カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆イエズス会 英隆一朗司祭の福音朗読 ミサ説教 講話などの公式ブログです☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆

210307 困難を乗り越えた先に見える主の御復活

 

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会於

                        youtu.be

stand.fm

ヨハネによる福音書 2:13-25
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

 今日はヨハネの福音書の2章です。いるゆる神殿清めと呼ばれるイエス様の預言的な行いが記されているところです。神殿の境内で生贄の動物を売っている者達とか、両替している者達をムチで追い出したり台を倒したりです。そしてこの「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」ということをおっしゃるわけですね。イエス様のどっちかといえば、預言者的な行動というか。非常に激しく神殿にある不正に対して怒りの気持ちを持ってそれを破壊するというか、壊そうということをされたわけです。

こういうところを見ると、やはりイエス様というか神様が怒るときは怒るというか激しい力で破壊する力が、当然神様にもあるということを表しているであろうと思われます。

ユダヤ人たちは「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」つまり四十六年間かかって、主にヘロデ大王が建て直してきた神殿だったわけです。でもイエス様のこの預言者的な行動は、聖書が書かれた時に実現していくわけです。というのはこのエルサレムの神殿はだいたいAD 70年にローマ帝国の大軍によって滅ぼされて、未だに二千年経つけれど再建ができていない。だから聖書のこの箇所を当時の人が読んだ時には、このイエス様の破壊的な行動と、実際に神殿が滅んでいく姿とを二重写しにして、言葉が染み渡るものがあったのではなかろうかと思います。

ユダヤ教がどうなったかというと、神殿の崩壊と共にサドカイ派というグループは崩壊したんです。神殿を中心にしていた派ですが完全に崩壊した。イエス様の敵だったファリサイ派は生き残るんです。神殿が壊れてもトーラーが残っていたので。それで二千年間ユダヤ教は神殿が無くなっても残るわけです。神殿に頼っていた派はそこで消えてしまうことになるわけです。

先程も言いましたが東日本大震災ですね。10年目の節目を迎えようとする中で、個人的にはかなり関わっていたわけですが、この一年はコロナのお陰で全く行けずじまい。結局3.11もほとんどの追悼の祈りを、現地でたくさんの方が集まって捧げることができないという。なんとも言えない10年目ということに。でもこの10年目をきっかけに、多くのカトリック系の支援団体はほとんど終了することが決まってるんです。でもその最後の締めのイベントも出来ない形で終わらざるを得ない。非常に心残りが多いものではあります。でもこの神殿の崩壊に際して、イエス様が「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」これはもちろん御自分の十字架と復活のことを示しているわけです。でもイエス様の視点は違う視点があったということが明らかにいえるでしょう。つまり神殿が壊れて破壊されたとしても、むしろその先に変わらないもの。そこから生まれてくるものに、イエス様の心が向いていたということです。実際にAD70年の神殿崩壊の後から、いわばキリスト教が力を持っていくことになるわけなんです。

結局キリスト教とか宗教とはいったいなんなのかっていうことを考えさせるような気がします。普通のことで言ったら宗教というのは、神殿を建てたり、神殿でお祈りしたり、神殿で考えたりしていくわけです。この教会を建てるのも、もちろん40何年もかかってないわけで、この御堂建てるのも1年か2年か3年ぐらいで建っているわけで。そういうところにわたし達の気持ちはもちろん行くんですが、でもこの一番大事なポイントは、多分この神殿が破壊された時に生まれてくるというか、神殿というものが破壊された後、出てくるものが本当の宗教という気が非常にします。

神殿の破壊の代わりに、東日本大震災のあの大きな破壊の後の、あるいはコロナの混乱の、これは全世界の皆ですけど、それを越えて生まれてくるものに、やはり目を向けるのが本当の宗教じゃないかと思います。その破壊ということが何か大きな事件とか犯罪とか、あるいは皆さん中の大きなトラブルとか色んなことかもしれないですけど、でもその先にあるところに、わたしたちの寄って立つ基盤を求めていく、滅んでいく、壊れていくもののところに気持ちを置いておくと、サドカイ派のように、もうこれで終わりだと思って終わってしまうのか。むしろそういうものが砕けて壊れてしまった先にあるものを、そこにイエス様の復活を求めていくような生き方をするかどうか。宗教的に生きるというところのポイントをわたしたちはどこに置くのかということを問わなければならないのではないかと思います。

