カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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210221 わたしは悪を退けます わたしは神を信じます

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会 於 志願式

     

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マルコによる福音書 1:12-15(そのとき、)“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた+

 今日の福音書では、イエス様が四十日間、荒野にとどまり、誘惑を受けられたというお話が朗読されました。荒野の四十日間というところから、カトリック教会は四旬節といって、実際はこの前の水曜日から始まっていますが、この四十日間、悔い改めの時を過ごすという習慣があります。信者ではない人に説明するには、今はカトリックのラマダンだから、と言います。ラマダンがテレビでよく出てくるから、そのほうが信者ではない人には説明に都合がいい。

そしてこの四十日間は悔い改めの時であると共に、洗礼の準備の特別な時として、古代からずっと定められています。四十日間を洗礼に向けた特別な準備をするということです。だから今日、洗礼志願式をするということは、ふさわしいと思います。
今日、洗礼志願式にあずかる方は、特別な事情がある方は別でしょうけれど、今度の復活祭の時に洗礼を受ける予定の方々が多いと思います。四十日間、洗礼の準備の時を過ごすということを特にみなさん心に刻んでもらったらいいと思います。
準備はいったい何をすればいいのかと言ったら、一つはイエス様の体験に倣って、悪霊の誘惑を受けること自身が目的ではなくて、悪への傾きを退けるという。今まで神様を知らない生活をしている中で知らず知らずのうちに、悪魔というか、罪というか、世間の生き方に流されてきたところがあるでしょう。この四十日間を通して、自分の生き方を見つめ直して、そして悪に対して、罪に対して、決定的に退けるということを少しづつ意識していく時と言えるでしょう。
洗礼式の時に三回、悪を退けますか。原文では悪魔ですが、悪を退けますか。と三回洗礼式で聞くんです。その時にはっきり退けますと答えられるように、この四十日間、準備をしてくださったらいいと思います。マルコの福音書の中にはどういう誘惑があったか記されていないんですけれども、それは一人ひとりみなさんの中で自分を振り返りながら、どのようなものにとらわれてきた人生だったかということをしっかり見つめ直して、それが何なのか人それぞれですけれど。何か世間的なものにとらわれていたとか、自分の中のあるものに振り回されてきたとか。何かあるかもしれない。それをしっかり見つめ直してもらったらいいと思います。
初代教会の伝統をみたら、洗礼志願式の元の元の形は、悪魔祓いの式だったんです。ここで悪魔を追い出してもらって、四十日後に清めて洗礼を受けるということですから、悪にとらわれない生き方を目指していくことを心がけてくださったらいいと思います。悪を追い出すと同時に大切なのは、今日の福音書で言えば、「悔い改めて福音を信じなさい」つまり信じる生き方を、よりいっそう意識してくださったらいいと思います。
福音を信じる。神様を信じる。イエス様を信じるということを洗礼式の時に三回、信じますか、と皆さんに聞きますから三回、信じますと、洗礼式の時に答えるんです。それまでに、出来れば心から信じますと言えるように、この四十日間、準備をしてくださったらいいと思います。
信じるというのはなかなか不思議なものですけれども。日本語でも自分を信じろとか、わたしを信じてくれとか、いろんな言い方で使いますけれど、でも本当にすべてが分かっていたら信じる必要性はないんです。
例えば自分を信じろと、何かスポーツをやっている人に励ます時に、それはまだ可能性が出ていないけれど、その可能性が自分の中にあるから、その可能性を頼りに、今を頑張れという時に自分を信じろという。つまり自分はまだ出てきてない自分を信じるわけですよね。あるいは夫婦で何か問題があって、旦那さんが奥さんに、俺を信じてくれ。とか言ったら、信じると使いますけれど。
色々あって分からないけども、自分を信頼してほしいって言う。つまり影でコソコソしてるわけじゃないから、信じてくれと言うわけですよね。

