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キ リ ス ト 教 の お は な し ○ カトリック 英神父の説教集 ○

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2016-10-30 信仰のジャンプ

英神父 ミサ説教                           聖イグナチオ教会於

ルカによる福音19章1-10節    そのとき、イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。10人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」十

  インド人の神父様から聞いたことですけれども、ヒンドゥー教に救いと、それに対する人間の関わりについて、二つの説があるというんですね。一つは子猫のようにすればいいのか。もう一つは子猿のようにすればいいのか。どちらがいいか、ヒンドゥー教で論争があるそうです。一つはわたしたち人間は、子猫のようにあればいいと。小さな猫はただニャーニャー鳴いてるだけですよね。するとお母さん猫が、首根っこつかまえて、必要な所に連れて行ってくれる。子猫はただ泣くだけでOKだという。子猿のほうは、お母さん猿の背中を必死に握りしめて一緒に行く。子猫にしろ子猿にしろ、それが人間で、お母さん猫とお母さん猿が神様ということです。わたしたちは子猫のようにただニャーニャー鳴くだけで神様が助けてくださるのか、少なくとも子猿のように落ちないように背中に必死にしがみつくぐらいの事を、人間もしなきゃならないのかという。どっちかということで議論があるそうです。
キリスト教の場合は、神様と人間との関係はどうなのか。今日の福音書でそれがどうなるのかということですね。今日はエリコという所にイエス様が来たら、人気者だったので、多くの人が集まってきた。そこでザアカイは徴税人のかしらで、罪人の代名詞みたいな人だったんですけれど、ザアカイが「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。」とそれほどイエス様の周りには人が多くて遮られてイエス様が見えないと。聖書の中で群衆というのは悪い意味で使うのがほとんどですから、人々に遮られて、イエス様が見えないというわけですね。それはわたしたちにも起こることかもしれない。日常生活にとらわれて。あるいは仕事や忙しさにとらわれて、イエス様の姿が見えなくなるというのは、わたしたちの平日の一週間の中で起こることかもしれない。
そういう時にわたしたちはどうすればいいのか。ザアカイは背が低かったから、敏捷であったかもしれないですけれど、「イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。」みなさんも子供の頃に一度くらいは木に登ったかもしれないけれど。みんなが思いもつかないような事をして、彼は木に登るという、突飛な行動をとり、それがきっかけになる。彼が声をかけたわけではなくて、イエス様が声をかけて、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」とおっしゃった。そこでザアカイはイエス様に出会えただけでなく、声をかけられ、自分の家にまで泊ってくださる。
場合によっては、わたしたちもイエス様に出会うために、木に登らなければならないこともあるのではないか。わたしはこの木に登るところを「信仰のジャンプ」と呼んでいますけれども。時々何か、わたしたちの方からイエス様を見るためにジャンプするというか、そういうことをして、何かの局面が打開することがあるのではないかと思います。もちろん、イエス様が救ってくださるわけですから、わたしたちがイエス様を見ようとする、そういう事で、ひらけてくることがあるのではないかと思います。
みなさんにとってどういう心掛け、どういうを事をするのかが、一つの信仰生活の大切なポイントではないかと思います。
平日の中で、日頃、神様が見えなくなってごちゃごちゃする。だからこそこうやって日曜日の朝、特に朝早くミサに来るという事自身が一つの「信仰のジャンプ」のようなもので、そこで何か希望を求めて来ることによって、神様に出会えるという事はあるだろうと思います。ただ群衆に遮られて、ザアカイが今日は止めようかと諦めてしまったら、イエス様に出会えなかったわけですね。このあと、イエス様はエルサレムにのぼって、十字架にかけられてしまいますから、ここで会わなければ、もう会えなかったわけですね。今度にしとこうか、とザアカイが思っていたらイエス様にもう会えなかったわけです。その時に、群衆に遮られたり、何かうまくいかなかったときにこそ、木に登るという事が必要な時があるんではないか。それはこうやってミサに来るという事かもしれないし、成人洗礼の方なら入門講座を受けようと思って、教会に来ようと思うわけですし、そういうのが「信仰のジャンプ」だったかもしれない。あるいは何かをするという事につながるかもしれない。
