カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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210403  主が用意してくださる 新たな恵みの道       復活の聖なる徹夜祭

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マルコによる福音書 16:1-7
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

 みなさんイエス様のご復活おめでとうございます。このコロナの状況の中で、去年も復活節をお祝いしたのですが、去年は全く人がいない、奉仕者だけで復活をお祝いして、四旬節が一年ぐらい続いてるような気持ちになります。だから二年ぶりの復活祭をお祝いしているような、そういう気持ちにならないでもないです。

今年はマルコによる福音の復活の箇所が朗読されたんですけれども、今読んだ後のところが奇妙な事が書いてあって、なぜか省かれているのですが。ガリラヤに行きなさいと言われた後、女性達は「震えあがり正気を失った」つまりあまりの恐ろしさのために何も喋ることもできなくなったと、このあと書かれています。でもなぜか典礼ではそこが省かれています。

復活のメッセージを受けた最初の女性達の第一の反応は何かと言ったら、恐れと不安に捕われて固まってしまったという。それが第一反応だったということです。イエス様の復活、それは大きな喜びであると思われるんですが、でも喜びどころか、何が起こったのか分からない、恐れと不安に捕われたという、何かそれは一番の真実を語っている気がしないでもないです。

このコロナの一年の中で、辛いことがあれば当然不安に感じたり、恐れを感じたりするわけですけれど、その真反対の大きなお恵みや、あまりに越えているものに接すると、同じように不安になったり、恐れの気持ちが湧いてくるという。人間の不思議な反応を語っているということです。

時々驚くようなことがあります。時々ですけれども、お祈りしたら病気が完全に治ってしまう人はおられるんですが、でもそういう場面に出くわすと、喜びよりも恐ろしくなるというか、こんなことが起こりうるんだと。あまり嬉しくないんです。常識を越えていることが起こると、むしろ恐れや不安のほうが湧いてきて、なんでこんなことが、という気持ちになってしまうということのほうが多いんです。レベルを越えてしまうということですが。復活というのは本当にレベルを越えた特別なことだったから、そのような反応だったのであろうと思います。でも実際のところ、この女性達に言われたことは難しいことを言っているわけではなくて、男の弟子たちの所に行けという。ガリラヤに行きなさいということを伝えなさいという、言われているのは実はそれだけなんです。ごく簡単な次にすべきことを指示されているだけでもあるわけです。

でもそう考えるとイエス様の復活の恵みというのは、そういう事かなという感じもします。何か行き詰まった時にどうすればいいか。このコロナの中でもいろんなことがみなさんの中でもあったでしょうけれども。やはり神様は次の一歩を何をするかということを必ず示してくださっている。復活のメッセージというのは、結局はシンプルなことではないかと思います。まさか弟子たちのところに行ってとか、ガリラヤに行くとか、常識を越えていますけれども。でも言われていることは、そんなに難しいことを言っているわけではない。その何か行き詰まった中で、でもやはり神様が道を示してくださっている。呼びかけてくださっている。その呼びかけに応えていくこと自身が復活の恵みを生きていく。そういうシンプルなことではないかと思います。

でも私達はどうしようもないとか、行き詰まってしまって、何もできないということがないということです。どんな状況になっても、神様は次の一歩を示してくださっている。次に何をするかということはちゃんと示してくださっている。

でも先の先までは分からないです。コロナがいつ終わるかとか、誰も分からないけれども、でもコロナの中でも、次の一歩は何をするかということは、ちゃんと一人一人に語りかけと呼びかけがあって、それを私たちは果たしていけばいいということでもあるでしょう。

実のところ誰も賛成してくれないんですけれども、あと2ヶ月でコロナは終わると思っていて、でもコロナが続こうが終わろうが、ある意味どちらでもいいわけで、その状況の中でやはり主が示してくださって、次の一歩を一人ひとりにわたしたちに、教会としても。それにわたしたちは応えていく中で、やはり次の新しい道が、新しい世界が開かれてくるということでしょう。でもその開かれてくるところが、いわばわたしたちの想像を絶した形で開かれてくることは多々ある。でもそういう時に恐れや不安の気持ちが湧いてくるわけですけれども、勇気を持って次の一歩を踏み出さなければならないということも、確かにあるかもしれないと思います。

