カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆イエズス会 英隆一朗司祭の福音朗読 ミサ説教 講話などの公式ブログです☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆

220227 神が重荷を取り除かれる 解放の祈り

ルカによる福音書 6:39-45
(そのとき、イエスは弟子たちに)たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

​ コロナウイルスの感染症が少しはあさまってきて、​コロナがあけることを願っているわけです。コロナの後にまた悪いことが来るのではないかと思っていたら戦争が来てしまった。非常に重苦しい気持ちになります。テレビでもこのところその報道ばっかりという気がします。
聖書を読んで思うのはイエス様の言動を見る限りはあまり世の中のことについて詳しく述べているわけではない。イエス様が述べているのは、私たちの人間の心のあり方、関わり方を中心に見ているわけです。
私たちももちろん戦争反対ですけれど、その中で自分たちの心を見つめ直す。それを心がけなければならないかと思います。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」この言葉は私たちはよく受け止めなければならないでしょう。相手の目にあるおが屑です。木を削ったりすると出てくる小さなもので、相手の目の中にあるからわかるわけで、でも自分の目の中に丸太があるという。それこそ丸太は1メートルも2メートルもあるような。本当にそれが目の中にあったら痛いですけれども。目の中というのは、聖書的な比喩では心の中という意味です。心の中にそれがあるということ。
私たちは相手の何か嫌なこととかそういう事が気になったり、それがあまりに大きくなると戦争になってしまう。でも相手の心にある、相手の態度に表れているおが屑のようなものをもし気を止めるならば、私たちの心の中にある丸太に気づきなさいということをイエス様がおっしゃっているわけです。
昨日ですかテレビのニュースで浅間山荘事件の50周年をやっていて、60歳以上の方はご存知でしょうけれど、連合赤軍の最後の最後に浅間山荘立て籠り事件、それこそ一日中テレビで、私は小学生で観ていました。大変な事件があって、それから50年経ったということなんです。
連合赤軍の浅間山荘事件そのものも大変な事件でしたけれど、それよりも恐ろしかったのは浅間山荘事件を起こす前に、かなり警察から追われていたこともあって山奥に潜んでいたんですけれど、いわゆる「総括」といって仲間を次々に殺していたという。その事が戦慄を覚えるくらい恐ろしかったということなんです。連合赤軍は結局は資本主義に染まっていく日本政府と戦うはずだったんですけれど、日本政府と戦うどころか、結局仲間同士を殺していたという。
人間の心にある丸太の大きさというのは比喩では留まれない恐ろしさがあるのは間違いないと思います。人間の心の中にある非常に恐ろしい悪意とか敵意とか、日頃は気づかないんですけれど、でも深い所にそのようなものがあるということを、私たちは実際のところはしっかりと意識していく必要性があると思います。それが大きく出れば戦争になるわけですし、極小さくなれば家庭内で親が子供をいじめたりとか。どういう形で信じられない形で人間の心の中の悪が出てくるということが実際あるわけです。イエス様はそういうところをしっかり見つめよと言っていることは、今も意味があると思います。ウクライナが遠すぎて私たちが出来ることは何もないんですけれど。少なくとも私たちは自分の心を見つめて、平和への道を歩んでいく必要性があるという事は間違いないと思います。
大切なのは自分の心の中にマルタのような邪魔なものがあるということをしっかり意識していく必要はあるでしょう。
大きすぎて気づかない。丸太があるということは。あまりに大きすぎて日頃は意識できないということと、もう一つは、あるのは分かっていても、丸太をどかすのが出来ないのです。1メートルも2メートルもあるこんな大木を男の人一人でも大きすぎて引きずり出せない。2つの問題は、気づくことが出来ない。気づいても出せない。実は大きな問題がある。少なくとも私たちはそういうものがあるということと、それを取り除いてもらうように神様に願う必要があるという。
「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」という。丸太を取り除けと言っているんですけれども、なかなか難しいということも認めなければならない。丸太ぐらいなら逆にいいかもしれない。人間の心の中にはトラウマとか傷とか、様々なもっとネガティブなものを背負っているということもあるでしょう。
だいぶ前の話ですけれど、一人の男性の知り合いですが、母親からずっと虐待というかそういうものを受けていて、結局そういうものが自分の行動とか考え方を縛っていると気づいてきたわけです。みなさん知っているかもしれないのは、カトリック内観と言って浄土真宗からきている流れなんですけれど、自分との親との関係を見直す、黙想するものがあるんです。しっかりした指導者と一対一で見調べというんですけれど、彼は内観をしたんです。そうしたら自分の心の中にいたお母さんは、丸太どころか鬼のような形相で自分の心の中にいる。鬼のような存在だから、自分がいつもいつも圧迫されて苦しんで、自分の心の中にある、記憶の中にある。彼はずっと一週間ぐらい苦しい黙想をずっと続けて、最後の最後はどうなったかといったら、お母さんの姿が仏様の姿になった。それで彼は解放された。丸太どころか心の中にいた鬼から解放されたということなんです。丸太を取り除くにはどうしたらいいか。イメージ的に言うならば二つの方法しかないんです。丸太って浮きますから。水をいっぱい入れて浮かして外に出すか。あるいは火で焼くか。そこで火をつけて燃やせば無くなる。でも火も水も聖霊の象徴。神の恵みによって丸太は別の物に変えられることがあるということです。それを私たちも願っていきましょう。もし何か自分の心の中に捕らわれや何か上手くいかないことがあるならば、それに気づいて取り除いてくださるのは、神の恵み以外には有り得ないと思います。
向き合って神の恵みの中でそれを扱わなければならないですけれど、パッと追い出すことも出来ないですし、でも彼は自分の心の中のお母さんが仏様の姿に変わったので、解放されて全く違う、ほんとうの意味で目が開かれて、解放された生き方を送ることが出来るようになった言っていました。
私たち全てにその恵みが与えられて、イエス様は一人ひとりの私たちの心の捕らわれを解放してくださる。そこから少しはわたしたも他人の解放の手伝いをすることも出来るかもしれない。それも大きな輪になれば、平和を実現していくことも出来るでしょう。
ウクライナのことで日夜気持ちが重いですけれど、その中にあっても私たちがイエス様の力を信じて、解放と平和に向かって私たちが少しでも歩んでいけるように、当然ウクライナの平和も願いながら、特に今週が灰の水曜日にきてそこから四旬節です。灰の水曜日にはフランシスコ教皇が世界中のカトリック信者に、その日の祈りと断食をウクライナの平和のために捧げましょうと呼びかけておられますから、私たちもそれに合わせて、自分の心の中のこともそうですが、世界の平和と両方をいつも願いながら歩んでいけるように、この始まる四旬節も私たちも心がけながら、共に祈りながら歩んでいけるように、心を捧げて祈りを捧げればと思います

 

第一朗読  シラ書(集会の書) 27:4-7
ふるいを揺さぶると滓が残るように、人間も話をすると欠点が現れてくるものだ。
陶工の器が、かまどの火で吟味されるように、人間は論議によって試される。
樹木の手入れは、実を見れば明らかなように、心の思いは話を聞けば分かる。
話を聞かないうちは、人を褒めてはいけない。言葉こそ人を判断する試金石であるからだ。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 15:54-58
(皆さん、)この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。