カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-04-25 入門講座3思い悩むな

英神父 入門講座 3 思い悩むな

 今日はイエス様のメッセージがどういうものであるかをみてみたいと思います。聖書の箇所はマタイによる福音書4章23節 「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」イエス様はカファルナウムという町を拠点にしながら、ガリラヤ地方の ユダヤ教の会堂で教え、福音を伝えられた。マタイによる福音書というのは ユダヤ人向けに書いているので、神様という言葉を書かない傾向にあります。ユダヤ人は神という言葉を恐れおおいから使いません。マタイの福音書では御国、天の国を使います。イエス様は福音を宣べ伝えられてそして ガリラヤ地方で病人を癒された。みんなに対する印象は、全体的にはカリスマヒーラーです。病気を癒すのもそうですが、「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、」そういう人を癒された。「こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、」ガリラヤというのは ガリラヤ湖周辺。デカポリスはガリラヤ湖の東の方です。エルサレムというのはかなり下の方です。ユダヤはヨルダン川の向こう側 。5:1「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。」ここからイエス様の説教が始まるわけです。今回はイエス様が癒しだけではなくて 、どういう話をされたのか、みてみたいと思います。山上の説教というのは 5、6、7章と長い文章です。だから長い話をマタイはまとめたのだと思います。 5:1「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。」なんで山に登られたか、山上の説教といって、昔は山上の垂訓といったんですが、 イスラエルの巡礼に行ったら、そこでイエス様が説教された場所があるんです。山というか小高い丘というか、何でそこなのか、三回目の巡礼でわかったんですが、カファルナウムにはそんなに多くの人が集まる場所がないんです。シナゴンは小さすぎて、仕方ないので草が生えている所に座って離された。群衆が集まっている時には街に場所がないので、山の上で話すか、ガリラヤ湖畔で話すしかありませんでした。教皇がイスラエルに行かれた時は、同じように野外ステージを作った。集合する場所がありませんでした。 ついでにいうとイエス様は声が大きかったと思います。マイクなしに群衆に話されていたのでイエス様は相当声が大きかったと思われます。そのような状況でイエス様はお話をされました。5:3から は有名なところですが、次回お話してマタイ6:25「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」イエス様のところに集まる人は明らかに病気の人ですね。あるいは切羽詰まってて、何らかの問題を抱えていて、誰かに相談しても解決しないような人たちが、藁にもすがる気持ちで集まってきたので、貧しい人や病気の人や切羽詰まっている人たちが集まってくる。その人々に「思い悩むな」とおっしゃった。それは彼らにとって相当ショックだと思います。問題があるから行っているわけで、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」わたしたちは色々思い悩むのです。仕事や家庭や人間関係のことで色々な捕われや苦しみがある。それを思い悩むなということです。思い悩むなという時にイエス様がどういうことをおっしゃったかというと一つは 「空の鳥をよく見なさい」もう一つは「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」小高い丘に空の鳥がいたんです。青空教室ですから。空の鳥を指さして、野に花が咲いていました。イスラエルに巡礼に行って3回とも花が咲いていました。だから野外教室ですから指差しながら「空の鳥をよく見なさい」とか「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」とおっしゃっていました。そこにあるものを実際に指差しながら、みんなもそれを見ていたというお話です。 視点を変えて物を学ぶか、ただ空の鳥や野の花を見るだけではなくて、空の鳥をどう見るかと言うと「 種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」ということで、ここに神様のお恵みが、どれだけ働いているのかということを 、眺めていたり見ていたわけです。 「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」ソロモンというのは繁栄という意味のユダヤ人の王様なんですけれども、 「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」だから野の花を見て、神様の恵みがどれだけ注がれているのかということをよく見なさい。ということをおっしゃっているわけです。以前住んでいた鎌倉の黙想の家は、風光明媚で自然に囲まれていましたから、黙想しましょうと言うと、庭に必ず花が咲いていましたから、鳥の姿はほとんど見えないけれども、鳴き声は聞こえていました。 