カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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210731 今やることをやり 全ての中に神を見出す

 

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ヨハネによる福音書 6:24-35
(五千人がパンを食べた翌日、その場所に集まった)群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

 今日の福音書、ヨハネの6章ですけれども、イエス様が単に食べ物のパンを食べて満腹するだけじゃ良くないと「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」ということです。私たちの信仰生活、あるいは人生そのものは、ただ単にこの世の命を保つために生きているわけではなくて、私たちの命はこの永遠の命にいたる、その命をどう生きていくのかということ、それを私たちはしっかりと考えなければならないし、それを生きていかなければならないでしょう。

この第一朗読の、荒れ野に入ると途端に不平を言い出して「主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。」エジプトの奴隷状態を忘れて、荒れ野に入ってきたらその時の状態について文句をいろいろ言うようになったわけです。今であるならば、コロナの前はあれもできたこれもできたのに、コロナになって私たちがあれもできないこれもできないと、文句を言ってるのとちょっと繋がってくるようなところもあるかもしれないです。

これは私たちが本当に永遠の命につながる生き方を、どうこの中ですればいいかということです。それについてイグナチオのイエズス会のモットーは、ラテン語で「アジェコード・アジェス」日本語でいうと、「今やっていることをやりなさい」という、非常にシンプルな教えなんですけれども、「アジェコード・アジェス」「今やっていることをやりなさい」これがなかなかできないから、様々な心の不安というかフラストレーションが起きてくることがあるかもしれない。

イグナチオが言っているのは、神学生は勉強しなければならないんですけれど、やはり勉強が苦手な人もいるし、勉強するために神父になるわけではないので、神父さんになって信者さんみんなと関わったりする仕事を多くの人がしたいという気持ちになって、なかなか勉強に集中できないことはよくあるんです。でも勉強するという、そのこと自身がこの永遠の救いにつながる神学生なんだから、勉強することが永遠の命につながる、神様の目から見たら尊い働きだということです。それをアジェコード・アジェスというわけです。置かれたことを私たちがどれほど忠実にできるかどうかということなんです。

他にイグナチオが言っているのは病気になった時の態度がものすごく大事だというんです。なぜならば病気というのは、健康の時よりももっと神の恵みが働くからだというんです。その時に病気に振り回されて、わめいたりしてしまうか、病気の時にこそ神に仕えて生きていく生き方ができるかどうか。それを本当に大きな神の恵みだということを言うんです。それはアジェコード・アジェスの生き方でしょう。病気の時は病気をどのように生きていくかということを私たち一人一人が考えなきゃならない。クリスチャンとして。病気こそ健康よりも大きなお恵みだということをイグナチオが言うわけですが、それはその病気の時にどのように私たちがクリスチャンとして神の恵みをあらわすような生き方ができるかどうかが一人一人に問われてるって事でしょう。それをさらに言うならば、コロナの中で皆さんも私もこんなに長く続いて、こんなに自粛続けてという、イライラ感というか、何とも言えない重い雰囲気もあるでしょうけど。でもこの時こそ、アジェコード・アジェスで、今この状態の中で一体どのように生きていくのか。どのように心がけていけるか私たち一人一人に求められているのか。つまり今の時を恵みにできるかどうかということは、私たち一人ひとりの心の在り方に深く関わっているという事でしょう。

このイスラエルの民のように荒れ野に放り出された途端、昔は良かったとか、文句を言ったりするのは簡単なことだと思いますけれども。でも置かれたところで私たちは神を賛美する。あるいは神の恵みを生きていく生き方を一人一人ができるかどうかということが、私たちクリスチャンの生き方の質を決めていると言えるでしょう。

今日のミサは高齢者の方々の専用のミサなりますけども、歳をとったらできなくなることも多々あるでしょうし、病気をしたら若い時のように出来なくなるでしょうけど。その時に愚痴を言って、あれもできないこれもできないとただ文句を言ってイライラして生きるだけなのか。その時に愚痴を言って、あれもできないこれもできないとただ文句を言ってイライラしてただ生きるだけなのか。今置かれた所で、今置かれた状況の中で、いかに神の愛を神の恵みを生きていくことができるかということを問うて、それをできる人が本当のクリスチャンだと思います。歳をとって衰えてくるのは誰だって変わらないわけですから。程度の差こそあれ。あるいはコロナで自由が奪われている事も世界中みんな同じなんですけれど。でも私たちの心がけ一つで全てが変わるでしょう。この時を恵みとして生きていくのか。単なる嫌なことが降りかかっても、鬱々としてただ生きるだけなのか。私たち一人一人にアジェコード・アジェスが問われていると思います。今日できることを、心から誠実に果たしていくことができるかどうかということです。

