カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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211204 洗礼式ー主が我が道を整えてくださる

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ルカによる福音書 3:1-6
皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

今日は土曜日の晩なので、明日の日曜日の待降節第二主日の典礼を行うのでそのミサを捧げています。待降節第二主日は今読んだ福音書の洗礼者ヨハネのお話しがだいたい毎年朗読されることになっています。

イエス様が誕生し働く前に、洗礼者ヨハネという人がその道を準備するために遣わされて、それで活動していた時の朗読の箇所なんです。この待降節そして私たちが救いを待ち望む中で、まずは洗礼者ヨハネの出来事を活動を思い起こして、イエス様の誕生を迎えるという、クリスマスの前に、洗礼者ヨハネの箇所を朗読することになっています。

ヨハネは何をしていたのか。「ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるため、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」悔い改めて罪を清めるような洗礼です。ここで洗礼を授けていたわけですが、そこでこの預言者イザヤの言葉が引用されるんです。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、』」何を言っているかということなんですが、預言者イザヤというのは旧約のイエス様の前の前の時代の人ですが、イスラエルの民がバビロン捕囚といって、バビロニア帝国に支配されている時に、現代では考えられないですけれど、民族ごとバビロンに連れて行かれた時の事をイザヤが語っている。民全体を奴隷にするために何万ぐらいの人を連れて行くわけですから。連れて行かれて40年から60年ぐらいそこで。結局バビロニア帝国が倒れて、次のペルシャ帝国になった時に、初めてキュロソーという人が国に帰っていいということで、やっとバビロンから今のパレスチナ地方のイスラエルに戻れる。人によってはだいたい50年ぐらい離れている。一世代二世代ぐらい人も変わって、やっと国に自分達の母国に帰ることができるんですね。島国の日本で考えられないです。あの辺りは地続きですから帝国の王様ってものすごく権力があったので、一つの民族がこっち行ったりあっち行ったりできるぐらいの。

ここでその「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」帰り道が真っ直ぐで歩きやすいようにということなんですね。帰る時にでこぼこ道だったら、イスラエルの民が無事に帰れるように神様がわざわざ道を真っ直ぐにして、このでこぼこの道は谷がなくなって山と丘とかが低くなるから歩きやすくなって、曲がった道がまっすぐになって、でこぼこ道が平らになって帰りやすくなるようにという、神様の親心みたいな話なんです。

もちろんこの洗礼者ヨハネの時には、ローマ帝国の支配で属国みたいな感じだったわけですけれど。でもそこからの解放だけじゃなしに、洗礼者ヨハネは自分の国に帰れない。いわば囚われになった民を回復してくださる慰めのメッセージを洗礼者ヨハネは当時の人々に伝えたわけです。

今日は二人の方が洗礼を受けられるということは、二人がどう思っているかどうか分からないですけれど、長い長い神様から離れた囚われの力です。やっと神様の元に帰る、戻っていく平らな道、まっすぐな道を主が用意してくださって。洗礼を受けるというのは新たな神様の子供になることですけれど。でも逆に言えば私たちみんな神様から離れていて、バビロン捕囚みたいに私たちはどこか神様のない囚われの世界に長い間、10年か30年か50年か、いわば囚われの身であったのに、洗礼者ヨハネとそして最終的なイエス様の恵みによって、やっと私たちが本当に帰るべき神の国に戻す道を主が示してくださったから帰りましょうと、洗礼者ヨハネは言っているわけです。

