カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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8-9 神の静かなささやきを聞いて 自分の道を生きていく

英神父 ミサ説教 

マタイによる福音書 14:22-33 (人々がパンを食べて満腹した後、)イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ十

  今日の福音書は、イエス様が湖の上を歩くという、イエス様がなさった奇跡の中でも最も不思議というか、なんのために湖の上を歩いたのかという気もしますが、特別な奇跡のお話です。マタイの福音書では、イエス様が湖の上を歩いたお話だけではなしに、ペトロも湖の上を歩いたというお話です。
ガリラヤ湖に行ったことがあるんですが、その上を歩くとは到底無理だなと個人的には思いました。でもやはり神様の特別な力が働いているということです。ガリラヤ湖というのは日頃は非常に静かな湖なんですが、ヘルモン山から北風が吹いてくるとあっという間に嵐のように突然なってしまう。この時もたまたまそうだったのでしょう。そして船が前に進まないような状況に時々陥るということです。それはいわば私たちの現代の混乱した世の中を象徴しているとも言えるでしょう。私たちの人生、あるいはこの社会全体がある時突然、逆風のようなものに巻き込まれて、みんなが右往左往して、どうすればいいか分からなくなってしまうということは度々経験することであるし、しかも今そのようなコロナウイルスのお陰で、一種の混乱の中にわたしたちが置かれていると言えると思います。
でもその中でイエス様は全く振り回されず、自分の行きたいところに歩いて行かれる。そして私たちはもちろんイエス様を信頼して信じ切るならば、私たち一人一人歩む道もちゃんと開かれる。開かれるだけではなしに、歩いて行くことができるということです。それを私たちは心に刻みたいと思います。
ペトロも最初はうまく湖の上を歩いてたのですけれども、途中で「強い風に気がついて怖くな」った途端、
気がついて「沈みかけた」ここで対比されているのは恐れの気持ち、怖さの気持ちと信じる気持ちです。イエス様を信じる気持ちを失っていくとしたら、私たちは途端に周りの風が怖くなったりして、振り回されて、結局沈んでしまう。これは私たちにありうることではないかと思います。いかに私達がイエス様を信じる道を貫いていくかどうか。それが問われているといえるでしょう。
第一朗読のエリヤの話は象徴的で考えさせられるところです。エリヤはすごく激しい預言者と言えるでしょう。この前にバアルの預言者たちをたくさん皆殺しにして、アハブ王とイゼベル王妃の怒りを買って、結局逃げざるを得ませんでした。このエリヤと戦ったイゼベルは、聖書に書かれている中で最大の悪女です。聖書の中で最も悪い女性はイゼベルだと思います。それとエリヤは戦っていたわけです。彼は本当に勇ましかったんですが、結局はがっかりして、神の山ホレブまで行かざるを得ませんでした。逃避行というか、そこまで逃げざるを得ませんでした。そこで四十日四十夜過ごして「主の前に立ちなさい」と神様から言われて、そして神の前に立とうと思うと「激しい風が起こり」次には「地震が起こ」りその後に「火が起こ」る。風にも地震にも火にも神はおられなかった。火の後に「静かにささやく声が聞こえ」て、これが神の声だったというわけです。
私たちが信仰をもって歩んでいくということの基本は一体何なのかというと、神様の静かにささやく声を聞いて生きていくということです。風とか地震とか火とか、そういう何か大きな力が働いて、そういうのに巻き込まれている時には、なかなか神の声は聞こえないということです。あるいはそれに振り回されている時には、私たちは中心がずれていると言えるでしょう。
コロナウイルスのことで私も散々色々なニュースをチェックしたりして、でも専門家ですら意見が分かれています。一般的にいうと東大系の研究者の方は、このままだったら大変な事になる、来週になったら大変なことになる、と言うんだけれども、次の週になってみたらそんなに言うほど酷くなってない。でも京都大学系の研究者の方が言うには、インフルエンザよりも全然問題ない。何にも心配ない、心配し過ぎだと。専門家でもこんなに大変になるという人もいれば、全然大丈夫だという人もいて、一体どっちを信じればいいかと、結局はよくわからない。最終的には私たちは自分の恐れとか不安を置いて、自分の心に語りかける、つまり心が静かになった時に、神様から語りかける静かな声を聞いていくしかないと思います。
世間のいろんな声を聞いていても振り回されるだけで、例えば帰省した方がいいかどうか。政府は帰省していいと言って、知事は帰省するなと言って、ネットのコメントではどっちがどっちなんだと意見が出ています。私に言わせると、そういうことは政府が決めることではないでしょう。自分が決めることだと思います。政府がどう言おうが、知事がどう言おうが、結局自分と家族と相談して、帰るか帰らないか決めればいいのではないか。つまり自分に語りかける声を聞いていくことの方がよっぽど重要で、政府の言っていることが正しいという保証は全くない。知事が言っていることが正しいという保証はもちろんありません。一人一人の自分の決断、自分自身が神の導きで、このようにしようと。恐れからではなく、平静な心でこうしようと思って歩んでいくのが一番確かだと思います。東京は外れていますが Go to トラベルキャンペーンで行くとか行かないとかは自分が決めればいいと思います。人から言われてするかしないか。また指針が出て複数あれば、それは判断の材料だとは思います。それは風だったり地震だったり火だったり、色々言うわけですが、最終的には神様の呼びかけを具体的な生活の中でどのように神様が導いておられるのか、静かにささやく声を聞きながら、一歩一歩私たちは歩んでいく。それこそが信じる道を歩んでいくということでしょう。それは必ず正しいかどうかは分からないけれども、間違うことももちろんあるでしょうけれども、でも本当に神を信じるならば、自分の心に問いかけて、私達はどうしていくのか。仕事にせよ家族との関わりにせよ、どれだけ人と会うとか会わないとか、教会に来るか来ないとか、一人一人に語りかける、神の声をしっかり聞いて、自分で決断して歩んでいけばいいと思います。

エリヤが静かにささやく声を聞いた後にどうなったかというと、新たな使命を受けて、アハブとイゼベルは置いて、預言者の仕事は次の王様に油を注ぐことで、後継者の預言者を見いだすのはエリシャになるんですが、この後に彼は更に大事な使命を聞いて、それを果たしていくように呼ばれていくわけです。
私たち一人一人も静かにささやく声を聞くならば、今この時に自分は何をするように呼ばれているか、神様が示してくださるでしょう。それを忠実に勇気を持って果たしていくことが大事だと思います。もちろんすぐには示されないこともあって、しばらく待機しなさいという呼びかけの人も当然おられるでしょう。
一人一人が神の呼びかけを聞いて答えていく。それこそが信仰の道だと思います。私たちが本当に信じるものとして歩んでいけるように神様に恵みを願いたいと思います十

第一朗読  列王記 上 19:9a、11-13a
(その日、エリヤは神の山ホレブに着き、)そこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 9:1-5
(皆さん、)わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。