イグナチオが自叙伝という口述筆記したものが、このイグナチオの年に合わせて再出版されたんです。隣りの大学で働いている李神父様が、もう一度それを再販されて、イグナチオの自叙伝が読めるんですけれども。彼が62歳の時に書いた物なんですが、彼は62歳の心境を語っているんです。今自分は神を見出そうとしたら、どこにでも神を見出すことが出来る。日常生活の様々なことの中で人々の関わりの中で、もちろん祈りの中でもそうでしょうけれど。どこでも神を見出せるようになったということを、シンプルに書いているんです。長い信仰生活、長い修道生活のその実りでしょうけれど。

歳をとった恵みとは何なのか。全てのものに神を見出せることだと思います。若い時は仕事したり活動したり何か目に見える成果を現すってことは、若い時に出来て、歳をとればとるほどそれは出来なくなるのは当たり前のことですけれども。でも目に見える何かを求めるんじゃなくて、永遠の命に至るものを私たちは見出して、その永遠の命に至る恵みを生きていけるかどうかということが、私たち歳をとっていくものの恵みであり、課題といえるでしょう。日々の生活の小さなことの中で。

一人のイエズス会のブラザーがおっしゃっていました。全てのものの中に自分の生活に神を見出さるかどうか。彼は修道院の中の雑用のような仕事が多いんですけれど、でも彼が言っていたんです。庭の草取りをする時に草を取る一本一本の草の向こう側に神様を見出だせるかどうかが、自分の修道生活の質を決めてるいるというんです。アビラのテレジアだったら、料理しているお鍋の蓋の裏に神を見出だせるかどうかだと。

私たちの日常生活の中の全てにおいて、神を見出せるかどうか。これはイグナチオのモットーなんですけれど、すべてのものの中に神を見出すというのが、私たちの霊的生活の目指してるところだったのです。病気の中や日々料理をしたり掃除をしたり草取りをする中に神を見出せるかどうか。そしてその見出した神様を賛美しながら生きれるかどうか。私たちの毎日は歳をとればとるほどシンプルになってくるでしょう。することもルーティンとか決まったことを繰り返すような生活にだんだんシンプルになってくる方が多いと思いますが、その小さな一つ一つの中に、神の恵みを見出すことが出来るかどうかが私たちの信仰生活の質を決めているほとんど全てだと思います。

そのうちミサに来られなくなるかもしれない。足腰弱ってミサに来れなくなる時が来る可能性も高いでしょう。今は幸いなことにコンピューターできる方はまだいい。それも出来なくなることが来るかもしれないと思います。でもどこにでも神様を見出せるその信仰の目、祈りの心を深めていけるかどうかということが、私たちの本当に一番大事なことだと思います。若い人は若い人なりに激しい仕事の中で、いろいろある中で神を見出さなければならないでしょうし、人によっても違うと思います。健康な方と病気な方と、見出すところが違うけれども、どこにでも私たちが神を見出して、そしてその見出した神様に、恵みを得ながら日々の、極々小さな活動の中を、御心を祈りの心を持って果たしていける。このアジェコード・アジェスで生きていけるかどうかです。

自叙伝を書いたイグナチオは62歳で、私も段々62歳に近づいてきているんですけれど。イグナチオのように神の恵みを若い頃よりももっと簡単に神の恵みを見出す事が出来るイグナチオの心境に少しでも近づきたいと思います。問題が多ければ見出せにくいです。でもやはり私たちが神の恵みの中に包まれている。そして見出そうと思えば神の恵みを見出せるという、そのような恵みの中にいることを思い出しながら、少しでも日々の生活、コロナの中に、夏の暑さとかオリンピックの喧騒とかが色々ありますけれども、その中で神の恵みを、小さな恵みを見出しながら、一歩一歩、歩んでいけるように毎日が信仰の目から見て充実した日々になっていけるように、とりわけイグナチオの執り成しを願って、このミサを共に捧げたいと思います+

出エジプト記 16:2-4、12-15
荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。
「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。」

第二朗読  エフェソの信徒への手紙 4:17、20-24
(皆さん、)わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩(んでいます。)しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。