カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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211107 分かち合う 深い喜び 豊かな恵み

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マルコによる福音書 12:38-44
(そのとき、)《イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をま とって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」》
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 今日の福音書はマルコによる福音書の12章。イエス様が神殿の境内でお話しをしたりしていた時の一つのエピソードです。貧しいやもめの献金という、何かハッとさせられるような、心があたたまるようなお話しではあります。

多くのお金持ちがたくさんのお金を賽銭箱に入れているわけですが、この貧しいやもめは本当に貧しかったんだと思います。レプトン銅貨二枚、一クァドランス。今の計算でいったら100円から200円ぐらいのお金だろうと思います。それが生活費全部だったというから、相当貧しかったんだろうと思います。持っていた自分のお金、100円か200円を寛大に献金したというお話しです。

私たち一人ひとりが何をどれだけ持っているのか。神の目から見たら小さなものを持っているだけかもしれない。それを神様にどのように捧げることが出来るのか。あるいは分かち合うことが出来るのか。それを私たちは改めて問い直してみてもいいのではないかと思います。

約三十年前ぐらいですけれど、イエズス会の中高の学校で教えていたんです。その頃も今も体力がなくて体が弱かったんです。その時も学校の先生は体力がないとできないので、なかなかそうもできず、やっていたんです。その時にこの貧しいやもめのたとえ話しを読んで、非常に慰められた気がしたことを今でも覚えています。自分の体力は100円か200円ぐらいで大したことないんですけれど、でも仕事がどんどん来ますから、やっぱり精一杯やればいいと思って、非常に慰められた聖書の箇所ではあります。

いまだに体が弱いタイプで、三十年間ずっと思っていましたけれど、十分な体力があればもっといろんなことができるのに、ということを思いながら、その弱い体力の中で何もできないです。そのジレンマみたいなのをずっと感じながら生きてきて。そのうち元気になるかと思ったら、五十歳過ぎたら老化が始まってしまって、目がよく見えないとか、元々睡眠障害あるのにさらに夜眠れないし。いつまでたっても1クァドランスしかないぐらいの体力です。

自分の中で一つのまさに幻想かもしれない。今日のこの律法学者みたいな、もうちょっとあれば十分なんとかなるんじゃないかという。体力かお金、時間がもうちょっと自分に豊かにあれば、なんとかなるんじゃないかといつも思っているわけです。でも三十年間全然そうではなかったけど。でも私たちがお金がもうちょっとあればとか、健康がもうちょっとあればとか、何かがもうちょっとあれば、自分の生活を安定するとかうまくいくとか、そこに気持ちがいってしまうことがあるかもしれないけれど、でもそうじゃない。今自分の乏しい体力とか、今の自分の乏しい金銭的な状況とか、今の厳しい仕事の状況とか、あるいは今の時間の無さとか。結局私たちは基本的にはいろんなことが足りないんですね。その足らない中で自分の持っている物を、尽くすことができるのか。分かち合うことが出来るのか。つまり何か持とう持とうとすると、持てない苦しみで、持っているものを分かち合おうと、しかも全部分かち合おうとすればするほど、私たちの心の中に深い喜びというのか安定感というのか、イエス様から褒められなかったとしても、そこに何か恵みがあるんじゃないかと思います。

日本の経済とか今の資本主義はもう行き詰まっていて、でも資本主義の根本原理は何なのか。結局持とうとするコレクション、資本主義の原則はコレクション。なるべく持とうとする収集ですかね。いろいろ集めて持とうとすること、自身が資本主義の根本原則だっていうんです。もう持てないんです、もっと豊かに持つことは。特に日本はもう無理なんです。給料上がらないし、所得上がらないし、経済成長とかもしないんです。それはもっともっと求めようとすればするほど、私たちは持てない苦しみの中で、足らないからなんとなくモヤモヤした気持ちの中でそうせざるを得ないことがあるかもしれない。むしろ持っていない小さなものを、それをどう周りの人と分かち合っていくのか。自分の乏しい時間、自分の乏しいエネルギー自分の乏しいお金、健康ですね。それをどう分かち合っていこうかと思うならば、全然違う恵みの世界が広がるんじゃないかと思います。

