カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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211226 わたしが自分の父の家にいる

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ルカによる福音書 2:41-52
(イエスの)両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

 今日は聖家族の祝日にあたっています。家族のことを私たちは見つめ直す、そういう日であると言えるかもしれない。私は結婚担当司祭で、結婚するカップルとお話しをするんですが、結婚して家族になるというのはどういうことか。それははっきりしていて、運命共同体のメンバーになるということです。家族になるということは、運命を共にしていく、そのような密接な関わりを持ちながら生きていくということです。だいたいは一緒に暮らしているわけです。病気になったら面倒を見るのは家族しかいない。
この二年間のコロナの自粛生活の中で多くの方がそうでしょうけれど、一緒に食事をしているのは家族だけで、私も修道会のメンバー以外とほとんど食事を二年間していないわけです。やはり家族になるというのは濃厚接触者になる、いい意味でも悪い意味でも。他の方とはある程度距離をとることが出来ても、家族とは距離をとることが出来ない。濃厚接触をしながら運命を共にしていく家族だということです。
家族として物理的な濃厚接触だけではなくて、心理的な濃厚接触もあるわけで仲良くいつも出来るわけではなくて難しい問題、なにか理解できないこととか問題をかかえることもあるでしょう。 プラス今は、バラバラに住む時代になってしまったので離れた家族との繋がりという問題もあるんではないかと思います。
聖家族の模範に倣うということなんですが、今日の福音を読んでもそうなんですが、イエス様とマリアとヨセフは仲良かったかどうか分からない。実際は無理解、お互い理解できない問題を抱えていたということは、今日の福音書から明らかでしょう。
12歳の少年イエス様が3日間の失踪事件、教会に来ている子供が3日間いなくなったら大騒ぎ、大変な問題になる。私の責任問題にまで発展する。大変な問題になると思います。失踪していなくなったという話ですから、とんでもない事件だと言えると思います。
イエス様が12歳の時の話ですが、多分これは数えで13歳ですが、ユダヤ人の少年は数えの13歳でバル・ミツバという成人式をしなければならない。多分そのためではないかと思います。その問答をして、まさしく簡単な、今で言ったら堅信式の前かなんかに、一昔前は堅信式の前にテストがあって、神父様が聞いてに答えられない人は堅信式を受けられないことがあったんですが。それと似たような問答があって、プラス、トーラが読める。朗読がちゃんと出来なければならない。ものすごく重要な式でバル・ミツバを終えたユダヤ人男性は、成人男性の数に数えられて、ユダヤ人の礼拝は、成人男性が10人以上いないと礼拝が成立しない規則があったんです。女性が百人いても成立しない。バル・ミツバを終えた成人として認められたユダヤ人の男性が10人以上集まらないと礼拝は成立しないので、ものすごく大事な式なんです。今でも同じです。今でも金持ちのユダヤ系アメリカ人は、エルサレムの嘆きの壁の前でバル・ミツバをするんです。その後大きなパーティーをして、今はやっていないでしょうけれど、イスラエル巡礼で嘆きの壁の前に行った時に、だいたい火曜日と金曜日だったか、そこにバル・ミツバをやっている組がいるんです。
この後「イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。」バル・ミツバの延長なんです。今風に行ったら、少年イエス様は藤井聡太みたいにあまりに抜群であまりに凄すぎて、ずっと問答をし続けてたというんです。普通の子供だったら聖霊の七つの賜物は何ですかというと答えられなくて、でも全く違う次元で少年イエス様が受け答えを、ユダヤ教の本質みたいな話しなんで、3日間延々と対話議論をしていたんだろうと、この場面から想像されるわけです。でもお父さんお母さんからしたら突然いなくなって、大変な問題だったんです。やっと見つけたら、まさしく問答というか対話をやっていたわけです。