だから神様を信じると言っても、神様のことが全部分かったら信じる必要性がないっていうかですね。分からないこととか、何かはっきりしないことがあるけれど、そこに何か大切なもの。自分の芯になる生き方。あるいはよりどころになるようなものが、なにかあるんではないか。それが何なのかは、はっきり分からないけれど、そこに自分をかけていく決断みたいなのが信じるということでしょう。
一昔前の神学の話しなんですけれど、天国に行けば信仰がないんです。なんでかと言ったら、天国では神様をありのままに見ているので、信じる必要性がないんです。天国では何があるかと言ったら、愛することだけなんです。神様の素晴らしさがあまりに明らかだから、天国では愛することしかないんです。でもこの世は神様の素晴らしさが全部分からないから、信じていくことが必要なんです。
だから信じられない時もあるでしょう。皆さんの中に完全に信じてるわけじゃない気持ちも混ざってるでしょう。それが信じるって事の現実なんです。この四十日間だけじゃない。結局一生涯そうですけど、わたしたちは信じ続けていく。あるいは信じるって事を深めていけるかどうかっていう。そういう大切なことだと思います。だから全てが分からなくてもいいと思いますけれども、でもやはりこれが信頼に立って、信頼に足るもので、そこに自分の生き方の基盤を置いていこうとする。その気持ち、その信じるという事を、この四十日間で養ってくださったらいいと思います。
コロナの厳しい関係で、今までと違う、信者同士の集まりとかミサに頻繁に来れないとか、様々な制限がありますから、それを意識して。そして洗礼式の時に悪を退けますと、はっきり答えられるように。そして信じますという言葉をはっきりと言えるように、この四十日間を過ごしてもらったらいいと思います。そしてまたネットで観ている方々、ここにおられる方々。すでに洗礼を受けている方々もおられると思いますけれども。でも結局は悪を退けるという事と、信じるという事は、やっぱり繰り返し繰り返し、意識しなければならないことだろうと思います。
最近、わたしはプロテスタントの牧師先生方と勉強会をやっていて、それで勉強をやっているテキストの中に、カトリックでは見たことがない言葉が出てきて「バックスライド」という言葉が出てきたんですね。日本語に訳したら、逆戻り、という訳なんです。カトリックで見たことないから、どういうことですかって聞いたら、特に改革派の信者さんが使うみたいで、一旦信じたけれど、途中から世俗の生活に、不信仰の生活に戻る。不信仰の生活に戻ることをバックスライドという。なるほどなと感心しました。
もちろん急に元に戻るわけではないけれど、でも信仰者と歩いてもバックスライドするんですって。バック、後ろにスライドしてくる。前向きに信仰を深めようと思っても、世間の中にいると、後ろにズルズルとスライドして戻っちゃう。確かにあるかなって気はしますけれども。
ペトロの手紙には、一旦信じた人が元の不信心な生活に戻ったら、もっと酷くなるとか、ちょっと怖いことが書いてある。そこまでいかなくても、ついつい信仰者になって何年たっても、やっぱり時々はバックスライドして、退けたはずの悪魔にまだ何となくズルズルと引きずられたり、あるいは信じる生き方といっても、どこかちょっと弱くなって、この信じるのがグラグラとすることは、やっぱり人間だからあると思います。だからこそやはり洗礼を受ける方々にとっても、この四十日間は、それを見直す時ですよね。自分に来ている悪の力をしっかりと退けて、そこと手を切るということを、もう一度やはり点検しなきゃならない。もう一度信じる生き方は何なのか。自分にとってですね。洗礼を受けた時と今では、気持ちも考えも違うでしょう。だからこそもう一度、信じるという生き方を悔い改めていく必要性が大なり小なりあると思います。だから今、洗礼の準備をされてる方も、すでに洗礼を受けている方々も、やはりこの四十日間を、悪霊を退け、悔い改めて神を、イエス様を、福音を信じる生き方にもう一度立ち戻っていけるように、心を合わせて祈りを捧げ。そしてこの四旬節を意義あるものとして過ごしていきたいと思います+

第一朗読  創世記 9:8-15
神はノアと彼の息子たちに言われた。
「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」
更に神は言われた。
「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。」

第二朗読 ペトロの手紙  3:18-22
(愛する皆さん、キリストは、)罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。

 

2021 年 2 月 21日(日)10:00 
 四旬節 第 1 主日〈紫〉B 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記