カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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220306 弱い気持ちを退けますか

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ルカによる福音書 4:1-13
(そのとき、)イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。
「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。
『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』
また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」
イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

今日の福音書はルカの4章です。イエス様が宣教活動を始める前に体験された出来事ですけれども、四十日間荒野で過ごされた。四十日間の荒野の中でサタンの誘惑を受けてそれを退けられたという、不思議なエピソードというところにあたっています。この前の水曜日から私たちカトリックは四旬節に入りましたけれども、まさしく四旬節というのはイエス様が荒野で四十日間過ごされた。その体験に私たちも預かっていくという事を表していると思われます。そして今日、洗礼志願を受けられる方々はこの四十日間を洗礼を受ける最後の準備の期間として歩んでいく。そのためにこの四旬節の最初に洗礼志願式が行われ、改めて自分の心を整えて洗礼に向かっていく、そういう準備をする時であるということです。そしてこの四旬節、そして洗礼の準備の中で何が大切かというと、この悪霊の誘惑を退けていくということです。それを私たちが心がけなければならないことだと思います。悪霊といったらちょっとおどろおどろしいです。でも私たちから神様を離していこうとする様々な力が私たちにも働いている。それをしっかり見極めて退けていくということです。今日の洗礼志願式の元々の起こりは何かと言ったら、実は悪魔払いの式だったと言われています。洗礼式の前に悪魔払いの式が行われて悪魔を払ってから洗礼を受けるということなんです。そのために解放の祈り、共同祈願の最後の祈りは悪魔祓いの祈りなんです。それが残っていて、油を注がれるのも悪魔を払う油を塗るということになっています。

私は流行りものが好きなので、去年流行った呪術廻戦とかチェックしているんですけれど。やはり悪魔との戦いの話しなんです。悪いものと邪悪なものとの戦いなんです。両方ともアクション系で激しい戦い、鬼滅の刃のほうがいいと思いますが。みなさんは戦う必要性はないんです。悪魔を退ける。このイエス様の姿を見てもそうですが、戦っているわけではないんです。誘惑を受けているのはイエス様がぱっとはねのけているわけです。私たちはイエス様の態度を倣いながらということなんです。一つの例を言うと今年はイグナチオ年ということでイグナチオのことを勉強したりしていることもあるんですが、イグナチオは若い頃は世俗の生き方にとらわれていたといいますか。国々の権力とか繁栄とか出世とか人から注目を集めるとか、騎士として兵士としてそのようなものを求めていたんですけれども、戦争で負傷して挫折して寝たきりの生活、手術もするんですが、それがいわば四十日の荒野のようだったと言えるでしょう。その中でたまたま騎士物語がなかったので、イエス様について書いてある本と聖人伝しか、真面目な本しか無かったので、それを読む内に彼の心の中に変化が出てきて、元々は出世とか戦争に勝つとかそのことばっかり考えていたんだけど、違う生き方、イエス様に仕えるということは、どんどん彼の中で魅力的になってきて、兵士に戻るのをやめて宮廷に仕えるのをやめて、イエス様に仕えるということで巡礼者として新たな歩みをするんですけれど、彼の荒野の四十日だったと思います。みなさん一人ひとりも今までの生き方の中で、こっちに行きたいとか、いろんな思いがあってこられたと思います。もちろん全てが悪いものではないですけれど、洗礼の準備をする中で、みなさんはいったい何を求めているのか、クリスチャンを生きる上で。サタンのような悪の道ではない。神の導きの、神に従って生きるというのはどういうことなのかというとを講座を通しながら学んでおられると思いますが、まさしくこの四十日間、改めてどのような生き方から離れてどのような生き方をこれから選択していくかというかを、改めてしっかり自分に問いかけてみたらいいと思います。そのために祈りを、あまり慣れていないでしょうけれど、祈りを心がけてみたり節制ですね。今まで世俗的なことを少し控えてみたり何よりも愛を生きていく。そのようなことを心がけながらこの四十日を準備してくださったらいいと思います。

そして既に洗礼を受けている方々も毎年四旬節を迎えますが、同じように問いかけてクリスチャンとしての生き方が外れていなかったかどうか。自分が本当にイエス様に従っていく生き方を見つめ直す、そういう時として過ごしてもらったらいいと思います。今日は悪魔祓いの式をして、そして洗礼式の時に悪を退けますかという。そこで決断の言葉をみなさんに語ってもらうわけですけれど、みなさんもちろん影響はあります。すぐ上手くいくわけではないですけれど。イグナチオの小さなエピソードをもう一つ話すと、回心して勉強をパリでしていて、その時にお金を学費を持っていたんですけれど、同志のスペイン人に預けていたんです。そうしたら持ち逃げされて、ある程度のまとまった。仕方がないからその後全くすっからかんになったので。物乞いをしてお金を恵んでもらわなければならなかったんです。そのお金を盗んだ彼が、パリから百キロ以上離れた所で病気になって倒れていると聞いたんです。彼は害を与えた人なんですけれど、彼のところに行ってお見舞いにいって、彼の回心とこれからの人生を手伝おうと思ったんです。百キロ以上三日断食して、三日裸足で歩いて彼の所まで行って、彼の回心と悔い改めをして、そしてスペインに帰るその手立てまでするんです。その出発の時に面白いんですけれど、ものすごい不安になって、やっぱり行かないほうがいいんじゃないかとか、神様を試すことになるんじゃないかとか、不安になったりして、気持ちがグラグラして、朝に服を着替える時から、やっぱり行かないほうがいいんじゃないかとか、不安感に襲われるんです。その気持ちに負けたらいけないと思って、十キロ、十五キロぐらい歩いた所で、もやもや感がやっと晴れて、その後は気持ちを一つにして、彼の所に行って、彼の回心と和解を手伝うという話しがでてくる。そういうことは悪霊と言ったらオーバーかもしれない。でも神様に従おうと思ったり、やっぱりやめようと思ったり、朝起きて着替える時に、今日嫌な一日でどうでもいいやと思う気持ちの時もあるでしょう。イグナチオでさえあったんだから、私たちもクリスチャンとして歩む中でも、度々誰かに嫌なことを言われただけで凄い嫌な気持ちになるとか。何かいろんな事がありますが、その中で心を整え直して、神の道を歩んでいく。それを度々か分からないですけれど、それを心がけていきましょう。そのような誘惑とか試みとか、それは度々あることですが、その度にしっかり悪霊を退けて神様を選んでいく。そのような気持ちを絶えず繰り返しながら、私たちの信仰が強められていきますから、そのような気持ちで少しづつわたしたちは歩んでいきたいと思います。そして洗礼志願者には代父代母の方がおられますが、共に道を歩んでいく。神の道を歩んでいく手助けとして代父代母の方がおられるので、いろんな事を相談して、特にグラグラとか分からなくなった時はしっかり共に歩むようにされたらいいと思います。典礼の本には洗礼を受けてから少なくとも半年は代父母と一緒にミサにあずかるようにと書いてあります。洗礼を受けてからも、やはりしばらくは共に歩むような形で、罪とかとらわれとか、何かこの世の諸々を捨てて、いつも神様に向かって少しづつ歩んでいけるように、お互いのために祈りを捧げたいと思います+

 

第一朗読  申命記 26:4-10
(モーセは民に言った。)祭司はあなたの手から(初物を入れた)籠を受け取って、あなたの神、主の祭壇の前に供える。
あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。
「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」
あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏し(なさい。)」

第二朗読  ローマの信徒への手紙 10:8-13
(皆さん、聖書には)何と言われているのだろうか。
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。