カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆イエズス会 英隆一朗司祭の福音朗読 ミサ説教 講話などの公式ブログです☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆

210829 みな上から 光の源である御父から来るのです

      youtu.be

stand.fm

マルコによる福音書 7:1-8、14-15、21-23
(そのとき、)ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』
あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

 今日の福音書は、いわゆるファリサイ派の人々や律法学者たちとの立法論争のお話しの一つです。真面目なユダヤ人たちは食事の前に必ず手を洗うという。あるいはもっと念入りな人たちは市場から帰ってきたら、全身清めて食事をすることをしていた。
一つは衛生面のことがあると思います。科学が発達して、今だったら身を清めるということで、伝染病の感染から予防するという意味はあったと思います。
もう一つは宗教的な、元々は衛生的な意味だったのでしょうけれど、それがいつからか宗教的な意味に代わったんだと思います。今でも正統派のユダヤ人が行くレストランには、入り口に必ず水道があって手を洗う場があって。日本のレストランもだいたいあります。そこで必ず手を洗って食事をするというのが今でも固く守られています。これは今の私たちにとってはコロナウイルス感染症の予防対策で手洗いは一つの基本です。御聖体拝領の前も手を洗いますし、ミサの始まる前にも手を洗ってますし、非常に厳密にやるようになっています。
でもイエス様はあまりそういうことを相対的に考えておられたというか、手を洗うということを絶対視せずに、そこをそれほど重きを置かなかったわけです。それでファリサイ派の人々が喧嘩になったわけです。ファリサイ派の人々は今でいうところの自粛警察にあたるのではないか。守っていないとだめだ、だめだと。でもイエス様はそういうことを軽んじていたというより、最も大事なものがあるということをちゃんとポイントをついているということです。最も大事なものは何かといったら、人を汚すものは外からのバイキンやウイルスではなくて、人間の心の中から出てくるものこそが、人を汚しているということです。これは私たちがよく黙想しなければならないポイントだなと思います。
今も感染者がどんどん増えて病院が患者さんで溢れて入院出来ないということなので、危機的な状況になっています。色んな人の話しを聞いて、あるいはニュースやネットを見たりして思うことは、コロナそのものよりも、コロナの事から生じてくる、人間の思いが問題だとイエス様と同じように感じます。つまり感染症を恐れて家に閉じこもることによる孤独とか、人と会えない苦しみとかです。あるいは逆に家族としか接することができないので家庭内暴力ですよね。子供に対する虐待はものすごく増えて、性的暴力を含んで非常に増えてるのは明らかです。仕事が出来なくて、自殺は男性の方が多いんですけれど、今は仕事などの問題で女性の自殺率が上がっていたり、コロナそのものよりも、コロナに振り回されて生じてくる、私たちの悪い思いというか、マイナスな感情とか、そういうものに私たちが振り回されているという事の方が問題だと本当に思いますね。コロナ対策はするべきですけど、それ以上にこのコロナから来るマイナスな私たち人間の中に眠っている、弱さとか怒りとか寂しさとかエゴとかということに私たちはもっと気を配らなきゃならないでしょうし。それはニュースには流れてこないものだと思いますね。私たち信仰者は自分を振り回しているものは何なのかということをよく見て、それに振り回されない生き方を歩んでいくということですね。それを今また心にしっかり刻みたいと思います。
もう1年半も経っていますから、多くの人はもう うんざり、いい加減にしてくれという気持ちだと思うんですけれど、今こそ私たちの心の中の汚れに、人々の心にある汚れに振り回されない生き方を選んでいくということです。
第二朗読のヤコブの手紙に書いてあります。「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。」残念ながら言葉が省かれていて言葉が足りないんですけど、この言葉の前に何がかって言ったら「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り」つまり自分の心から溢れ出る悪とか様々な汚れを捨てて、心に植え付けられた御言葉を受け入れ、その御言葉を救いのポイントとして 生きていくように、ということなんですね。もちろんワクチン接種も必要ですから打てる人は打ったらいいと思いますが、私たちがもっと打たなきゃならないのは御言葉ですよ。御言葉を自分の心に植え付けるっていうか、それを入れて御言葉を生きていくことによって、私たちは今の混乱したモヤモヤ感とか何かごちゃごちゃしたものから救われていく道が示されるということですね。今、御言葉に自分の生き方をそれにのっとって生きていくようにしましょう。特に御聖体を直接いただけないですから、霊的聖体拝領しかできないですから、御言葉をこそいま自分の心に入れて、その御言葉を自分の生き方の柱にして、中心にしてそこから歩んでいくことができるならば、今の混乱に振り回されない、打ち勝っていく生き方ができるんじゃないかと思いますね。
