カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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211003 心の壁を取り払い 神と人が一体になる

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マルコによる福音書 10:2-10:16
(そのとき、)ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
《イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。》

今日の第一朗読、そして福音書は結婚のことについて語られているいえるでしょう。「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。」二人は一体となると書いてあるんですけれども、なかなか感慨深い言葉じゃないかと思います。もちろん夫婦はそうでしょうけど、場合によっては親子、友達同士でも人と人とが一体になる大きな喜びというか、励ましというか、そういうことを強く感じることは、人生において度々あることでしょう。
でもそれと共にすぐ私の頭に浮かんでくるのは、結局一体になれない苦しみというか、近づけば近づくほど理解しえなかったり、傷つけあったりしてしまう、一体になれない人間の苦しみですか。一体になる喜びがあると共に、一体になれない苦しみが人間の中にはいつもあると言えるのではないかと思います。
イエス様のお話しでどう考えるかといえば、神が結び合わせてくださったというんです。私たちがもし人と人との間のある程度の一体感を持てるとしたら、神が結びつけてくださった、神様に心を向けるときだけ私たちは心の壁を薄くして、自分という存在を無くさず、一人ひとりを肯定していく。一人ひとりを肯定しない限り、心の壁は消えない。強制的に取ってしまうものではないから。
私たちはどのように神様と一体化していくかということを目指す時に初めて人と人とのある程度の一体感を作っていけるのではないかと思います。
私たちクリスチャンの最終的な目標は何なのか。人と人との一体を目指すんではなくて、神との一体を目指すんではないかと思えます。それに私たちが向かって、神に向かって祈りを捧げて、神と共に生きていこうとする時に自分を受け入れて、そして人との関わりを受け入れていける、私たちの小さな繋がりを回復できるんではないかと思います。
このコロナで 心の壁が分厚くなってしまった私たちは、どうやって人と人との関わりを、あるいは人と人との繋がりを持っていくのかということが、大きな課題ではないかと思います。それは神様の働きに目を向ける時に、そこに新しい光や力が与えられるようになります。
音楽を聞くので、最近YouTube で聞くことが増えて、昔はレコードとか CD とか音だけ聞いていていたんですけれど、今は画像がついていて、演奏者を見ながら聞く。昨日の夜もジャズの名盤を聞いていた。演奏する人が名演奏、クラシックとかジャズを弾いているのを見ていたら、その演奏者と曲が一体化している。そこから素晴らしい音楽が演奏する人とか、きっと曲とかものすごい一体化しているわけです。それを見ながら聴きながらする時に大きな感動が私たちの心にもたらされるわけです。やはり神と私たちが一体化していくとしたら、そういう形じゃないかなと思います。神様は見えないですから。でも見えないものを私たちが神と一体化した時に、この素晴らしい音楽のように、神の愛が私たちから出てくるような、そういう一体感だったら私たちは少しずつ、日々の生活の中で祈りの中で日常の中で少しづつ出来るのではないかと思います。
私達は人と人との関わりも当然苦しみもあるけれど、一体化を目指していった方がいいでしょうし、でもそれができるには、神様となるべく一つになることを求めながら、それは自分の中の分裂ということを受け止めながらですけども。そして人との関わりを少しずつ深めたり強めたり仲直りしたり。そういうことができるように今日のミサをささげましょう。
夫婦関係が実は一番難しいかもしれない。その他、人と人との関わり、様々なところがありますから。そういうものを少しでも一体化を目指して、神が結びつけてくださった、神様が出会わせてくださった、神様が関わるように呼びかけられている関わりを大切にして歩めるように、共に祈りを捧げたいと思います十

第一朗読  創世記 2:18-24
主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
「ついに、これこそわたしの骨の骨わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

第二朗読  ヘブライ人への手紙 2:9-11
(皆さん、わたしたちは、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。
というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥と(されないのです。)