カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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210606 十字架で自我を砕かれ 御聖体で復活する

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マルコによる福音書 14:12-16、22-26
除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

 今日はキリストの御聖体をお祝いする祭日にあたっています。日本ではほとんどやらないんですけれども、伝統的なヨーロッパのカトリックの国では、聖体行列といって御聖体をかかげて町の中を練り歩くような、そういう習慣があったりします。

この御聖体、今日もミサの後半で私達は御聖体拝領いたしますけれども、元々の出発点は今朗読した通り、最後の晩餐の中でイエス様が御聖体を制定されて、自分の体としてパンをとって賛美の祈りを唱えて、それを裂いて弟子たちに与えたというところから来ています。最後の晩餐でテーブルの上にあった一つのパンをとって、それを御自分の体としてイエス様が復活した後、二千年間この業が続いているということです。

イエス様がパンをとって、それを祝福し、割いて与えたという。この四つの動詞はミサの中でも聖体の制定のところで必ず読まれる箇所になっています。結局この四つ動詞が、キリストの体を象徴している。あるいはイエス・キリストの生き方を表しているとも言えるでしょう。イエス様は神様から特別に選ばれて神の子として。そして神様から特別の祝福を受けて私たちに恵みを分かち合ってくださいました。ただそれで終わるかと思うと、イエス様は裂かれるという、十字架にかかって自分の命を捧げるということを通して、私たちに御聖体として今もその恵みを与え続けて下さっているわけです。

でもこの四つの動詞は、結局は私たち一人ひとりにも当てはまるのではないか。私たち一人ひとりが、キリストの体として生きるように呼ばれているといえるでしょう。私たち一人ひとり、ここに集まった方。それが幼児洗礼であれ成人洗礼であれ、やはり神様から特別に選ばれた。神様が特別に手をとってクリスチャンになるように導かれたわけです。特にこの東洋の端のキリスト教の伝統のない国で、世俗的な力が強い中で、皆さんはクリスチャンとして生きているということは、やはり神様が特別に選ばれたからでしょう。そして選ばれた上で、神様から祝福を一人ひとりいただいていると思います。クリスチャンになってお金が儲かるとか特別ラッキーなことが時々あるかもしれないですけれども、でもやはり神様が私たちに祝福してくださっている恵みは、もっと違う、心の平安だったり、生きがいだったり、心の落ち着くところだったり、そういうものを皆さんは多少とも受け取ってきた。あるいは今受け取っているという感じがあるでしょう。

でもキリストの体は、あるいは私たちの信仰生活は神様の祝福で終わればハッピーエンドになってしまうかもしれないけれども、そこで終わりではないのです。その後に裂かれるというプロセスを経なければ、イエス様は救い主にもならなかったし、御聖体も私たちに与えられることもなかったでしょう。私たちの信仰生活もクリスチャンとして選ばれたからこそ、裂かれる。もっと強い言葉でいったら砕かれるというか。そういう時がセットとして与えられていると思います。

時々私の所に泣きごとというか、こんなに一生懸命お祈りして、真面目にやっているのに、なんでこんな不幸が私に降りかかるんですかとか。こんな病気になったりとか、こんな難しい問題があるんですかとか、言われることが時々あって、こんなことなら洗礼を受けなければよかった。別に一人一人の方に説明するわけではないですけれども、でも実際のところクリスチャンとして呼ばれた以上、私たちはやはり砕かれる時を神の恵みとして与えられると思います。それが健康の問題であるのか仕事上の問題なのか。人間関係の難しさなのか、家族の問題なのか人によって与えられるものが違うけれども、割かれることを通して、わたしたち一人ひとりが与えられる存在になると思います。もっとイエス様の生き方に倣っていくように、どこかを神様が砕いてくださる。実際のところ割かれるのは、砕かれるのは、自分自身の自我というか、そういうものを神様はどこかのタイミングで砕いてくださるという気がします。

それによって私たちは、言葉が変ですけれども、他の人にとって美味しく食べられるものになる。大体どんな美味しい食べ物も、料理人が切ったり剥いたり焼いたり茹でたり、最後は箸で突かれたり、ナイフで切られたりして、美味しい食べ物として誰かのためになる存在になるのが、生きたパンであるイエス様の生き方だし。

全員かどうか分からないですけれども、そのように呼ばれる人は多いのではないかと思います。だから私たちは今日も御聖体をいただくんだと思います。割かれたパンをいただく。イエス様の十字架の苦しみをいただく。でもそれと共に復活の恵みも頂くのではないかと思います。

コロナで一年以上大変ですけれども、これも何か割かれる時が、クリスチャンだけではなしに全人類に与えられているのかもしれない。でもそういう時には何かを砕かなければならないというか、別の言葉で言ったら私たちはこういう時こそ、謙遜さを身につけるように一人ひとりが呼ばれているのではないかと思います。

本当のところは、ただミサが再開したりとか、オリンピックができたりとか、活動に戻れるというよりは、社会はそうなるでしょうけれども、でも私たち一人ひとりがそのようなことを通しながら、何かもっとクリスチャンとしての輝きというか、私たちの存在そのものが変えられていくようなものになるならば、私たち一人ひとりが教会全体が、キリストの身体により近づくことができるならば、それこそが本当に一番のお恵みではないかと思います。それは裂かれたり砕かれたりするプロセスを通らなければならないかと思います。一人ひとりがということだし、教会としてということもあるかもしれない。

イエス様の心をいただく、イエス様の生き方をいただきましょう。聖体拝領を通して。でもそこには必ず十字架の痛みと復活の恵みがある。それを頂いて私たちはそれを生きるように、日々の生活の中で小さな苦しみと、小さな喜びと、小さな奉仕を捧げていくように呼ばれているのではないかと思います。

私たち一人ひとりが、教会全体がキリストの体に生きたキリストの身体になっていくように、心を合わせて祈りを捧げたいと思います+

 

第一朗読  出エジプト記 24:3-8
(その日、モーセは山から)戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」

第二朗読  ヘブライ人への手紙 9:11-15
(皆さん、)キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。