カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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220320 生き方の根本が神と共にある

ルカによる福音書 13:1-9
ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

 今日の福音書はルカの13章ですが、四旬節に朗読されるに相応しいところと言えるでしょう。悔い改めることの大切さを、私たちが悔い改めることによって滅びから免れるということです。確かに私たちの信仰生活の一つの基本はこの悔い改める。あるいは自分の生き方を見直して、神様の御旨にかなった生き方に、いつも軌道修正していくということが大事なことでしょう。洗礼を受けたからあとは何もしない。以前と全く同じ生活をしているとしたら、それは何か信仰者としての生き方とは言えないだろうと思います。何かがあった時にやはり自分の生き方を反省したり振り返ったりしながら、より良いものになっていこうとする。そういう気持ちが私たちに大事なことだと思います。
この四旬節に私たちの生活を見直して、新たな気持ちで神様と歩んでいこうとする、それ自身が私たちの信仰の歩みと言えるのではないかと思います。一番とにかく駄目なのは何にもしないということです。でも私たちの生活をどのように変えていくのかということです。それも大切なポイントではないかと思います。
二番目のたとえで実のならないいちじくの木ですよね。実がならないのでご主人さまが非常に怒っているわけです。でも実をどうつけたらいいのかといえば、ここにある通り「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。」でも私たちが何かを変えていくとしたら、私たちの生き方の根本を変えるとしたら根っこから変えなければならない。対処的に表面のところだけを変えることは小手先のことであって、もっと私たちの生きているものの生き方の根本のところに、自分に肥やしをやるかどうか。これが最も大切なことでしょう。実を実らすか実らさないかという目に見える結果はもっと根本的なところから見直さないと駄目だと。つまり悔い改めるということももっと根本的なところから悔い改めるということなんです。だから単なる対処療法的に何かをするということでもないと言えるでしょう。
例えば私自身のことで言えば、非常に体が弱いんです。体質的に弱い、子供の時から弱い。つまり元気だった時がないんですが、子供の時から風邪を引いて引いて、冬場はほとんど風邪を引いている感じ。一年間の三分の一か四分の一は風邪を引いているみたいな。子供の時からそうなんです。結局風邪を引くから親が病院に連れていって風邪薬を飲んでいたんです。それをずっと続けてきて、二十年ぐらい前に気功の先生に出会って、気功治療院のその先生と色々話しをして、そしてあなたが風邪を引きやすいのは何でかと言ったら、風邪薬を飲んでいるからと言われました。子供の時からずっと風邪薬を飲んでいるから、結局抵抗力が体に全く無い。自分で風邪を治す力が全く育っていないから、だから風邪薬を飲んでいることが風邪を引く原因だと言われた。元気になるには風邪薬を止める事だと言われた。それは二十年ですけれど。結局対処療法的に風邪を引いたから風邪薬を飲んでいるのは普通のことですけれど。でも結局それは何も自分を変えていないです。根本的な自分の弱いところを補わなければならない。その先生に出会って二十年ぐらいたちますけれど、この二十年間ほとんど風邪薬は飲んでいないんです。ちょっと漢方薬を飲んでるんですけれど。どこでどう体が弱いのか自分なりに把握して、倒れてしまう原因とかをしっかり見て、それは気功の先生の手伝いもありますけれど、その中で体そのものが丈夫になるということはもうないんです、体質だから。でも弱いなりに風邪を引きにくくするような工夫を二十年間続けてきて、少しづつ前に比べたらずっと風邪を引くのも減りましたし、前ほど倒れなくなったのは事実ですけれど、だから根本から見直さない限り何も意味がない事だと思います。体のことでもそうですが。
去年ぐらいか、コロナの盛んなときに講演会に呼ばれてシスターたちにお話ししたんですけれど、もう一人の講演者が漢方の専門家の先生で、コロナでどうするかという話しになったんです。結局対処療法的には明らかにワクチンを打てということです。ワクチンを打ったりちゃんとマスクしたり、それはもちろんそうなんですけれど、やはりその漢方の先生は同じことを言っていた。つまり健康になることが一番大事だと。健康になってコロナにかからない体になるのが一番大事だとその先生もおっしゃっていて、だから何でもかんでも根本から考えなければ自分の生き方を見直さないと、本当の意味で実りがないということです。
信仰生活も全く同じだと思います。表面的な私たちが食べ過ぎたり飲みすぎたりは違うけれども、テレビを見過ぎたり、寝過ぎたりその小さなところを表面に表れているところをちょこちょこ変えるか変えないかの話しもどうでもいいわけではないですけれど、もっと根本的な自分の生き方の根本からどう、だから根っこに肥やしをやっていくというところから、私たちの悔い改めや生き方を見直さなければならない。
毎日の小さなお祈りで劇的に何か変わらないかもしれないけれど、でもちゃんと根っこのところに霊的な肥やしをやることをしない限りは、やはり信仰の実りというのは出てこないわけです。あるいはボランティア活動もそうかもしれない。やはりそれを地道に続ける事によってそこから色んなものが生まれてくるわけです。割と今は即席的に何か結果をすぐ出さなければならないとか。これを飲んだら絶対痩せるとか、これをやったらこうなるとか。全部そうならないのは明らかでしょう。自分の生き方を根本のところから神様と共に歩んで、神様から恵みをいただく生活をすることによって、一年後二年後に実りが出てくる。それが私たちの信仰生活の基本だと思います。もちろん表面的なこともどうでもいいわけではないですけれど、私たちの存在の信仰生活の根本のところから、神の恵みに心を開いて神様の恵みに歩んでいくという一つの決断と、そこから聖書を読んだりお祈りをしたり、こうやってミサにあずかることで少しづつ根っこの栄養を汲んでいくことによって、私たちの生き方がいつのまにか一年後二年後三年後に、大きく変えられていく。その恵みには私たちは召されていると思います。
根本的のところから自分の根っこのところから神様に自分を委ねる。そこに必要な栄養を頂いて、あるいは自分の弱さをしっかり把握して振り回されないように。そこから悔い改め、心の置きどころを変えていく、自分の心の方向性を少しづつ修正していく中で実りというのはすぐにではないけれどちょっとづつ表れてくる。それこそ私たちの信仰の実りというか、信仰生活の本当の醍醐味ではないかと思います。
祈りをしていてもそれこそイエズス会員になって三十年ですから、やっと祈りが深まってきたなとか、長い間祈ってきて今までの積み重ねの中でこういう恵みをいただけているという。そういう気持ちがすることが多い。ようやく今になって分かってきたとか、恵みを神様から頂けている。そういう感触というのは長い間歩んできたからこそ味わえるような、そういうことを感じることが多いんです。だからこそ私たちは根っこに栄養をやるような気持ちで私たち信仰生活を歩んでいく。小さなことを四旬節の間、戦争とか色んな事もありますけれども、もちろんワクチン打つかどうかは人によりますけれど、生き方から神の御旨にかなった根本的なところから主の生き方に従っていけるように、そういう事を少し思いながら、少しづつ私たちを変えていく。そのような恵みを願いながら、共に祈りをささげたいと思います+

 


第一朗読  出エジプト記 3:1-8a、13-15
(そのころ、)モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、へ彼らを導き上る。」
モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。
「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名これこそ、世々にわたしの呼び名。」

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 10:1-6、10-12
兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。
彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけ(なさい。)