今こそ洗礼を受けられる二人は、神様の国に帰って、神の子供になる恵みを得る時が来たということですよね。まっすぐな道でしかも平ら。それはなんでかと言ったら、帰りやすいように神様が道を整えて下さって、その道を変えることができるということです。二人はコロナの中でなかなか厳しい、勉強もうまくできなかったかもしれない、教会にもなかなか来れなかった時期があったでしょうけれど、でもやはり主が平らな道を、まっすぐな道を整えてくださって、今日の日を迎えることができたんだと思いますね。いわば洗礼者ヨハネ役がシスターかもしれないし、あるいはこの代父母をしてくださっている仲間の方々かもしれないですけれども、誰かが導いてくださってその道を平らな道を歩むことができて。でもその道を用意して神の国で待ってくださっているのはイエス様ご自身だと思います。今日洗礼を受けてイエス様の弟子となる、神の子供になるっていうことは、本当は人間の本来の姿に囚われから解放された、本当の自由な生き方に戻るっていうことだと思いますね。だから今日お二人は洗礼を受けられて、まさしく解放された。囚われが仕事の囚われか、家族の囚われか、コロナでも囚われてますが、私たちはそういうものから解放されて、自由な人として神の子供として神様の道をまっすぐ歩むその時を迎えたということですよね。それを心に刻んでくださったらいいと思います。わざわざ神様がでこぼこ道を平らにしてくださった。ものすごく歩きやすい道だってことですよね。この歩きやすい道を、しかも人間から見たら世の中ってグネグネしていて明日のことも分からない。オミクロン株はどうのこうので、もう一か月先も分からないけれど。でも主の道は真っ直ぐで平らで歩きやすいということなんですよね。

この世の道は相変わらずでこぼこですけども。でもこの道を私たちは主に導かれてまっすぐ歩む。その恵みをこの二人に与えられた。それを感謝して二人のためにお祈りしたいと思います。

そしてここに集まってる方々は洗礼を受けている方々もまだ未信者の方々も、真っ直ぐな平らな道を歩むように、整えてくださっている道を歩む恵みと力を与えて下さってるわけですよね。だからこそ心を開いて私たちは素直に神様の呼びかけに応えて、直接神様は呼びかけてくださることもあれば、指導してくださる方々を通して呼びかけてくださることもある。だから洗礼者ヨハネという預言者が与えられているわけです、この時はですね。

私たちにも様々な助け手が与えられてますから助け手も通しながら、主の呼びかけに救いの道を歩めるように、今までもその道を歩んでこられたと思うんですが、まさしく洗礼を受けてその神の国にいわば魂の国に戻るような感じですから。開放された自由なものとしてこれから歩んで下さったらいいと思います。

そして教会としては待降節でイエス様の誕生ですね。このロウソクが全部つけば、あと3週間ぐらいですけどけども。イエス様の誕生を心から迎え入れたいと思います。

私たちが神様に心を開いて神様の道を歩む。それは決して難しいことではなくて単純な道だと思います。その道を素直に歩みながら神の恵みをしっかり受け止めて、イエス様の今年のクリスマスの格別な時だと思います。クリスマスを迎えて、主の弟子として二人が歩めるように、みなさんで心を込めて祈りましょう。

二人がさらに勉強も続けながらその道を確かに歩めるように、皆さんで支えながら共に歩んでいけるように、心を込めて共に祈りを捧げたいと思います+

 

第一朗読  バルク書 5:1-9
エルサレムよ、悲しみと不幸の衣を脱ぎ、神から与えられる栄光で永遠に飾れ。
神から与えられる義の衣を身にまとい、頭に永遠なる者の栄光の冠をつけよ。神は天の下のすべての地に お前の輝きを示される。お前は神から「義の平和、敬神の栄光」と呼ばれ、その名は永遠に残る。エルサレムよ、立ち上がれ、高い山に立って東の方に目を向けよ。お前の子らは、神が覚えていてくださったことを喜び、西からも東からも 聖なる者の言葉によって集められる。お前の子らは敵に追い立てられ、徒歩でお前のもとを去ったが、神は彼らを、玉座につく王のように高く上げ、栄光のうちにお前のもとに連れ戻される。すべての高い山、果てしなく続く丘は低くなれ、谷は埋まって平地になれ、と神は命じられた。それはイスラエルが神の栄光に包まれ、安全に歩むため。森も、香り高いすべての木々も、神の命令でイスラエルのために木陰をつくる。神は自らの慈しみと義をもって栄光の輝きを表し、喜びのうちにイスラエルを導かれる。

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 1:4-6、8-11
(皆さん、わたしは、)あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。