カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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211024 神と共に育ててくださるよう祈り求める

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マルコによる福音書 10:46-52
イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

 今日は幼児洗礼式ということで、小さなお子さん達が何人か来ておられます。まだ始まっていないですけれど、泣き声とかは子供の仕事みたいなものなので、騒いだり泣いたりするのは、子供の賛美歌だと思って、共にこのミサでささげたいと思います。あんまり気にせずにこのミサをあずかっていきたいと思います。

今日の福音書ではバルティマイという目が見えない人が、目が見えるようになったというお話なんです。この目が見えないということですが、なかなか考えさせられる。目が見えないとか、何かいろんなことが分からないとかってことですけれど、確かに小さな子供達はあんまり物が見えてないし、物が分かっていないのは確かです。よく分かっていないところばかりだろうと思います。

でも大人の方が果たして本当に見えてるのか分かってるのかっていうことも、実は案外それほど、確かなことではないんじゃないかと思います。

今コロナですけれど、コロナがこんなに収束したってこと自身が、専門家ですら誰も説明できないわけで、来月はどうなるかも誰も分からないっていうことですから、私たちはいろんなことが分かっているようで、実は見えていないことがたくさんあるということですよね。ついでに言うともう今の感染者は東京都の一日の交通事故の件数の半分ぐらいまで減ってますから交通事故に会うよりも少なくなっちゃってるわけで、特にこの教会は千代田区なんですけど、千代田区はとうとう入院患者ゼロ、自宅療養者ゼロになりましたから、千代田区でコロナ患者すらもいないというぐらい減っちゃったんですけれど、何でだったのか分からないし、でも突然また増え出すかもしれないし、全く見えない。

そして今日来られているお父さんお母さん方がそうですけど、子育てというのは私はしたことがないから分からないですけれど、皆さんは初めての経験で分からないことだらけの中で、なさっているんだろうと思います。経験がないことをこの小さな子供とか、赤ちゃんは赤ちゃんで大変でしょうし、チョロチョロ動き出して大変だし、全くよくわからないことが子育てということですね。されているって事だけで、ものすごく尊敬する気持ちです。結局私たちは分からないっていうことなんですよね。どう子育てしたらいいのか、色々失敗もされるでしょう。

先輩の信者さんがおっしゃってたんですけれど、子育てする時にいっぱい、いっぱい間違いを、失敗したんですよね。いろいろ経験を積んで、これからだったらその子育てがうまくできると思った時は、大きくなっちゃって卒業、できると思った時はもうやらなくていいとか。できない時に必死にやらなきゃならなという。そういう私たちは矛盾というか現実の中に生きている。だからこそ今日の福音書で、イエス様によって目が開かれた。目を開いてもらって、歩む道が分かったってことは、本当に大きなお恵みだと思うんですよね。分からない事だらけの中で、神様に教えてくださいとか、これはどうしたらいいんでしょうかとか、神様にあるいは周りの人に聞きながら、でもほんのちょっと先が見えるだけで、私たちはそこを歩んでいくことができる。全部の事は分からないけれど、でも神様により頼みながら、ああかな、こうかなと思って、次の一歩を二歩進めていける事が、神様のお恵みじゃないかなと思います。

今日のバルティマイはやっぱりしつこい人なんですよね。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と言い始めたけど、「多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。」子供は黙れと言っても黙らないですけど。こういう押し付けがましい人に、神様の恵みが開かれるということなんです。こういう人の事をヘブライ語でヌドニックは、なかなか英語にしにくいのですが、日本語では押し付けがましい人。でもヌドニックみたいな人に神様が応えてくださっている。私たちは分からないことがあったら神様にしつこく周りの人にしつこく頼ったり願ったりしている中で開かれていくことがあるということです。「あなたの信仰があなたを救った。」言い換えれば、あなたのしつこさが、あなたの押し付けがましさがあなたを救った。みたいなと言い換えることができるんですけれど。だから私たちは、特に子育てとか忍耐と体力と気力と、いろんなことがないと、本当にできないと思います。でもそういうヌドニックがあって、神様の力が働いてくる。そこに私は信仰とかのことの意味があると思います。分からない時に必死に聞きながら助けてもらいながらいく中で、やはり子育てと神の恵みが、開かれてくると思います。

小さな子供達を見ていると、将来に大きな希望をいつも感じますけれども。神様が実際は子供を育ててくださるんだと思います。本当のところはですね。私たちは単なる協力者にしか過ぎないと思うんです。この子供たちが神の恵みを受けて神の子として、いろんな困難もあるでしょう。それでもすくすくと育っていくことができるように、このミサで心を合わせて恵みを願いたいと思います+

第一朗読  エレミヤ書 31:7-9
主はこう言われる。ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え。
諸国民の頭のために叫びをあげよ。声を響かせ、賛美せよ。そして言え。
「主よ、あなたの民をお救いくださいイスラエルの残りの者を。」
見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し 地の果てから呼び集める。
その中には目の見えない人も、歩けない人も 身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。
彼らは大いなる会衆となって帰って来る。彼らは泣きながら帰って来る。
わたしは彼らを慰めながら導き 流れに沿って行かせる。彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。
わたしはイスラエルの父となり エフライムはわたしの長子となる。

第二朗読  ヘブライ人への手紙 5:1-6
大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。
同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、
「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」
と言われた方が、それをお与えになったのです。また、神は他の個所で、
「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。