カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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210815  祈り 愛し合い 苦しみをお捧げする

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ルカによる福音書 1:39-56
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

 この被昇天、マリア様が天にあげられたお祝いの日であります。でもコロナの感染とかで、西日本はかなりまた豪雨災害が激しいということで、なかなか単純には喜べない。というよりは非常に危機的な気持ちが強くあるんじゃないかと思います。

新型コロナウイルスにしても、ワクチン摂取によって状況が改善するかと思いきや、逆に感染者が増えてしまって医療機関が危機的な状況に陥っているという厳しい状況にいます。そういう時には今日のこの第一朗読ヨハネの黙示録の12章です。この女と竜の戦いという、実際は戦っていないんですが、女と竜の激しい対立のところは何か身につまされる思いがします。

この女はマリア様とも言えますが、やはり初代教会が赤い大きな竜。当時のローマ帝国によって迫害されているようなところがベースに描かれていると思います。今は大きな赤い竜どころか目に見えないぐらい小さなウイルスによって結局私たちが荒れ野に追いやられているような状況が今も続いているということですね。特にもう1年半も経つのでそろそろ何か上向きに行くんじゃないかという時に、厳しい状況が荒れ野に逃げ込まなければならないということは、非常に厳しい感じがしないでもないです。

でも第一朗読がはしおって朗読されたのですが、12章全体を読むと荒れ野に逃げ込む期間が三年半なんです。だからコロナウイルスの蔓延も一番長くて三年半だと思うんですけれど。まだあと二年ぐらいある。気分が重くなるところがあります。でも最後のところではこうあるんです。女が追い込まれて危機的な状況にあるように見えても、「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。」逆に神を賛美しているところに繋がるんです。このあとミカエルによってこの竜が倒されて天から落とされてしまう。逆に地上に落ちてしまうので、かえって地上の苦しみが増えるということになるんですけども。これはやはり勝利につながってるということ。それを私たちも忘れないようにしたいと思います。

結局このコロナウイルスのこの危機の中で問われているのは一体何なのか。福音朗読のところからいったら、「思い上がる者」とか「権力ある者」が打ち散らされていると、いわゆるマリアの讃歌のところです。

ワクチン接種とか、人間の力ですね。ワクチンを開発してとか。結局人間の力ではコロナウイルスを制圧できないというか、何か一番砕かれているのは、人間の傲慢というか、人間がなんでもできるという、その思い上がりが一番砕かれていると思います。

私たちも結局自分の思い通りにやりたいようにやりたいという気持ちがあるわけですけれど、それそのものが打ち砕かれていると思います。逆に高められているのは何か。「身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし」今こそ私たちは貧しく生きる。小さく生きる。神の前で謙遜なものとして歩んでいくという心をもう一度新たにして、この危機に生きていきたいと思います。

このコロナウイルスのことも結局専門家に言わせると、なんでもないんです。基本に立ち返れと言って、マスクして手洗いして、密を避けなさい。密を避けられなくて感染爆発をしているわけです。基本をどれだけ徹底出来るかということをコロナウイルスの感染対策で訴えているだけなわけですよね。でも私たちクリスチャンとして、この危機をどうやって乗り越えていくかというと、それは私たち信仰者の基本に立ち返って生きるということに尽きていると思いますね。何かうまくいっているとか、うまくいっていないからとか。そういうことに振り回されず、基本を生きていくことに尽きていると思います。基本は何かと言ったら三つあると思うんですけれど、祈りを捧げていく。明日からミサで集まることはできなくなりますけれども。でも一人一人がやはり自宅で小さな祈りをどれだけ捧げられるかという積み重ねでしょう。

そしてまた日常生活の中で制限された中でいかに愛の心をもって奉仕の心を持って、制限された中でも周りの人に対する思いやりの心をどう生きていくのか。これも基本だと思います。

三番目を言うならば、私たちがこういう中で小さな苦しみを捧げていけるかどうかでしょう。今日のこの女の人は産みの苦しみのために、叫んでいたというですね。大きな苦しみを捧げなきゃならないわけですけども。大きい小さいはともかく、私たちも今の生活の中で小さな苦しみ小さな犠牲を捧げていく心がけがあるかどうかだと思いますね。苦しいこととか嫌なことがあって、結局逃げたり見ないふりをすればするほど、苦しみは増すだけで、逆に小さな苦しみを捧げていこうといことですね。前向きな気持ちを持つならばかえって苦しみが軽減されるということにつながるんじゃないかと思います。

8月15日を迎えて思うのは、昨日8月14日がお祝いでした、マキシミリアノ・マリア・コルベ、コルベ神父様ですね。アウシュビッツで身代わりになって自分の命を捧げられた。彼のことを思い出すことは非常に多いんですけれども。ポーランド人で日本で宣教されていたんです、ナチスの台頭があって母国のポーランドにわざわざ帰られたんです。帰ってナチスに逮捕されてアウシュビッツの強制所に送られるわけですが。そのような不自由さの中にあっても、さすが聖人だからという、司祭としての基本が全く変わっていない。つまりその中にあっても祈りを捧げて周りの人を大切にする気持ちで励ましたり思いやりの心を持って生きるという。そしてその基本の積み重ねがあったからこそ、最後の最後は身代わりになって、一人の死刑囚の代わりに自らが志願して命を捧げられた。全く縛られていない、周りの状況に。どこまでも主体的に自分の使命を果たしていくわけです。状況が厳しかったから捧げるものも大きかったわけです。もちろんそのような英雄的な行為も私たちが求められるではないと思いますけれども。でも今の一人一人の忍耐と何とも言えない重苦しい日々が1年半も続いていますが。でもその中で私たちは小さな犠牲や小さな忍耐をどれだけ捧げられるのか。祈りを持って。奉仕の心を持って。クリスチャンとしての基本をただ生きていくという。それだけが神様への勝利に繋がると思います。

マリア様が実際生きておられる時は、普通の主婦として生きられただけです。まさしく祈りを捧げ周りの人に対する親切な心で過ごしておられた。クリスチャンとしての基本をそのまま忠実に生きただけで、特別に英雄的なことをされなかった。自分の息子を十字架に捧げるという大きな苦しみは、もちろんあったわけですけれど。マリア様の謙遜さと基本を生きたその心を私たちに刻みましょう。

明日から残念ながらミサが出来なくなりますけれども。個人的にも非常に心苦しいですけれども。この困難な日々をイエス様と共に前向きにというか、クリスチャンとしての自分の生き方を、基本を崩さないで、マリア様の恵みのうちに保護のもとに、歩んでいけるように心を合わせて、このミサで祈りを捧げたいと思います+

 

第一朗読  ヨハネの黙示録 11:19a、12:1-6、10ab
天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え(た。)
また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、神の用意された場所があった。
わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。
「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。」

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 15:20-27a
(皆さん、)キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。