カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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210620 主と共に向こう岸に渡る安寧

 

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福音朗読 マルコ 4・35-41
その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

 今日はマルコによる福音書の4章。夕方にイエス様は「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われたわけです。向こう岸というのですけれども、イエス様がおられたのはカファルナウムか、その周辺当たりだったでしょう。時計でいうとだいたい12時の辺り、北側から西側にかけて、向こう岸というのはだいたい時計でいったら3時ぐらいの所に、いわゆる東側になるわけです。東側はデカポリスといってギリシア人が住んでいた地域です。ガリラヤ湖の北側と西側はいわゆるガリラヤ地方といってユダヤ人の居留地だったのですが、実際はローマ帝国の植民地だったので、いわゆる分断政策ですね。ガリラヤ湖の向こう岸の所に、東側はギリシア人達の町が入植されていて、それがデカポリス、「10の町」といわれていた。そこにイエス様が行こうと言われたんです。陸路で行けるわけですけども、船の方が速いといえば速い所にイエス様が行こうと言われた。しかし、夕方出るというのだから、時間的には真っ暗の中で、日が沈んでいく中で、航海するのは難しかったと思います。案の定、途中で「激しい突風が起こり」ガリラヤ湖は日頃は非常に静かなのですが、突発的にヘルモン山から北風が吹いてきて、ものすごい嵐が起こるというのは度々あることです。なかなかそれは予測できないという事です。
私はイスラエル巡礼に行って、ガリラヤ湖の上でミサをしたことがあるんです。大きめのボートを借りて。そこで巡礼団の人たちと一緒にミサを捧げたことがあるんです。空が晴れているんですけれども、舟に乗った途端、風がビュービュー吹いて来て、舟がグラグラになって、あまり風が吹くから、ミサをしているんですけれど、ホスティアが飛びそうなくらいグラグラに揺れて、イエス様のように「黙れ。静まれ」と言っても当然静まらなかった。反対側のカイザリアの方に行って、岸に着いた途端、風が静かになったというのがあります。とにかくどこで風が吹いて、嵐のような感じになるということは、ガリラヤ湖はすぐそのような状況になってしまうということはあるわけですね。それで弟子たちがあまりに嵐になって溺れてしまいそうになったので、イエス様に頼んで嵐を静めてもらったという話です。
やはりこれは私たちへのメッセージという気がします。「向こう岸に渡ろう」というのですが、やはり私たちの人生でも向こう岸に渡らなければならないことはあるでしょう。安心安全で自分の場所にいればいいというだけではなくて、やはり留まらなくて向こう岸に行かなければならないということは度々あるでしょう。中学生とか高校生だったら受験というものをして、次のステップに行かなければならない事はあるでしょうし、それは人間関係か仕事のことか。そのまま留まっている事が出来ないというか、やはり向こう岸に行かなければならないということは、度々あるでしょう。しかも出発が夕方で非常に危ない時間帯だけれども行かなければならない。でもそれは多くの場合は風が吹いて危険というか、非常に困難な状況が襲ってくるというわけです。パッと見れば大丈夫かなと思うのですけれども、渡ろうとすると、この時の舟は小さな舟ですし、ちょっと何かあったらグラグラ揺れてしまうような、そういう状況に私たちが置かれるということがあるでしょう。
まさしく今、世界全体がコロナウイルスのおかげで大嵐の中に巻き込まれてずっと続いているわけです。それは大きな事であって、一人一人小さなことであるならば、やはりどこか向こう岸に行かなければならない。旅といいますか、その不安定なものに乗り出さなければならないということは度々あることと思います。それは行かなければならない、向こう岸に。それはどういうものであるかは分からないですけれども、私たちはそれに行かなければならない。
何が大事かというと、イエス様と共にということです。自分一人で行くわけではない。自分達だけで行くわけではなくて、その船に乗って向こう岸に渡らざるを得ない時に、イエス様と共に私たちは湖を渡っているということ。それをやはり私たちは心に刻みたいと思います。嵐の方に気持ちがとらわれてしまって、イエス様が共にいるということを私たちは忘れがちということは、度々あることではないかと思います。イエス様がおられる以上、心配することはないということです。弟子たちに対しても「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」信仰を持っているならばそれは乗り越える事ができる困難なわけですけれども、ここで波に恐れを感じるならば、私たちの不安がかきたてられるわけです。
本当の嵐は何なのか。心の中の問題だと思います。自分の心が嵐のようになって落ち着かない気持ちになってしまって慌てふためいてしまう。ある出来事があって、今だったらコロナのことかもしれない。あるいは他の事に私たちが心が振り回されてしまうことが本当の嵐でしょう。それに私たちはどう振り回されないで歩めるかどうか。それを心がけたいと思います。
多くの人の向こう岸の一つは病気です。留まれないんです。手術しなければならないとか。向こう岸に行かなければならない、そういう時に。信者、未信者関係ないんです、病気になる率は。病気になった方々がよく私のところに相談に来られますけれども。パートナーの方と来られて。本人がしっかりされていても、奥様の方がうろたえていて。逆のケースは奥さんが病気で、旦那さんがうろたえてしまうみたいな。本人だけではないです。家族の人がパニックみたいになって、どうすればいいかみたいな感じです。だけども手術して、あるいは何かして向こう岸に行かなければならないんです。留まるわけにいかないから、乗り越えなければならないんです。その時にイエス様と共に乗り越えて行こうとするかどうか。信仰が一番問われていることだということは間違いないということです。
一人の亡くなられた大先輩の神父様が、50代でガンになられて、気持ちが病気の恐れ、死の恐れはある。さすがその神父様だと思ったんですけれども、手術の前にイエス様と共に手術を受けるということを覚悟して、手術台に乗って手術を受ける。完全な平安な心。まさしく嵐が静まってイエス様と共に心が完全に静まって手術を受けることができたとおっしゃっていました。その神父様は50代で手術をして、それ以降ガンの再発はされませんでした。すでに年をとられて天に召された方です。
嵐が襲ってきて向こう岸に渡るために、舟の上ですから安定しない。どうなるか分からない。その中でイエス様と共にそれを乗り越えようとする。信頼感を思い出すなら、やはり心がピタッと、突然凪のようになって病気がすぐ消えるわけではないですけれども、そのような気持ちになった時に、私たちは困難や苦難を受け止めていくことができるでしょう。それを乗り越えていく力と恵みを、主が与えてくださると思います。
私たちは洗礼を受けて信仰がある、最大のお恵みはイエス様が共にいてくださるという、まさしくその点なんです。だからこそ私たちは新たなチャレンジを受けて、向こう岸に向かっていつも歩んでいくことが出来る。そのような力強いイエス様に信頼してこの一週間、歩んでいけるように、共に祈りを捧げたいと思います+

第一朗読  ヨブ 38・1、8-11
主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。海は二つの扉を押し開いてほとばしり 母の胎から溢れ出た。
わたしは密雲をその着物とし 濃霧をその産着としてまとわせた。
しかし、わたしはそれに限界を定め 二つの扉にかんぬきを付け
「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。

第二朗読 Ⅱ 二コリント 5・14-17 
(皆さん、)キリストの愛がわたしたちを駆り立ててい(ます。)わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(のです。)