ポール・クローネルというフランス人の外交官で日本で大使も務めていたカトリックの文学者がいるんですが、彼がこう言っているんです。「神様は何で私たちのところに来たのか。わたしたちのところに来て十字架にかかって復活したのか。」彼はこういうんです。「神様が来たのはわたしたちから苦しみを取り去るために来たわけではない。苦しみを取り去るためにわざわざ来て、十字架にかかって復活したわけではない。また神様は苦しみの意味を説明されるためにこの世に来られたわけでもない。わたしたちの苦しみの中で、なんでこんなことがとか、どうして苦しまなければならないのかとか、いろいろ説明を求めますけれども、でも神様は説明されるためではない。」と彼が言うんです。

神様がこの世界に来たのは、私たちの苦しみにおいて、神の現存で満たすために来られた、と言うんです。わたしたちの苦しみそのものの中に、神の現存を満たすために来られたとポール・クローデルは言っているんですが、それはそうかもしれない。

わたしの知り合いで、だいぶ前の話しですが、ご主人の介護を7年間続けてこられていた。最初は苦しくて苦しくて、どんどんご主人が弱ってきて、喋れなくなったり寝たきりになったり、苦しみのどん底で介護をしていて、真ん中の三年半ぐらいの時にお祈りしていたら神の呼びかけを聞いて、それは新しい呼びかけでしょう。どういう呼びかけかと言ったら、「自分を捨てて、自分の十字架を担いなさい。」という声が聞こえたそうです。行き詰まってて何もできないから、結局その通りにしたわけです。自分の望みとか自分の希望とか、全部それをおいて、介護することだけに専念しようと思った。その時から、神様の現存に満たされたと言っていました。残りの三年半、全く状況は変わらないですけれども、イエス様の現存で満たされて、人生で一番幸せな時期だった。神様との深い深い交わりを、その時いただいた。ご主人が亡くなって生活に戻ったら、普通の生活に戻ったとおっしゃっていました。

神の呼びかけは、やはり想像を越えている呼びかけだと思います。私たち一人ひとりに対して。人間の思いで、こうしてほしいとか、ああしてほしいとか。コロナが早く終わってほしいとか色々あるわけですけれども。復活したイエス様の呼びかけはもっと次元の違う呼びかけを、わたしたちに呼びかけている。だから不安になったり恐ろしくなったり、この女性達のようになってしまうこともあるでしょうけれども。でも神の呼びかけを復活したイエス様の呼びかけを私たちが聞くならば、わたしたちはどんな状況にあっても、新たな恵みの世界に向かうことができるでしょう。

今日15名くらいの方が洗礼を受けられる。本当にお恵みだと思います。行き詰まるということがないんです。行き詰まったとしても、また新たな道を主が用意してくださる。そのような希望と喜びの道をこれから皆さんが歩めるということです。たぶん苦しみはなくならないんです。苦しみを越える、恵みの世界を皆さんに与えられるのは間違いないです。

本当に大きなお恵みを私たちは受け取り分かち合っていくことができる。イエス様が復活してくださったからです。

このイエス様の復活の恵みを、今、改めて噛み締めて、私たちがまた新たに一歩を歩んでいけるように、洗礼を受ける方々と共に歩んでいけるように、心を合わせて祈りを捧げたいと思います+

 

第一朗読・創世記1:1~2:2, 第二朗読・創世記22:1-18

第三朗読  出エジプト記 14:15-15:1a
(その日、追い迫るエジプト軍を見て、イスラエルの人々が非常に恐れたとき、)主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」
主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。
モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。

第四朗読・イザヤ54:5-14, 第五朗読・イザヤ55:1-11, 第六朗読・バルク3:9-15,32~4:4 第七朗読・エゼキエル36:16-17a,18-28

使徒書の朗読 ローマの信徒への手紙 6:3-11
(皆さん、)あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。