自分が悩んでいる次元ではなくて、視点を変えてみなさいということです。「 まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。」つまり鳥とか花を見るということは、神の恵みを思い出して、まして人間のはどれだけ神の恵みがあるかということを思い起こしなさいと言っているわけです。「信仰の薄いものたちよ」とおっしゃっているのは、逆に言えば神様から自分に恵みをくださるというのを意識して、そして神様に信頼して心を平安にして生きれるというのを信じる信仰です。つまり神の恵みがあるということを受けて、神様に信頼して委ねて心配が消える、そういう生き方をするということを信じる。あるいは信仰だということです。基本は何かといったら、神様に対する感謝の気持ちというか、恵みが注がれているから。天が開くというのは非日常的だけれども、 常に注がれている神の恵みに気がつくこと、それは自分の意識を開くというか、信じるということのきっかけになるようなことというのは、 日々の中で働いているお恵みに感謝して生きるような、そこが出発点のように言っているわけです。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。だから何を食べようか何を飲もうか何を着ようか思い悩むな 」自分に何が必要かということを神様はちゃんとわかってらっしゃる。 皆さんの生活の中で野の花と空の鳥でなくてもいいんですが、何か神様の恵みを表す印みたいなものがあるのではないかと思います。 そういうものがあったら心をとめてみる。そういうものに神の恵みを見たら、日頃の悩みも消えていくと思います。 6:33「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」簡単に言うと神様に応えようとする生き方です。神様の心に適う生き方みたいなものです。神の恵みがあるからそれに応えようとする生き方。「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」命とか食べ物とか着るものも、神は整えてくださる。神の国を生きようとする、応えようとすることによって、神様は整えてくださるから、安心したらいいといっているわけです。基本は神の恵みに軸を置くと、いろんなことが見えてくるということです。そのように自分の意識というか心の持ち方を変えていくことによって、神の恵みをいただいている ことから出発して、感謝のうちに神を信頼して生きようとする時に、整ってくる。 あるいは変わってくるものが皆さんの生活の中にある。遠回りのようですけれども、それが一番恵みがある。順番の置き方ですね。それが大事だということをイエス様がおっしゃっています。 「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と約束してくださっている。だから思い煩わないで、わたしたちは歩んでいくことができる。 「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」とイエス様がおっしゃいます。明日のことは明日に自らが 思い悩むというのは奇妙ですが、そこに集まってる人たちは、病人や貧しい人たちで、貧しい人の定義もはっきりしていて、明日ごはんを食べれるかどうかを心配する人が貧しい人である。 今日は食べれても明日は食べれないかもしれないと心配する人が貧しい人である。世界標準で考えたら。 明日食べれるかどうかわからない人に、明日のことは思い煩うなと言っています。生活がどうなるかわからない人に、明日のことを心配しなくていい。これは相当ショックなことだと思います。 これを時間軸で考えると、明日のことというのは未来です。未来のことが心配で苦しむということは時間に制限されているから。未来にわたしたちが捕われている。逆に言うと過去に捕われている人が案外多いです。過去に捕われたり、未来に捕われている。不安とか苦しみとか。だからイエス様が、その日の苦労はその日だけで十分だから、今日という日だけを考えなさい。それだけで十分だとおっしゃっています。そのように物事を捉える大切なことだと思います。 私の好きなお坊さんで、ベトナム人のティク・ナット・ハンがいます。彼の基本的な考え方は今を大切にしなさいということです。 世界で時間の早い都市など についていうと、たくさんの人が行き交うけれど、東京などは歩いている人がいないと言うんです。なぜかと言うとみんな小走り。みんな目的に捕われて、早く行かなければならないと完全に捕われていて、今がスーッと抜けていっている。仕事を早くこなすということが、未来に捕われているから、今がすっと抜けてしまっている。ずれていってしまって、夜に寝れなくなってしまう。昼に力がでなくなる。それで現代人は病んでしまう、とティク・ナット・ハンは言います。神の恵みが注がれているのに素通りして、あっちこっち走り回っていたら残念かもしれない。 神の恵みも意識的に受け取る人がいなければ成立しない。神様ばかり恵みを与えていて、受け取る側が意識的に受け取らなければ恵みが成立しない。わたしたちの日常生活にも神様が素晴らしいお恵みを注いでいる。でもわたしたちが意識的に受け取らなければ、恵みが成立していない。わたしたちは恵みの世界に心を開いて、生きていけるかどうかということを問われているといえるかもしれない。過去に捕われてる人は多いです。過ぎ去ってしまったことに捕われていて今を生きれない。