カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆イエズス会 英隆一朗司祭の福音朗読 ミサ説教 講話などの公式ブログです☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆

210704 信じる者同士の繋がりにイエス様の力が働く

  youtu.be

stand.fm

マルコによる福音書 6:1-6
(そのとき、)イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。

 今日、朗読した聖書の箇所は、マルコによる福音書の6章です。故郷にイエス様がお帰りになった時のお話です。ナザレです。イエス様が生まれたのは、ベツレヘムですけれども、ベツレヘムの事についてイエス様の記憶がなかったでしょう。その後エジプトにも来られたのですけれど、それはごく小さな頃だったのでそれほど記憶はイエス様にないだろうと思われます。その後ナザレで少年時代、青年時代を過ごして、ナザレが彼の故郷であるといえるでしょう。

でもその故郷でイエス様は故郷の人々から受け入れられなかったという、何か衝撃的なエピソードだと思います。故郷で受け入れられないという。人間的に考えても、それは辛いことであっただろうと思われます。

皆さんここに集まってる方々は東京出身で、東京が故郷の方もおられれば、地方から出て来られて故郷が地方にある方も半分ぐらいはおられるかもしれません。私自身は故郷は神戸ですので、東京に出てきたという形です。

故郷というのはふるさというか独特な言葉の響きがある。多分東京に出てきて、地方から出てきている若者にしても何にしても、多分故郷に帰れない人はいっぱいおられるのではないかと思います。色んな事情で東京に出てきたけれども、いろんな理由で故郷に戻ることができない人の痛みみたいなものがあると思います。非常に困窮している、いろんな意味で、そういう人の相談を受けて話して、安易に故郷に帰ればいいだろうと安易に勧めても、だいたいの人はそのようにする人は今だに一人も会ったことがありません。故郷に帰っても仕事がないとか、人間関係が行き詰まっていて駄目だとか、そういう方も多いのではないかという気がします。

特にこのミサの中ではおられないと思いますが、この教会は外国人の方がいっぱい来られています。ほぼ全員だと思いますが、故郷から離れて、いろんな意味で帰ることができない方々もいっぱいおられて、故郷から離れてしまったとか、故郷に帰れないというのは、なんとも言えない心の痛みみたいなものを抱えておられる方も多くおられるんじゃないかと思います。

イエス様は故郷で受け入れられなかったという事も、何かイエス様の人生として一つの痛みのようなものを背負っておられたんだと思います。

私たちの故郷というのは自分のふるさというか、心の落ち着きどころと言うか、そこに帰れなくても故郷があるということが、一つの心の中の安定感みたいなものがあると思います。特に外国暮らしをすると、故郷の国の懐かしさみたいなものが独特なものがあると思います。

私が最近好きなのはカズオ·イシグロ、イギリス人でノーベル文学賞をとった、日本生まれの方ですが、子供の時にイギリスに渡って、彼の源故郷は日本なんです。日本から離れて日本に戻ることはないと思われます。故郷があるかないかというのは、その人に帰るところがあるかというのは、決定的なことではないかと思います。

でもイエス様が故郷に受け入れられなかった最大の理由は、人間関係のつまずきということではなくて、不信仰だったということです。ナザレの人々が。やはり不信仰が原因でイエス様が故郷に受け入れられていない。それも不思議な気がします。では私たちはどうすればいいか。結局イエス様を信じる生き方をどう選んでいくのか。そして信じる者同士の繋がりを生きていけるかどうかということではないかと強く思います。

やはりコロナの危機が1年以上、いつ終息するかすら見通しがつかないですけれども、人間と人間の繋がりが大きく教会の中でもそうですが、繋がれない状態が、対面で会うことが出来ない状況が延々と続いているわけです。その中で私たちが信じる者同士の繋がりをいかにつくっていくのかということ。それは大きな課題というか、大きな恵みであるという事をつくづく思います。

故郷の問題だけではないと思います。びっくりするぐらい一人暮らしの人が多いし、例え東京に住んでいても繋がりというか、非常に薄いというか。あと高齢になった方々のほとんどの子供が独立して夫婦だけで暮らしてたり、どちらかが亡くなって一人暮らしをしている方も驚くほど多いという。こういう現代の繋がりの無さの時代の中で、それでいいという気持ちもどこかで私たちの中にも無いことは無いですが。私もこんなに続くとこれでいいんじゃないかという。あんまり人と繋がら無くていいかなと、殻に閉じ籠もったままの生き方でも慣れちゃったという、そういう誘惑な感じがあります。信者さんとも誰とも食事に行ったりとか、長く喋る事も全然ないのがずっと続いているわけです。それに甘んじてても駄目だなと。やはり信じているもの同士が何らかで繋がり合いながら、助け合いながら歩んでいく中に、イエス様の慰めがあるのではないかと思います。イエス様は故郷で受け入れられなかったですけれど、やはり十二人の弟子を始めとした信じる者の繋がりです。その中にイエス様自身が喜びや慰めを見い出しておられたでしょう。マルタとマリアの家に泊まった時もそうだったでしょう。様々な信じる者の繋がりこそがイエス様と周りの人を繋ぐ新しい故郷だったということですかね。新しい家族のつながりがそこであったと思います。それはもちろろんイエス様の十字架を前にして、また共同体が壊れていく事もあるわけです。

信じる者同士の繋がりこそが、私たちが最も大事に本当はしていくべきことでしょうし、その中に私たちの大きな助けと慰めが与えられるものだと思います。コロナの中だからこそ余計に強く、集まれない、制限された中だからこそ、強く感じられます。信じる者同士の繋がりの中で、神の国と教会ということがやはりあるんではないかと非常に強く思います。

そのような信じる者同士の繋がりを大事にしながら、そして互いに信じあっていけるような繋がりです。それが私たちにとって大きな支えになりますし、励ましにもなるし、それこそイエス様が一番喜ばれる事ではないかと思います。

不信仰のゆえにイエス様が驚かれて「そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」やはり信じる者の力がある時に、イエス様の力はもっと働くことは明らかでしょう。私たちが互いに信じる者同士、助け合いながら、信じ合いながら歩む中でイエス様の力は、もっと力強く働いてくるのは間違いないことです。それはイエス様の力を私たちがもっと力強く受けられるように、一人一人が信じる心を新たにして歩めるように、この日本全体がオリンピックを前にして、何とも言えない、喜んだらいいのか、戸惑ったらいいのかという雰囲気ですけれど、この時こそイエス様を信じ心を新たにして、信じるもの同士が歩みながら繋がり合いながら歩んでいけるように、改めてこのミサで恵みを願いたいと思います+

第一朗読  エゼキエル書 2:2-5
(その日、)霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。主は言われた。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。」

第二朗読  二  コリントの信徒への手紙 12:7b-10
(皆さん、わたしが)思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。