カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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211224 キリストにおいてすべてを新しく見る

    

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ルカによる福音書 2:1-14
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

 今年も厳しい中でありますが、イエス様の誕生を祝うミサを共に行えることを非常に嬉しく思います。イエス様の誕生の場面は本当に何かしんみりした感じがいたします。ベツレヘムですね。今でもそうですけれど、その頃のベツレヘムは本当に方田舎の小さな町、貧しい村だったでしょう。その村の宿屋に泊まることもできず、この馬小屋にマリアとヨセフが泊まる、その中でイエス様が誕生されて飼い葉桶の中に寝かされてるということですね。びっくりするほど貧しい中でイエス様はお産まれになった。神様なんだからもっと豪華なところで産まれても良かったわけですけれど、わざわざこの貧しさ目立たなさ、小ささというんですか、それをわざわざ選んでイエス様は誕生されたわけですね。それは一体どういう意味があるのかということですよね。それを何か考えたいと思います。
今年は特別に、イグナチオ教会の方はご存知だと思うんですが、イグナチオ年というのをお祝いしています。イグナチオの回心の500周年記念ですね。今年の5月頃から来年の7月までイグナチオの年をお祝いしているんです。それはわたしにとっても非常に大きなお恵みです。イグナチオが口述筆記した自叙伝というものがあって、それを改めて読み直したり自分なりにあるいはイグナチオが体験からつくった霊操という祈り方があって、霊操の中の様々な黙想についても改めて自分なりに黙想したり思い巡らしたりしています。自叙伝の方は教会報のマジスの方に毎月小さな連載をしていますし、霊操の方はオンライン霊操という形で3人の神父様が交代でお話しています。
自叙伝を読んでも霊操の黙想をしても、ものすごく強調されているのは貧しさなんです。貧しく生きるということをイグナチオの生き方からもそうそうですし霊操を通してキリストに従っていくのには貧しさを生きるという呼びかけが強いのです。イグナチオの自叙伝を読んで、エルサレムへ巡礼に行くんですけれど、なんと全くお金を持っていかないで、神様だけに頼って巡礼を成し遂げるんですね。知り合いにお金持ちの人もいて旅費を全部出すからとかガイドとか一緒に旅する人を一緒につけますとか色々言われた。私だったらラッキーと思って貰ってそのお金で行くと思います。全部断る。後の勉強の時もそうなんですが、イエズス会をつくってからもそうで、すごく貧しさを大事にしてイエズス会がつくった学校は当時授業料がただだったんですね。イエズス会の持っている聖堂では献金箱を置いたらだめ。何でもかんでもタダで非常に貧しさを大事にしてるというのがイグナチオの生き方と初期のイエズス会でははっきりしているんですよね。それは非常に印象的なものとして自分の心に何か訴えかけてくるものがあるんですが、でも考えてみたら私たち日本人は古来から貧しさを大事にしてきたと思うんですね。物質的な欲求とか欲望を膨らますような生き方を日本人はしていなかったと思います。仏教で言うならば例えば禅仏教にしてもシンプルな何もない無のようなものを大事にして、とらわれを置くというか、あるいは儒教の精神もそうですね。倹約をして無駄遣いしないで真面目に働くという日本人の勤勉さとか貧しさを儒教の精神もはっきり表している。残念ながら貧しさの精神は日本の社会、特に都会で消えてきているのが残念な気がします。でも日本人が大事にしてきた貧しさとイグナチオが大事にしてきた貧しさと同じなのか違うのかということですが、イグナチオの生き方をみて思うことは実は全然違うということなんです。何がどう違うのかというとイグナチオが貧しさを生きる中で何があったのかというと神様の力がすごく強く働いているということが起きている。つまり神様だけに頼るので人間の力に頼らないから神様の力をものすごく働くということをイグナチオは体験している。日本の貧しさの中に神様が働くことは出てこないのでイグナチオが大事にしていた貧しさというのはそこに神様の恵みと力がものすごく働いてくるという非常に積極的な意味があるということです。それを私たちは大事にするべきポイントではないかと思います。
そしてこのクリスマスの夜の出来事を貧しさの中だから神様の力があるいはそこに神様が誕生したと言えるでしょう。そして貧しい羊飼いが呼ばれるわけですけれど貧しい中だったからこそ天使が現れて天の大群が加わって「いと高き所には栄光、神にあれ」ここのところをスペシャルナイトコンサートといっているんですけれど、神様の大きなお恵みを彼らだけが味わうことが出来たわけです。私たちは様々な貧しさとか困難とかコロナもやっと終わりそうになったかなとか思ったら、感染者が増えてきて海外並みになるかどうか、わたしたちも心していなければならない。私たちの様々な制限や貧しさを抱えているわけです。でもこの貧しさを積極的に受け入れていくならば、そしてわたしたちが神の前に謙遜に神の前にひれ伏すならば神様の大きな力が私たちに働いてくるということを保証していると言えるでしょう。
イグナチオ年のテーマがあって「キリストにおいて全てを新しく見る」ということなんです。コロナにしろ何にしてもただ元に戻ることを考えたらどこにも新しさがないわけですけれど、全てのものの中に新しさを見るとしたら私たちの小ささや貧しさの中に働く神様の力、神様の恵みに気づくならば私たちは新しく見ることが出来る。そして新しく歩みを出発することが出来る。それを私たちの心に刻みたいと思います。