残念なことだと思います。時々そういう人に会います。だからわたしたちは今という日を、神の恵みの中で今日一日を信頼して 歩んでいくということです。 今日という日を大切に生きれることに感謝していければ、未来に向かっても積極的に歩めるし、過去からの解放もあります。神の国と神の義を求めて生きるならば、未来をちゃんと与えてくださるし、過去のどんな出来事にも、神の恵みがあると気がつくことができる 。それはちょっとした工夫なんです。 マタイ6:24「『だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。』」神を優先していけるか、富を優先して生きるか。神を優先していければ良い循環になるけれども、神を置いて 富を求めようとすると、思い煩いをすることになる。 わたしたちは富によって安定しようとするよりは、それよりもまず神の国と神の義を求めて、 むしろ持っている物を分かち合おうとする方が、心の平安が訪れるのではないか。持っているものを増やそうとするよりも、持っているものを分かち合う。この世の全体的の話ですけれども、そのようにすると風通しが良くなって、 かえって物事がうまくいくかもしれません。時間に縛られていたり、富に縛られていたり、自分の食べるものとか健康とか、あまり縛られていると、かえって幸せになれない。だからむしろ神の恵みをになって、神の恵みのうちに生きるということを、自分の生活を違う形で受け取る時に、何か開かれてくることがあるのではないかと思います。 マタイ7:1「「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」人間関係も悩みの一つだと思います。裁くなとおっしゃっていますが、経験によって人を良いとか悪いとか裁くよりも、基本は 神の恵みから出発して人間関係を見つめ直したらいい。 兄弟の目の中におが屑が見えるのは、相手の目を見ているからわかります。 でも自分の目の中の丸太に気がつかない。そこから人を見てしまっているから縛られている。むしろ神の恵みによってまず自分自身の心の置き所とかありかを見つめ直すと、違う形で気づくことができる。 相手の問題よりも自分の捕われ方を見つめ直してみたらどうかという勧めです。 「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」人間関係も改善することができるということを約束しています。問題は神の恵みの中で自分を見つめ直すことができるかどうかというところが中心です。だから神と自分の関係があって、次に人との関係を見る。人との関係を先に見なない。兄弟の目のおが屑は絶対に取れないです。 どこが改善のポイントかと言うと、それは神の恵みで自分の在り方を自分が何に捕われているか、何かこだわっていることを見つめ直していくと、見えてくるのではないかと思います 。 それはそんなに簡単なことではないですが、それでもそのようなことができるということです。 マタイ6:22「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい、日本語にしたら意味不明ですけれども、これはユダヤ人のことわざです。目が澄んでいるとはどういうことかと言うと、執着していない、ケチケチしていない人を目が澄んでいる人と言います。 だから気前が良くて寛大な人は、全身が明るくて生き方がそのものが明るくなっている。逆に目が濁っているということはケチな人の話です。富に捕らわれているような人、つまり自分のことばかりを考えているような人のことを目が濁っている。そういう人はケチケチしているから、全体的に暗い雰囲気です。だから神に仕えるか富に仕えるか。富を第一優先にすると目が濁ると言われていて、でも神を中心にして生きると、自分の10%を分かち合うぐらいの人は目が澄んでいる。だからわたしたちが目が澄んでいるような生き方をするのが、自分の生活全体が明るくなりますよということです。神を中心にして恵みの中に生きていると目が澄んでくる。そうしたら全身が明るくなってくるような生き方を歩める。逆に目が濁っているのは富に捕われたり、思い煩いに捕われると目が濁ってきて、全身というか、自分の生活全体が暗く重くなってきます。わたしたちもできれば神の恵みに心を開いて 目が澄んで全身が明るくなる。全体が明るい雰囲気で生きるようになる。神の恵みに生きていく大切さを言っています。自分の目の中に丸太があったら、目が濁っているということです。丸太があったら実際は見えません。なぜ目が濁るかと言ったら捕われや富かもしれないし、 自分だけのこだわりがあったりすると目が濁って全身が暗くなってしまいます。物質的なことだけではなくてと思います。逆に自分の目の中の丸太を取ることができたら、目が澄んでいる。はっきり見えることになって、神の恵みが見えることになると思います。 はっきり見えるようになって全身が軽くなり、今日会う人の目の中のおがくずをとる手伝いができると思います。それが神の国を生きていくということ のいわば原則だと思います。急にはできないと思いますけれども、わたしたちが 感謝の心で神の恵みに気づいていくと、自分に与えられている恵みを 受け取れるし、少しずつ全体的に明るくなっていくと、イエス様が教えてくださっています十

 

2016 年 4 月 25 日(月)
 第 三 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記