本当に苦しい時は聖書を開いて、直接聖書を読むのが一番ですよね。今どういう言葉を皆さんが受け入れるのが一番いいのかは人によって違いますが、例えば希望という御言葉やそれを心に入れて、その希望に基づいて生きていく。御言葉を行う人になれというんです。御言葉を受け入れて、御言葉を生きていくってところで汚れから振り回されない。希望という言葉を心に入れて、希望に適う生き方を一歩一歩、歩んでいく。愛という言葉が響く人もいるかもしれない。今日の毎日毎日を愛に基づく行いを、小さな親切を、生きていくことによって、私たちは汚れが落ちていくというか、汚れからとらわれから解放されている生き方が、絶対生まれてくると思いますね。ただ単に感染者が増えるとか減るとか、どうのこうのという外のことじゃなくて、自分が今、御言葉に基づいた生き方を一歩一歩、歩んでいく。人によってはゆるしとか平和とか、やすらぎという言葉が大事かもしれない。では安らぎに基づいた生き方を日々生活で生きていくならば、それは振り回されないでしょう。それを願いたいと思います。
ヤコブの手紙で一番最初のところなんですけれど、もの凄く重要だと思うんです。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父か来るのです。」恵みは神様から与えられるものだと。人間がつくるものではない。私たちは御言葉を受け入れるならば、それを実現してくださる力は神から来るわけです。自分の力でやらなくていいということですから、その神の恵みを願いましょう。
またたとえば私自身は、時々文章を書いて本を出したり、あるいはこうやって説教とかをしていますけれど、実感として思うのは自分が喋っていない。自分のことを書いているんじゃなくて、神から与えられたものをしゃべって、神から与えられたものを書いているんですよ。書き言葉にする時は。でもそれは芸術やっている人たちと話すと本当に分かりあうんですけど。カメラであろうと音楽であろうと絵を書いている人であろうとですね、とにかく芸術やっている人はみんなそうなんです。自分の力でやっている人は誰もいないんですよ。創造的なことをする人っていうのは、上から与えられて、その上から与えられたものを表しているだけだと。私も時々文章を書いたりするんですけれど、上から与えられたものを書いているだけなので悩むことはゼロなんです。勝手に書けるというか、最初から文章の構成とか考えた事が一度もなく、上から与えられたものをただ書くだけなんですよね。ものすごい簡単な仕事なんですけれど。でも全てそうなんですよ。全部上から与えられて、それを私たちはただやればいい。日頃の生活の全てはそうなんですね。何が邪魔しているかっていったら、自分の自我とか、とらわれとか、自分の心の汚れが邪魔をしているだけなんです。神の恵みを受けて、それを私たちが実現すればそれで十分なんです。イエス様の生き方とか、マリア様の生き方の秘訣はただそこだけなんですね。父なる神から来るものを受けて、それをただ生きたり語ったり、表現しているだけだってことなんですけど。私たち皆がそういうふうな生き方に招かれていると思いますね。現実的には外面的な難しさもあるし、心の中のとらわれもそれを認めた上で、神の恵みを生きていきましょう。そして生きる力は、主は必ずくださいますね。勇気と力と平安な心、希望ですね。主が必ずくださいますから、それにのっとって、この一週間また歩んでいけるように、神様に、人と物理的に離れていても、心合わせて祈りを捧げたいと思います+

第一朗読  申命記 4:1-2、6-8
(モーセは民に言った。)イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。
あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」と言うであろう。いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。

第二朗読  ヤコブの手紙 1:17-18、21b-22、27
(わたしの愛する兄弟たち、)良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。
心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。