カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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210516 主の昇天 神の元に帰る 本当の故郷

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マルコによる福音書 16:15-20
(そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて、)言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」  主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

 今は公開ミサを休止中ということで、私もほとんど信者さんの前でミサをすることが今はないので、今日は一人でミサをしているのですが、せっかくだから説教を録音したらいいかなと思いました。一人で喋っています。
今日は主の昇天の大祝日にあたっています。イエス様が復活されて四十日後、弟子たちの前で天に昇られて、神の右の座にイエス様がついた。これが主の昇天にあたっています。弟子たちからすれば第一朗読を読むと、イエス様が天に昇られて、雲の中に入っていくのを眺めていたという、なんとなくしまりのない感じになっています。でもイエス様の側からすれば、イエス様の本当の故郷というのはまさしく神の右の座。神と共にあるということですから、イエス様はやっと故郷というか、もっとあるべき所に戻られたということです。イエス様からすればそれはホッとすることだったでしょうし、この後聖霊の働きが人々にくだって、教会が別の展開をしていくことになるわけです。
イエス様の本当の故郷は神の元だということです。生きた人間のイエス様の故郷はナザレだったわけです。でも本当の故郷は神様の元だということです。それを改めて私たちも思い起こしたいと思います。
故郷というのは私たちにとって特別な響きがあるでしょう。私自身は神戸出身なので、東京で働いているとどこかアウェイという感じがあって、関西の方がホームグランドという感じがします。自分が生まれ育った公団住宅が壊されてしまって、今は介護施設になってしまったんですけれども、それだけで気持ちが寂しいような、人間としてそういう気持ちになることは事実です。それぐらいだったらもちろんいいですけども、10年前の東日本大震災で自分のいた故郷が津波でのみ込まれたり、あるいは原発周辺の人は自分の故郷に、ある意味生きている間に帰って住めない。災害や何かによって、自分の故郷に二度と帰る事が出来ない。あるいは故郷の姿が全く変わってしまった。故郷を喪失している人も、大きな心の痛みを抱えている人たちも多くいられるのではないかと思います。
私たちにとって故郷というものがどういうものであるというのも、最近度々思い起こすテーマではあります。ノーベル文学賞をとった、日系イギリス人のカズオ·イシグロという小説家がいて、彼の小説とか読んで、彼は5歳まで日本にいたんで、日本が故郷のような感じもします。彼は5歳までだったので、故郷のイメージも彼の脳裏にある幻想として刻まれて、特別な所だと彼は言っています。彼の小説で日本を題材にしたものもあるし、古き良きイギリスの貴族社会を描いた、それもイギリス人にとって一つの故郷かもしれない。そしてまた SF の小説も書いている。彼の小説を読んでいると、故郷というものがいかに儚いところがあるかというか、脆いところがあるという、もの悲しいものが彼の小説を読んでいると、ひしひしと感じるような小説が多いです。故郷を様々にとらえたということです。
彼の小説を読んでいると、小津 安二郎の映画が観たくなって、DVD で観ています。古き良き日本の姿を彼は描いています。戦後の映画を中心に観ていると、日本人が描いている故郷というものが、家族の繋がりということになるかもしれませんが、それがいかに儚いものか。一つの崩壊していく、そういう人間の悲哀を彼の映画も描いているということで、最近はカズオ·イシグロと小津 安二郎の小説とか映画とか、そういうところに身を置いたりしている。結局いかに私たちの故郷というか、家族の繋がりとか、あるいは私たちが背負っている伝統というものがいかに脆いか、儚いかというものをヒシヒシと感じています。
そして今、コロナが終わらず、私たちの日常生活も戻らないという現実の中で、では私たち自身がどうなのかというと、私たちの本当の故郷は、イエス様と同じように、この地上にあるのではない。私たちはイエス様と次元は違いますけれども、私たちは神様の元から来て神様の元に帰っていく存在ということをイエス様の昇天と共に、もう一度思い起こしたいという気がします。自分の故郷そのものとか、家族そのものとかそれが例え喪失したとしても、あるいは今コロナの中である種、人間の交わりや家族の繋がりが非常に弱くなってしまって、病院や老人ホームにもお見舞いにいけない。それは人間の世界の儚さと脆さを象徴していると言えるでしょう。私たちの故郷はやはり神の国だ。その神の国に私たちがそこから来て、そこに戻っていく存在だということを改めて思い起こしたいと思います。何か神の国とか天の国とか、私たちにとって、現代人にとってリアリティー、現実味が感じられないところがあるかもしれないです。でもそここそ本当の故郷であるということを、イエス様の昇天が語っている。そこに私たちの基盤を置くならば、私たちがこの世界で経験する家族の繋がりがバラバラになったり、あるいは私たちの故郷が喪失したり、あるいは伝統的な、これがいいと思っていたものが、実はそこには大きな問題があって、そこにより頼むことが出来ない。そういう儚さや脆さを私たちはコロナの中でも、経験するわけですけれども、でもこの世の中は元々そういうものであるという認識から、私たちは本当の故郷は神の元にあって、それは変わらぬ神様の恵みと喜びと平和に満たされていく。そこに私たちは戻っていく存在だということです。それがあるからこそ私たちはこの世の儚さや虚しさに向かうことができる。あるいは神様に励まされて、この世界で私達は歩むことができるということです。その中で私たちはどう生きていくかということです。
カズオ·イシグロの最新の小説が「クララとお日さま」というものですが、非常に悲しげな SF の社会の話です。人型ロボットであるクララのある生き方がどこかヒューマニズムがあるのです。誰か他者のために尽くす喜びということを語られていて、それもカズオ·イシグロの小説のテーマになっていて、ある種ヒューマニズムがあります。この儚い中でも私たちは何かを大切にしようと思って生きていく。そこに命の価値や人間の生きがい。どこかに私たちは他者を大切にしようとする想いの中に生きていく時に、それはイエス様も大事にされたことですけれども、その心があるからこそ、この儚い、苦しみに満ちたこの世の中にもこの光と恵みが差していく。私たちはそのような儚さや虚しさを越えて、永遠の光に導かれた。それは少しでも証しをする生き方ができるように、私たちは呼ばれていると思います。
コロナの中でうんざりとか、教会のミサも色々考えて、安全面のことから考えて、一時的に休止していますけれども、でもどんな状況であっても、私たちは神の御旨を生きていくことができると思います。私たちの故郷におられるイエス様の恵みの世界を、やはりコロナ禍でも私たちは生きていくことが可能だと思います。
主の昇天の後に聖霊に照らされて、弟子たちが喜んで人々に福音を語り、神の恵みを生きた。その弟子たちの生き方も参考にしながら、私たちが今の苦難や、なんともいえない重い雰囲気を乗り越えていけるように、そのような力と恵みをくださるように。そしてそのような生き方ができるように、心を合わせて祈りを捧げたいと思います

 

 

 

 

 

第一朗読  使徒言行録 1:1-11

テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

 

第二朗読  エフェソの信徒への手紙 4:1-13

(皆さん、)主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。

しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。

《そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。

「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。》

そして、(キリストは)ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。