カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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210718 神の無条件の愛による信仰教育

 

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マルコによる福音書 6:30-34
(そのとき、)使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。 

 今日の福音書はマルコによる福音書の6章のところです。弟子たちがあまりに忙しいので「人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」というふうにおっしゃった。でも人里離れた所に行ったんだけれども、人々もそこに来て休むことができず、イエス様が「深く憐れんで」色々と教え始められたというエピソードのところです。
 今日は6名の方の幼児洗礼式ということで、幼児洗礼式が一番心が温まる式かなという気持ちもあるんです。非常に可愛らしい子供達ばかりです。ついでに言うと特に幼児洗礼式はそうですが、水をかける時にも泣く子が出てきて、でも、だいたい泣いたり、わめいたりすることが子供のお仕事なので、神様の賛美の気持ちとして、それほど気にせずいきたいと思います。
あまりに忙しすぎると確かにイエス様が私たちに「しばらく休むが良い」と言って下さるし、私たちは休む時をとらなければならないでしょう。でも会社の仕事だったらともかく、子供を育てるのにどこにも休む暇はなくて、必ずお腹はすくでしょうし、オムツも変えなければならないでしょう。およそ子供が小さい時は、特にお母さん。お父さんもそうですが、休む暇なしで子育てというのがあるので、これはもう仕方がないことだと思います。
イエス様がおっしゃるんです。結局休めなかった弟子達と多くの人を見て「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」「深く憐れ」むというのは非常に大切な聖書の中のキーワードの一つで、心の底から相手の痛みを感じるという言葉なんです。これがヘブライ語でラーハム(רָחַם)というんですが、どこから出てきているかというとラハイーム、憐れみの名詞系です。ラハイームがどこから来ているかといったら、言葉の元はレヘムから来ていて、レヘムの語源は子宮という意味です。女の人の子宮から痛むというのが、深く憐れむという言葉の元々の意味です。つまり解説的にいうと、お腹を痛めた自分の子供に対して、いつも愛情の心を注いでいる。そのようなお母さんの心を持って、イエス様は憐れまれた、ということです。自分のお腹を痛めた子供を、心から皆さん大切に思っているし、育てられているでしょう。そのような心をイエス様が私たち人間に対して持っておられるということです。
これは幼児洗礼式にこの言葉が出てくるのはふさわしいなと思います。みなさんは我が子を心から愛しておられるでしょう。大変な時もいろいろあるでしょうし、特に病気をしたりしたら色々大変で、もっと心を配らなければならない。場合によっては寝る暇も惜しんでということもあるでしょうし、様々なことを犠牲にして。それが辛く感じる人もいれば、それが当たり前の気持ちで出来る方もおられるでしょう。でもそれは、神様の親心そのものだということです。それを皆さん思い起こしてくださったらいいと思います。
時には大変で気持ちが行き詰まったり、体力的にも精神的にも、きついこともあるかもしれない。でも神様は全く変わらない親心で、私たちをいつも見守って、愛してくださっている。お母さんたちが子供を愛する心と全く同じ。あるいはそれ以上の気持ちで、神様が私たちを支えてくださるということです。それを思い起こしてくださったらいいと思います。
もちろん今も大変でしょうけれども、反抗期の頃になったらまたまた大変で、いつも思います。反抗期の子供を育てているお父さんお母さん。反抗の度合いによりますけれども、ひどくなったら全然口を聞いてくれない。だいたい中2ぐらいから全然口をきいてくれなくて、特に娘さんはほとんどお父さんと口をきいてくれない、中学、高校時代は。ミッションスクールのお父さんと交流があるのですが、本当に全然口をきいてくれなくても、お父さんは変わらず娘さんをずっと愛しておられているのは伝わってきますし、その反対もそうで、男子の場合も中2ぐらいから、酷くなったら全く口をきかなくなる。お母さんに対して、一言も喋らなくなる。10年ぐらい全く口をきいてくれないということもザラです。それでもお母さんが息子を愛する愛というのはほとんど変わらないです。どんなに無視して反抗していたとしても、でもそのような心で神様は私たち人間一人ひとりをいつも愛して下さっているということです。皆さんが疲れた時に、とにかく気持ちに余裕が無くなった時には、神様の親心を時には思い起こしてくださったら、それは慰められたり力づけられたりするのではないかと思います。
子育てが終わってやれやれと思ったら、わたしの世代ぐらいになったら、親の介護がはじまって、無償の愛、無条件に世話するだけということになってしまう。
人間が生きていくというのは、親心を持って生きていくしかないということをしばしば感じます。でも神様はその心を持って、私たちをいつもケアしてくださっているということ。それを心に刻んでくださったらいいと思います。
そして今日は6人の子供が幼児洗礼を受けるんですけれども、幼児洗礼を受けるということはスタートにしか過ぎないと思います。子供がそのような憐れみ深い神様の事をどこかで気づくというか、知ってくださったらその手伝いができたらいいと思います。幼児洗礼式よりも絶対大事なのが信仰教育なんです。子供が成長していく中で神様の事をどのように知ってやっていくのか。もちろんお祈りを覚えたりとか、教会のいろいろな信者としての心構えということも、子供たちに身につけてもらいたいという気持ちがもちろん強いのですが、でも信仰教育の一番大事なのは、神様が親心を持って、私たちを大切にしてくださっていることを、子供たちがどこかで深く悟る、気づく、体験をしてほしいか。それが信仰の一番の核です。でもそう伝えることはなかなか難しいことでしょう。だから親が、あるいは神様の代わりになって、無償の無条件の愛を子供たちに注いでいく。それは親の務めでもあるし、神様の代わりを果たすということもあるかもしれない。
私たち皆が神様の親子の中で、どんなに反抗したり無視したり、神様に対してです。道を外れたとしても、神様は全く変わらず、私たちを守り続けてくださっている。慈しみし続けてくださっている。その神様に信頼を置いて、私たちは歩めるように、子供達、そこに集まっているみなが、神様の親心に心を開きながら、その気持ちを受け止めて、歩めるように、このミサで祈りをささげたいと思います+

第一朗読  エレミヤ書 23:1-6
「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。 「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。
「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。
見よ、このような日が来る、と主は言われる。
わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。
王は治め、栄えこの国に正義と恵みの業を行う。
彼の代にユダは救われ
イスラエルは安らかに住む。
彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。

第二朗読  エフェソの信徒への手紙 2:13-18
(皆さん、)あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。