朗読  ヨブ記 7:1-4、6-7
(ヨブは言った。)この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。
傭兵のように日々を送らなければならない。奴隷のように日の暮れるのを待ち焦がれ
傭兵のように報酬を待ち望む。そうだわたしの嗣業はむなしく過ぎる月日。
労苦の夜々が定められた報酬。横たわればいつ起き上がれるのかと思い
夜の長さに倦み いらだって夜明けを待つ。わたしの一生は機の梭よりも速く 望みもないままに過ぎ去る。
忘れないでください
わたしの命は風にすぎないことを。わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう。

第二朗読  一  コリントの信徒への手紙  9:16-19、22-23
(皆さん、)わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。