このやもめはイエス様に褒められただけで、この人がどう生きたのかが全然出てこないです。でも自分の持っているものを寛大に献金できる心の広さがあるわけです。だからイエス様から祝福された名もない貧しいやもめと、普通名詞でしか呼ばれていないですけれども、でもこの人の人生は豊かな人生を送ったんじゃないか。物を持っていないからこそ、助けたり助けられたりしながら、そのような神の恵みの世界に生きる大きな喜びに招かれたと思います。

逆に最初に出てくる律法学者です。極端な感じでありますけれど、結局私たちの姿かもしれない。あれもこれも欲しい。そのような生き方を目指せば目指すほど、人一倍厳しい裁きを受ける。裁きと言わなくても、結局心の中にいつまでたっても満足ができない。この不満足感をずっと抱えることになってしまうんではないかと思います。私達は持っている乏しいものを、どれだけ分かち合うことができるか。それができた時に本当の喜びが来るのではないかと思います。

時々話していることですけれど、ロヨラハウスといって、イエズス会のご高齢の神父様方が住む家があって、隣りに神学院があって、よくロヨラハウスに通っていたんですけれども、でもやはりおじいちゃんになった神父様達も色々なんですよね。しょぼんとした感じの方も、若い頃に比べたら働けないですから、それほど大きな喜びを感じることがないのが普通かもしれない。でも一人の百歳を超えてた聖人の誉れの高い神父様がおられたんです。最後の最後まで自分のできることを精一杯なさっていた姿を見ると、ちょっとしかなくても、ちょっとしたことを分かち合うのを感じます。毎日三時頃おやつを食べるんですけれど、神父様一人で片付けようとするんですね。他の神父様が去った後、一人でその神父様がおやつの片付けをいつもしいた。若い頃は教会で働いて、いろんな人の家を訪ねて歩いてたんですけれど。家庭訪問できないから、仲間の神父様の部屋を毎日一人一人の部屋を訪ねて、他の神父様が10人か15人いましたけど、信者さんの家庭訪問ができないですから、神父さんの一人ひとりの部屋を毎日毎日、一部屋づつ行って神父様を励ましたり、最後もう目が見えなかったんですよ。だから一人でミサをたてられないし、目が見えないから聖書も読めないんです。何もできないかといったら、最後はロザリオの祈りをずっとされていた。今はもうやらなくなった、牛乳パックの回収です。牛乳パックを洗って干すやつですね。最後の最後まで自分のできる、本当に1クァドランスかそれぐらいの体力とエネルギーしかなかったんですけれど。でも最後の最後まで人のために尽くした。自分の出来る祈りをロザリオしかできなかったんですけど、その神父様は若い頃から頭痛持ちで、黙想もあまり出来なかった。沈黙で祈るのがあまりできなかったんですけれど。だからロザリオの祈りをほぼずっと朝から晩まで唱えていました。

人それぞれ置かれている状況の中で、できないことはいっぱいありますけれども、でもできることもいっぱいある。それをわたしたちが自分の与えられている時間とエネルギーと健康とお金とそれを分かち合うならば、どれほど豊かになる機会が今でも私たちに与えられているのではないかということです。そのような違う社会を作れたらいいかなと思う。資本主義に代わる世界は、分かち合いの世界をどうつくっていくしかないと思うんです。でかいことをよく考えているんですけれども、実際にできることは小さなことです。持っているものを私達がただ分かち合うだけで、私たちはもっと豊かな生活ができるんじゃないかと思います。

この貧しいやもめを一つの参考にしながら、私たちに改めて何ができるのか、できないことはできないんですけど。でもできることを小さなことを果たしていけるように、互いのためにお祈りしあいたいと思います+

第一朗読  列王記 上 17:10-16
(その日、預言者エリアは)立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。
主が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることなく瓶の油はなくならない。」
やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。

第二朗読  ヘブライ人への手紙 9:24-28
キリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださった(のです。)また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。