そしてイエス様が謝るかというと「どうしてわたしを捜したのですか。」反抗期の青年みたいですけれど、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」全く両親は意味が分からなかったでしょう。イエス様は自分のユダヤ人の青年としてのアイデンティティはなんなのかを、多分問答を通して確認したのでしょう。自分の本当の父は神様であって、自分はまさしくその子供である。だから神殿こそが自分の本当の家だと、ある意味深く深く理解した。それを今風の言葉で言ったら、若者が大人になった、自分のアイデンティティーを発見したといえる大切なことではないかと思います。ここからイエス様の大人としての意識が既に、だから藤井聡太みたいなものすごい早熟なわけですから、始まったと言えるのではないか。
だからイエス様にとって家族というものの概念が変わった。彼は結婚しないし、自分の身内の家族はつくらないですけれど、でもキリストを信じるものたちは、新たな家族であるということを私たちに示して、私たちはクリスチャンである限り、イエス様の家族になるという。ぜんぜん違う新たな家族の世界を私たちに与えてくださった。それが一番大きなお恵みではないかと思います。
一人暮らしをしている方もおられるでしょうし、核家族の方もおられるでしょう。今介護をされている方、子育て中の方、様々な家族を背負って生きなければならない。その根本にはイエス様が神様の元にいて、そこに私たち全員が繋がっている。あらたな家族の恵みの中で私たちは歩んでいるということです。もしその気持ちを私たちは少しでも持てたら、介護の大変さとか子育ての大変さとか、一人暮らしの大変さとか、でも私たちの心の置きどころはやはり神様だ。私たちはどこにいるのが当たり前かといえば、神の家に、神様の元にいるのが当たり前だというところから考えるならば、私たちの実際の家族の繋がりをもっと違う目で、あらたな形で受け止められるのではないかと思います。
私にとっては自分の家族のことももちろんあるんですが、今の家族は修道院ですね。修道院で8名で暮らしている。それがいわば主における家族として共に歩んでいる。
多くの方はご存知でしょう。23日に同じ家族のメンバーの、コリンズ神父様が突然帰天されて、部屋で亡くなっているのが分かって、私も駆けつけて御遺体に対面しました。関わりが深かった方々は大きなショックを受けているところだと思います。コリンズ神父様は絶対こう言っていると思います。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」コリンズ神父様が私たちに言っている気がどうしてもするんです。もう会えないとか辛いとか寂しいとか、様々な気持ちがあります。でもコリンズ神父様は、父の家にいるのが当たり前だろうと、私たちにメッセージをくださっている気もします。
とにかく彼の最後の仕事は22日の司祭の最後の最後の仕事は、実は私の告解を聞いた。クリスマス前で私も告解をしなければならないけど時間がとれない。22日の夜に、3階でやってますから、彼が空いていたので、私が行って告解して赦しをいただいた。コリンズ神父様の最後の仕事が、私に罪の赦しを授けてくださった。次の日、彼は亡くなった。私にとっても非常に心に最後の告解だった心に響くものでした。
でもやはり彼自身が悲しんでいることはないと思います。「父の家にいるのは当たり前」その気持だけだと思うんです。それは私たちが誰かを亡くしたときにも同じ事だと思います。私たちは神の国にいるのが当たり前だ。そこから全てが出発して、私たちの命がある。その事を噛み締めながら、私たちの家族、友人、あるいは孤独の中におられる方もいるでしょう。それらを全て受け止めながら、聖家族を模範にしながら歩んでいけるように、共に祈りを捧げたいと思います+

 

 

第一朗読  サムエル記 上 1:20-22、24-28
(エルカナの妻)ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。
さて、夫エルカナが家族と共に年ごとのいけにえと自分の満願の献げ物を主にささげるために上って行こうとしたとき、ハンナは行こうとせず、夫に言った。「この子が乳離れしてから、一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。そこにこの子をいつまでもとどまらせましょう。」
乳離れした後、ハンナは三歳の雄牛一頭、麦粉を一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携え、その子を連れてシロの主の家に上って行った。この子は幼子にすぎなかったが、人々は雄牛を屠り、その子をエリのもとに連れて行った。ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。

第二朗読  ヨハネの手紙 一 3:1-2、21-24
(愛する皆さん、)御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。