カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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210418 罪の赦しを得させる悔い改めが あらゆる国の人々に宣べ伝えられる

     

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ルカによる福音書 24:35-48
(そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、)道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」 

 今日は先ほど言いましたけれども、この後、改宗式という言葉がいいかどうか。プロテスタントの方がカトリックに変わる式が行われます。この改宗式に際して、いつも心の中で洗礼式の時は心からおめでとう、と言えるんですけれども、改宗式で果たしておめでとうというべきかどうかが分からないです。既に神様の子供でクリスチャンなので、改宗式というのはわたし自身は、家を引っ越しするぐらいの感じというか、東京は広いから山の手が好きな人もいれば、下町が好きな人がいれば、海沿いが好きなのか山ぞいが好きなのか、そういうカトリックでもプロテスタントでも、本質的に同じキリストの教会ですから、引っ越しのお祝いぐらいのような、わたし自身はそういう気持ちではあります。洗礼式に比べたら次の改宗式もシンプルなものではあります。
今日はイエス様の復活の記念なので、イエス様の復活したところが朗読されたわけです。イエス様の復活は不思議な弟子たちも喜びのあまり信じられないというわけです。イエス様の復活は亡霊ではありません。実際に肉体を持って復活されたということです。だからこれは多分夕食の時だと思いますが、イエス様自身がみんなの前で魚を食べたということです。イエス様の復活の場面で割とし食事の時は出てきます。この場面もそうですが。割りと食事の時にイエス様が復活されたり、ヨハネの福音書では、朝の食事を用意してくださってたり、食事と深い関係があるということなんです。これは本当に私たちカトリックが大事にしているまさしくミサそのものが、食事の場だということです。それははっきりしていて、カトリックになる一つの喜びはこの後ですけれども、やはりご聖体をいただけるという、これは大きなお恵みだと思います。今は残念ながらご聖体いただきたい人が、みんなミサに参加されているわけではないですけれども、でもやはりわたしたちは毎週は無理でも、時にはイエス様の体を頂くということなんです。これは本当にカトリック、あるいは東方教会が大事にしていることで、本当に大きなお恵みだと思います。イエス様自身をいただくということなんです。

イエス様の復活は先程言ったように、幻ではないのです。イエス様の復活そのものは単なるシンボルではなくて、本当に復活されたんです。だからその復活の恵みからいただくご聖体は、本当のイエス様としていただくしかないと思います。そうでなければイエス様の復活の意味も弱くなってしまうと思いますし、ミサにあずかる意義も本当のイエス様の体をいただくからこそ、神聖なものであって、そして私たちの本当の心からの飢えと渇きを癒してくださる恵みに私たちは触れるという、大きな大きな神秘であると思います。その恵みをいただけるカトリックとしてのお恵みと強く強く思います。そういう意味では改宗される方がご聖体の恵みに預かれるというのは大きな祝福だと感じています。
この後、復活した場面では食事のお話しの後に必ず聖書の話しなんです。ここの後半もイエス様ご自身が聖書の解き明かしをされます。モーゼの律法と預言の書と自然に書いてある事柄の話を、イエス様がここで本当に聖書の意味は何なのかということをイエス様ご自身が解き明かしをされるという、これも復活の恵みに深く関わっているということです。これについてはやはり残念ながらカトリックは弱いと思います。プロテスタントの方がどれほど御言葉を通して神の力、恵み、指示を頂いているのか、本当にカトリックがもっともっと学ぶべきことですし、わたしたちも御聖体からだけではなしに、御言葉を通して復活した主が語りかけてくださっているという、命の言葉をしっかり受け止める必要性があると思います。ついついカトリックは弱くなりがちなのは認めなければならない。

この御堂でも食卓の祭壇があんなに大きくて、御言葉のこの説教台がこんなに小さいのはバランスから言ったらこっちが補助的な感じがします。これも復活した主の恵みによって、私たちは聖書の御言葉の意味に深く深く味わうことができるということですから、しっかりした説教台を作るべきと思います。ミサだけではない、聖書から私達は絶えず復活した主の恵みをいただくということもしっかり心がけたいことだと思います。
そしてそれとともに改宗される方にお願いしたいのは、プロテスタントのいいところと、カトリックのいいところを分かるということですから、両方の架け橋になってほしいという気持ちはすごくします。なかなかカトリックとプロテスタントはすごく分かれていて、それこそ交わりがないんですけれど、でも今の時代、小さなことを言っている時代ではないと思います。みんな兄弟で仲間で、手を取り合って、私たちは神の国を生きていく時代に招かれていると思います。皆様がそのような使命を持っているということを意識していただいたらいいのではないかと思います。個人的にもお恵みですけれど、ずっとプロテスタントの方と知り合いがいて、牧師先生達と勉強会をやったり、ずっと繋がりはあるんですが、やはり現代はある意味分断の時代で、分けよう分けよう差別とか、何かを排除とか雰囲気がありますが、だからこそ私たちは手を携えるというか、小さな差を乗り越えていく架け橋になっていくということが本当に必要だと思います。
復活したイエス様は明らかだと思いますが、正教会、プロテスタントとカトリックに分かれてるということは、イエス様は喜んでいないと思います。明らかに。やはりお互い同士が繋がって、手を取り合って同じイエス様を信じているそういうところに立たない限り、私達は本当の意味で復活した主を礼拝しているということにはならないと思います。過去の人間の罪の結果、教会ですら置かれてしまっている一つのわたしたちに対する戒めでも、反省材料になると思います。仕方がないということになりますが、だからといって小さな所に留まるのではなくて、大きな共通の神様を信じて、イエス様を信じていく。その恵みの中を生きていくという、心を大事にしたいと思います。皆で復活の恵みに預かって、みんなでわたしたちは神の国に招かれているのですから、そのことを意識しながら私たちが宗派の違い、国籍の違い、民族の違い、幸いなことに外国の方もたくさんおられてミサを言葉によって違っておりますが、同じイエス様を信じているのは明らかですから、そのような心を大事にして、わたしたちが共に歩んでいけるように、心を合わせて祈りを捧げたいと思います+ 

第一朗読  使徒言行録 3:13-15、17-19
(その日、ペトロは民衆に言った。)「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」

第二朗読  一 ヨハネの手紙 2:1-5a
わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています