カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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211128 身を起こして頭を上げなさい いつも目を覚まして祈りなさい

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ルカによる福音書 21:25-28、34-36
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

 11月の終わり頃から、そしてこの待降節の第一主日まで、世の終わりの混乱について描写されている聖書の箇所を朗読する習慣があります。11月は死者の月でもありますので、この世の滅びとか死とか、今日の福音書もこの世の混乱とかそういうところをしっかり見つめるようにということで、このような朗読箇所が選ばれています。
「諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。」とあります。非常に大きな危機的なことが来るということをしっかり意識しろと書かれているように思います。
ちょうどコロナの方は少しおさまりかけていますが、まだどうなるか分かりませんし、私も防災のことも考えていて、いつ地震が来るか分からないわけです。日曜日に私たちが集まっている時に地震が起きたらどういう対応をするのかということを、今真剣に考えたりしています。

しかもちょうどテレビドラマで「日本沈没」日曜日の9時からやっている。日頃はドラマは見ないんですけれども防災が気になっているので、毎週ハラハラドキドキしながら、とうとう関東が1/3沈没してしまって、今度は日本全体が沈没してしまうお話しで、なかなか大変な状況ではあります。
小松左京が日本沈没を書いていたのは1970年代ぐらいだと思います。その小説が出た時は何てバカみたいなと、SFですから、こんなことはあり得ないだろうと。それなりにヒットしたんですが、当時はあまり真剣に受け止める気持ちはなかったんです。でも今は日本沈没といったら単なる空想のお話しではなくて、本当に来るかもしれないと思ってしまうリアリティーを持っている。日本沈没は地震だけではなくて日本の企業も活躍しなくなって、日本の経済全体が沈没しつつあるのは明らかでしょう。様々なことが日本沈没しつつある時に来ているというのは別の角度から見てもそうじゃないかという気がします。その中で私達はどのように生きていくのかということだと思います。
しかも日本沈没の今回のバージョンのリメイクのサブタイトルは「希望のひと」と書いているんです。日本沈没の副タイトルは希望のひと、なぜか希望ということが書いてある。どう希望を持って私たちが歩んでいくかというところが大きなポイントでしょう。ドラマの中で希望というものがはっきりと見えてないところもあるんですが。
今日の福音書でこうあるんです。「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。」
「身を起こして頭を上げ」よ、といっているんです。 それはわたしたちの希望の姿勢を表しているんじゃないかと思います。混乱が起きれば起きるほど頭を上げるどころか下の方、この世の現実だけを見てしまって、それに振り回されてしまいがちになるでしょう。何か大きな困難や苦しみや、ただそこに巻き込まれて上を見上げるどころか、目線が下がってしまって地面ばかり、苦しみばかり見つめてしまう傾向がある。その時こそ身を起こして頭を上げることができるかどうか。
今日の聖書の箇所だったら、神の恵みは上から注がれてくる。上から注がれてくる恵みを私たちは見つめることができるかどうか。それは私たちが希望を持てるかどうかの一つの大きなポイントでしょう。イエス様が誕生するのを待ち望むのもいわば上から来るものを待ち望む気持ちだと思います。
私はこの四ツ谷に生きていて教会にいても修道院にいても、見えるのはビルばかりで、それだけで気分が滅入ってくるというか、教会の私の部屋から、修道院の部屋からも見えるのはほとんどビルしかない。何も見えないから窓から外を見るだけで気持ちが鬱々としてしまうんです。でもビルばかりだなと思っていても、ちょっと散歩して迎賓館の前あたりからこちらを見たらですね、ビルは結構低いんですよね。ビルの上に広大な空があって、ものすごい大きな空があるんですが、ビルの谷間にいるとビルしか見えなくて鬱々してしまう 。いくらビルが高くてもその上に大きな空があって、それを私たちは忘れてしまうというか。
ここの天井にしても、これは本当に神様の世界を永遠の命を描いている天井ですが、あんまりよく眺めないわけですよね。つい下の方ばかり私たちは見て。神の恵みの世界、それは私たちの地上に、上から注がれてくる恵みだからどう上を眺めて神様の恵みが注がれてくる出どころを、私たちはしっかり見つめることができるかどうかだと思うんです。
今日の最後が「いつも目を覚まして祈りなさい。」目を覚ましている一つのコツは上を見るという、神の恵みの世界に私たちの心を合わせて行く時に、地上がいくら混乱していても、どういう恵みや力が私たちに注がれているかを、もっとはっきりと気づくことができるのではないか。
混乱したほうが、神の恵みがもっとダイレクトに注がれるような気がします。私たちの人間的な計らいとか人間的な思いを置いて。あるいは自分自身に頼ることを辞めた時に、神の力はもっと強く直接的に私たちに働いてくる。その神様のもっと力強い働きに触れる大きなチャンスが、私たちに与えられているということだと思います。だからこそ心を神に向けるという事ですね。そこから私たちは大きな慰めや励ましと、本当の希望をくむことができるでしょう。
信仰というのは目に見えないものを信じるから信仰なんですよね。この世の苦しみばかり見ている中には信仰は出てこないでしょう。目に見えない神の力、目に見えない神の導きを信じるときにこそ、私たちの本当の希望が生まれ希望があるからこそ、私たちはこの困難を乗り越えていく工夫や力強い歩みを進めていくことが出来ると思います。そのような気持ちでいきましょう。
私たちはコロナの中でそういう気持ちになれるかなと思ったんですけれど、ちょっと何かこの世のことだけに気持ちがいっただけで、コロナが終わりそうな気がします。
でもコロナがあろうと無かろうと、地震があろうと無かろうと、私たちは神様の恵みの中で生きている存在ですから、神の恵みを意識しながら歩めるように、この一週間、皆さんの中にも様々なことがあるでしょうが。神の恵みに支えられながら、上から降り注ぐ恵みをしっかり受け止めながら歩めるように、信仰と希望を持って歩めるように、お互い同士祈り合いたいと思います+

第一朗読  エレミヤ書 33:14-16
見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、「主は我らの救い」と呼ばれるであろう。

第二朗読  一 テサロニケの信徒への手紙 3:12-4:2
(皆さん、)どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。
さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたはよく知っているはずです。