だいぶ前、一人の若い女性が、なかなか結婚相手が見つからないと悩んでおられた。練成会のような集まりで、わたしだったらそういうアドバイスはしないけれども、そのリーダー格の先輩の人が、「それはもう祈りと断食よ!」とつまり、打開するには、お祈りと断食するのが一番だと勧めていて、なるほどなと思いました。相手を見つけるために、毎日お祈りだけするのではなく断食、小さなものでいいから何か神様に捧げる。そういう事を両方やっていれば絶対大丈夫よ、と言っていて、わたしは本当かな、と思っていましたが、その方は自信を持って勧められていて、それを聞いた結婚相手を探していた女性も、そうだと思って、祈りと甘いものを止めて、プチ断食のように小さな事を神様に捧げた。驚いたことに一年以内に彼氏ができて、結婚して、今も幸せに暮らしている。それも一つの「信仰のジャンプ」かもしれない。何か上手くいかないからどうでもいいやと思わずに、その時にこそ祈りと場合によっては何かプチ断食のように体を通して捧げて、何かするという事で打開されるのではないか。彼女の場合はイエス様に出会ったというよりは、彼氏に出会ったという事ですけれど、それによって彼女の生活がガラッと変わったことは確かですね。わたしたちがどういう事で、どのような視点で、何か一つ工夫などして。先ほど話した子猫のように、ただニャーニャー鳴くのか、子猿のように背中に必死でしがみつくのか、何かわたしたちの方から信仰の態度というか、信仰の姿をイエス様に示すことによってこそ動いてくる、開かれてくる、見えてなかったものが見えてくるということはあると思いますね。行動だけでなく、態度だと思います。
心の病気で悩んでいる方は多いいですけれど。そういう方で十年、二十年病気を抱えている方もおられますが、その知り合いの方に聞いたんですけれども、病気になってあれもこれもいっぱいできないことがあるかもしれないけれども、良かったことはないかと、二人の方に聞いたんですね。それはありますと、病気になったおかげで謙遜になれました。何でもかんでも自分でできていたら、傲慢になっていたかもしれないけれど、病気を通して謙遜になれたと。あと病気を通してイエス様に出会えたと。それは一つの木に登るという事だったかもしれない。良いことに目を向けるだけで、イエス様の恵みを思い出すきっかけにもなったと思います。
そうした信仰のものの見方というか、ジャンプという事があるから、イエス様が見つけてくださって、そして生き方を変えてくださる。ザアカイは徴税人で強欲なタイプだったかと思います。でもイエス様に出会ったおかげで、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。」生き方が全く変えられたわけです。わたしは全財産の半分を貧しい人に分かち合った人を見たことがない。それぐらいこの人の生き方がガラッと変えられたわけです。本当に大きなお恵みだと思います。
わたしたちの生活が、神様によって変えられるようにイエス様を見つけ、出会わなければならない。そのために、今ある困難を単に嘆くだけではなく、困難を乗り越えていく、自分なりの工夫があって、イエス様の働きがはっきりと見えるようになる。
わたしたちは信仰の態度というか信仰の目を持って、ただ日常生活に埋もれるのではなくて、神の働きを見いだしながら歩めるように、このミサでお祈りしましょう十

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  第一朗読知恵の書 11・22-12・2

 主よ、御前では、全宇宙は秤をわずかに傾ける塵、朝早く地に降りる一滴の露にすぎない。全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる。あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある。主よ、あなたは罪に陥る者を少しずつ懲らしめ、罪のきっかけを思い出させて人を諭される。悪を捨ててあなたを信じるようになるために。

  第二朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙第二 1・11b-2・2

 主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるように皆さん、わたしたちはいつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。十

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