自分自身が今ある貧しさや小ささや困難。それを受け止めてその中でこそ神の恵みが働いてくる。その神の恵みに信頼して歩んでいきたいと思います。
私の講座で何人かの人がクリスマスに洗礼を受けたんですけれど。一人の青年が言っていて、なるほどなと思ったんですけれど、地方から出てきて東京に働きに来ていて、友達がたまたま日系ブラジル人だった。カトリックで彼が病気で苦しんでいた。だからお見舞いに行くのにカトリックだからといってわざわざイグナチオ教会に彼のためにお祈りにお見舞いに来た。もし友達が仏教徒だったらお寺に行ったと言っていた。多分日系の人だからイグナチオ教会に来て。それでお父さんがガンで重い病気で、彼は地方から出てきて仕事も行き詰まって、全部重なって、まさしくこの御堂に入って座ってお祈りを始めた途端、ものすごく温かいものに包まれて、コートみたいに温かいものに包まれて「大丈夫だよ」という声が聞こえたと言うんです。一時間ぐらい涙が止まらなくて自分と家族と友人の貧しさ、行き詰まりの中で神様が触れてくださった。あるいは神様が彼の心に誕生してくださったとも言えるでしょう。
そしてコロナの困難のなかにも関わらず勉強して洗礼を受けたんです。まさしく新しく生まれた。神の恵みの中で。一人ひとりの体験は違いますし、人によって違いますけれど、でも私たちも貧しさの中でこそイエス様に出会える。イエス様が自分の生活の中で誕生してくださって、私たちも新しく生まれ変わって出発することが出来る。だからこそ今の困難を受け止めながら歩んでいきましょう。何もない平和な時にハッピーな気持ちでイエスの誕生を祝う、それもお恵みでしょう。 この困難の中でイエス様の誕生を祝う。それこそ一番私たちのクリスマスにとって相応しいことだと思います。私たちの貧しさ小ささ心に合わせて、イエス様の誕生を心を込めてお祝いし恵みを願いたいと思います+

 

第一朗読  イザヤ書 9:1-3、5-6
闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり 人々は御前に喜び祝った。
刈り入れの時を祝うように 戦利品を分け合って楽しむように。
彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を あなたはミディアンの日のように 折ってくださった。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。
王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

第二朗読  テトスへの手紙 2:11-14
(愛する者よ、)すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。