カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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220109 あなたはわたしの愛する子

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ルカによる福音書 3:15-16、21-22
(そのとき、)民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 

 降誕節の最後というか、年間の始めというか、イエス様の洗礼を受けたところを記念するというミサが捧げられます。
イエス様自身が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた。それは今の洗礼というよりはユダヤ教の伝統に則った洗礼を受けられたわけです。すると「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に、一番彼の心に響いたことは何かと言ったら、やはり父なる神から愛する子だと言われた。自分自身が神の子供である。父なる神から愛されている者であるということを改めてはっきりと確認したということ。これが非常に大事なことだと思います。
それと共に言えるのは、私たちも神様から愛されている子であるということです。私たちが洗礼を受ける恵みをいただくということの一番大きな意味の一つは、私たちも神様から愛されている子になるというか、愛されている子であるということを深く悟るというか、イエス様が愛されている子であるという。
愛されている、愛し子とかそういう日本語になると思います。神様から愛されている子供であるとイエス様自身が思われた。私たちもイエス様と繋がることによって、私たちも神様から愛されている大切にされている存在だということ。それが私たちクリスチャンとしての一番のアイデンティティというか。クリスチャンとして生きる上での一番の基本ではないかと思います。
親が子供を愛するように、私たちは神様から子として愛されている、大切にされている存在だということです。イエス様は特別に神様から愛されていた存在でしょうけれど、私たち一人ひとりも神様から特別に愛されている存在であるということ。それをしばしば思い起こしたいと思います。
私たちがいいことをしたり真面目に生きたりすることも大事ですけれど、まずは愛されていると、神様からいつも見守られ大切にされている存在だということです。それを思い起こしたいと思います。それは他人と比べてどうのこうのということではななくて、私たち自身が神様から特別に愛されているということです。
昔、フィリピン人のある有名な神父様の黙想会に出たことがあって、フィリピンでは有名な方だったんですが。昔のカトリックの家族で兄弟が10人いて、司祭になったのは彼だけで、他の9人は普通の生活をされた。お母さんがいよいよ歳をとって亡くなるのが近いという時に、10人の子供が集まってお母さんを囲って、半分冗談だったのか、その場の流れで、お母さんはどの子を一番大事にしていたのか、どの子を一番愛していたのかという、10人でそういう話しの流れになって、半分本気で半分冗談だったのか。それでお母さんにわざわざその場に集った時に、10人のうちで一番誰をかわいがったのか。それは大問題ですよね。子供の間で、誰が一番お母さんから愛されているかというのは案外大きな問題で、それでいじけたりいろんな事が起こる一つの問題ではある。普通のお母さんだったらどの子も大切にしていて、別にどっちが上とかどっちがないとは思います。たまたまそのフィリピン人の神父様のお母さんにそのような話しになって、なんとお母さんがはっきりと一番自分が大切に思っていたのはその息子。神父様になったその彼が一番大切だったと突然言った。神父様も驚いて、自分が神父だからお母さんが一番大切にしたのか、神父様でもかなり有名な人だから、それでお母さんが大事にしたのかと一瞬思った。みんな思ったと言うんです。そのあとお母さんがなんて言ったかというと、10人の中で最も体が弱かったのがその子だから、司祭になった子が一番体が弱くて、他の子は元気だったけど、その子だけ子供の頃から病気がちで心配で心配で大人になっても大丈夫か、ずっと心配していたからその子供のことを一番大切に思わざるを得なかった。とお母さんが言ったというんです。
親から愛されている子供が差があるとしたら、病気がちとか出来が悪いとか、いたずらばっかりしたり、外れた子供こそお母さんが一番気にかけて、大丈夫か大丈夫かとか、愛情を他の子よりも注がざるを得ないわけです。障がいで産まれた子供がいたら、やっぱりその子のことを一番時間をかけて大切にして育てるのがやはり親心です。
私たちが神様から愛されている子供だということは、私たちから神様からものすごく愛されているとしたら、それは私たちがダメ人間だからです。立派な人間でいいこといっぱいやっているから、神様から特別に愛されているわけではなくて、欠点とか失敗とか上手くいかないことがあればあるほど、神様はもの凄く心配して愛する子だよと、いつも心にかけているよと、神様が私たちに言ってくださる。私たちはそのような神の子として歩んでいけるということです。この恵みに感謝していきたいと思います。
もちろん立派でないより立派になった方がもしかしたらいいかもしれないけれど、でも神の前から見れば、私たちはみんな出来損ないの、欠点だらけの弱い者でしかない。だから神様は私たち一人ひとりに愛する子だよと、大切な子だよといつも言ってくださるし、見守ってくださっている。その神様の親心を生きていくのが洗礼を受けた者の一番のお恵みだと思います。
そのようにいつも神様の親心を大事にしながら歩んでいけるように、またコロナの感染症が増えてきて、教会活動もどうなるのかあやしい気もしています。どんな事があろうと神様は私たちを大切に思い、見守り導いてくださっていますから、その方を信頼しながら歩んでいけるように、共に祈りを捧げたいと思います+

 

第一朗読  イザヤ書 40:1-5、9-11
慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。呼びかける声がある。
主のために、荒れ野に道を備えわたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。
高い山に登れ良い知らせをシオンに伝える者よ。
力を振るって声をあげよ良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるなユダの町々に告げよ。
見よ、あなたたちの神かみ見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ御腕をもって統治される。
見よ、主のかち得られたものは御もとに従い主の働きの実りは御前を進む。
主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。

第二朗読  テトスへの手紙 2:11-14、3:4-7
(愛する者よ、)すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。
しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。