東日本大震災の方はやはりこの10年ということで、カトリック新聞には、仙台教区の小松神父様が総括的な記事を書かれていて、その記事を読んでその通りだなと思ったんです。特に直後ですけれど、沿岸部がやられた地域で、いろんな地域にカトリックだけではない、色んな人たちがボランティアに入って、わたしもボランティアに行きましたけれど、ボランティアで集まって共に働き、共に祈る中で、やはり復活したイエス様がおられるんでしょういうことは、復活されたイエス様を中心とした神の国が、今こそ広がっている実感は、行った人はほとんど皆感じたことだったんです。だから倒れた教会とか、いろんなものがグチャグチャで、もちろん気持ちが倒れている人が多かったですけれど、でもそういう中でこそ、何か新たな人間の善意と、神の恵みが働く世界が広がってくるということも事実だったと思います。それこそ一番大きなお恵みだったかもしれないです。

10年経って、この1年間は行ってないから分からないんですが、新興住宅街みたいに造成がすんで、盛り土して、壊れる前とは似ても似つかない街が今、造られつつあって、それはそれで何か希望を感じるよりも、壊れた神殿をもう一回建て直すみたいな。でもなんかそれそのものに大きな希望は感じるかと言ったらあまり感じない。堤防もさらに高い堤防を建てているわけですけれども。そういうものに真の復興というものが、キリスト教で言えば復活があるように感じとれないのも事実です。もちろんそれは街を立て直さなきゃならないから。それはそうしなければならないのですけれど。でもわたしたちの目指すイエス様の復活を求めていくのは、やはり違うポイントであろうと思います。

今のコロナも一年続いて、同じ気持ちで壊れていくものよりも、その中でこそイエス様の復活と、復活の恵みからくる神の国を自分なりに模索しながら、一年間祈りながら生きているんですけれど。正直言って何かここに、本当に神の国があるという強い確信的なものが見つかったわけではないです。それでもコロナの中でも、エッセンシャルワーカーと呼ばれる人々。特にこの業界だったら、野宿者に対する支援関係の人々はずっと続けて、いわば英雄的に続けている人々はおられて、やはりそういうところに復活の光を感じざるを得ないということは正直あります。でも教会そのものとして、何か復活と神の恵みをコロナの中で見い出しきっているとは思えないところはあります。

集まって祈れないとか、集まって皆で分かち合いができないということ自身が一つの大きな原因ではある。その中でどのようにイエス様の復活と神の国を求めていけばいいのか。この御堂にちょっとの方々しか来れない。1年間は考えたり祈ったり何かを求めながらきて、いまだに回答を得ていないですけれど。でもコロナが終わりそうじゃないですから、やはりわたしたちはできていないとか、うまくいってないとか、制限があるとかそれもあるのですから、その中でイエス様の復活の恵みをどうやって願い求めながら見い出していくのか。

この四旬節ですからイエス様の十字架に心を合わせて、そこから復活の恵みをわたしたちが見い出していけるように、この四旬節を過ごしましょう。

はっきり言って一年間ずっと四旬節という気持ちですけども、この復活の恵みをわたしたちが見い出していけるように、この四旬節を乗り越えて、困難があるのは分かってますから、この困難な中でこそ、あるいはこの困難を乗り越えて、神様の恵み、神の国、イエス様の復活を見い出し、それをわたしたちが分かち合って行けるように、心を合わせて願いたいと思います+

第一朗読  出エジプト記 20:1-17
(その日、)神はこれらすべての言葉を告げられた。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
《あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。》
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。
《六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。》
あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 1:22-25
(皆さん、)ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 

2021年 3 月 7日(日)
 四旬節第3主日〈紫〉B 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記