カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆イエズス会 英隆一朗司祭の福音朗読 ミサ説教 講話などの公式ブログです☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆

210328 受難の主日(枝の主日)

     youtu.be

 今日は受難の主日ということで、受難物語のところが朗読されました。

時々思うんですけれども、宗教というのは一体何のためにこの世に存在するのか。いろんな理由があると思いますが、死者を葬るためとか死者のためにお祈りするとか、いろんな理由はあると思います。

一つの宗教の役割は、苦しみをどう私たちが受け止めればいいのかという。嬉しいことは別にかまわないですけれども、この世には様々な苦しいことがある。その苦しいことをどう受け止めればいいのかということに対して、だいたいどの宗教も、考え方を提供しています。

普通の宗教は、なぜ私たちが苦しむのかと。それは私達が悪いことをしたからだと。悪いことをして罰として苦しみが与えられているという。ある意味、一番合理的な考え方かもしれない。だから私たちはどうすればいいかというと、回心して良いことをしましょうと。回心して良いことをすれば、そのうち良い事が私達に来るという考えです。これは一般的な考え方かもしれない。

違う考え方を与えているものは、わたしの知る限り二つだけで、一つはお釈迦様です。お釈迦様はどう考えるかといったら、どうしてわたしたちは苦しむのか。それはわたしたちに執着心があるからと、お釈迦様の答えです。原始仏教として考えればですけれども。だからお釈迦様の答えは執着さえ無くせば、苦しみがなくなる。そのためにお経を唱えたり悟りを開きましょうという。それはそれですっきりした考え方と思います。

では私たちキリスト教の場合はどうなのか。なぜ私たちは苦しいことがあるのかということに対して、イエス様が示した一つの答えは、今日の受難物語につながるんですが、それは驚くべき答えです。自ら苦しまれた、イエス様ご自身が。十字架に向かう前に、十字架上で自ら苦しまれたというのが、私たちに与えられている答えであり、問いかけであるという感じです。

しかも神様が苦しまれたという、その事実を受難物語は私たちに突きつけてるということです。私たちはそれをしっかり受け止めていく。そこからキリスト教が始まるというか、私たちの信仰が出発するといえるかもしれないと思います。

例えばわたしは色んな本を読むの好きですが、ニューエイジ系も時々目を通すのですが、そこにもイエス様が出てきます。ニューエイジのイエス様とキリスト教のイエス様とどこが違うかといったら、それははっきりしていて、ニューエイジに出てくるイエス様は苦しんでいない神様です。全く苦しんでいないんです。大天使の親分みたいな感じで。神々しい感じには出てきますが、苦しむ姿は全くない。

逆に私たちキリスト教のイエス様はどういう方かというと、苦しまれるている方。だからこのように受難の主日をお祝いして、聖週間を更に荘厳に迎えるということです。

私たちに与えられているのは苦しみの神秘が与えられている。苦しみを私たちが受け取ったり乗り越えたりしていく時に、まずイエス様が苦しまれて十字架で無実の罪を着せられて、多くの人の非難や悪意を受け止めながら非業の死を遂げられたという。そこから私たちは祈りの信仰を出発させていく。その大いなる恵みが与えられているということです。

時々黙想することですが、あまりの恵みというか、あまりの神秘というか、苦しみそのものをこれだけ深く捉えるというか、受け止めていく神秘を示してくださっているのは、イエス様以外にありえないと思います。それが聖書に今日の朗読のようにあまりに細かく書かれている。微に入り細に入り、記されているわけです。だからこそ私たちは苦しい時、辛い時にこそ、苦しみを受けられたイエス様に心を向けることができるということでしょう。

でも残念ながらクリスチャンになった後、キリスト教をやめられる方は時々おられる。手紙をもらったりとか。ほとんどの人の理由は何かといったら、苦しみの中で、神様が助けてくれなかったということに、結局尽きているんです。こんなに苦しいのに、洗礼を受けたけれど、結局良いことは無いし、神様は全然何も助けてくれなかったといって、去っていく人は少数ながら実際おられます。それは心が痛むことで、どうすればいいかいつも分からないんですが。

でも確かな答えは、あなたが苦しむ前にイエス様が苦しまれたという答えでしか、私たちには与えられていないと思います。この不思議な神秘をイエス様の十字架と共にまた担いましょう。

なんでこんなにコロナが流行ったのか。なんでわたしたちがまだコロナで苦しまなければならないのか。何をどういう悪いことをしたらどうなのかとか。だいたい問うても分かりません。イエス様が苦しまれた。苦しみを通して、私たちはどう苦しみを受け止めて、どう苦しみを乗り越えて、この苦しみの中でもどうやって生きていけばいいか。イエス様が確実に教えてくださると思います。一人一人に対して与えられている答えが違うかもしれないですけれど。でも苦しみから私たちは逃げる必要性も全くないということです。イエス様の十字架の先にあるものは、復活の恵みですから。そこにわたしたちが向かって行く道のりを歩むことができるということです。それを改めて受難の主日に心に刻みたいと思います。

知り合いのある女性は、あまりに苦しいのが続いて、生きていくのも嫌になって、家に帰る力もなくて、どこかに出かけていて、途中で歩く力も無くなった時に、それは非常に神秘的な体験だったでしょうけれどハッと横を見たら、十字架を担いでるイエス様が横を歩いていたというのです。髪の毛の生え際まではっきり分かるぐらい見えたという、不思議な体験です。

自分の横を十字架に架かったイエス様が共に歩いてくださっていると分かっただけで、彼女は力が与えられてそこから歩んでいく恵みというか力が。全ての問題が解決したわけではないですけども。でも明らかに共にいてくださる神様が、自分に力をくださったと分かち合ってくださったというのがあります。

そのようにはっきりと、もちろん見える人はいないかもしれませんが。イエス様が共に共に苦しんでくださっているということです。皆さんの苦しみと共に。

本当にこの大きなお恵みは神の愛から来ているからですけれども。その恵みの大きさは計り知れないと思います。そのイエス様の苦しみをしっかりと受け止めて、私達も日々の大きな小さな苦しみを受け止めながら歩んでいけるように、イエス様の受難を心からお祝いし祈り。十字架のイエス様に共に歩んでいける恵み、力を願いたいと思います+

 マルコによる福音書 15:1-39、14:1-15:47
夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに問した。「お前がユダヤ人の王なのか」
イエスは、答えられた。「それは、あなたが言っていることです。」
そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。
「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」
しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、言った。「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」
祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、言った。
「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」
群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」
群衆はますます激しく叫びたてた。「十字架につけろ。」
ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」
と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、
だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。
「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。
「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」
一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。
「本当に、この人は神の子だった。

第一朗読  イザヤ書 50:4-7
主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え疲れた人を励ますように
言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし  弟子として聞き従うようにしてくださる。
主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている わたしが辱められることはない、と。

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 2:6-11
(イエス・)キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。