カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2017-07-02 家族との関わりを生きるとき

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於

マタイによる福音書 10章37-42節〈そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〉「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」十

   この教会ではミッション2030という目標を定めて歩むことをこの4月からしています。そして、特に今年は祈りを深めるということで、このミサの時に祈りのカードで、なるべくそれを唱えたり振り返ったりしましょうということをやっています。
今日も共同祈願の4番目にその祈りが唱えられると思いますが、毎月、月ごとに変わっているんです。今月は自分の家族との関わりを見直すというか。自分と家族とのつながりを神様のみ旨の中で深めていく。わたしたちの信仰生活は、ただ神様に祈りを深めたりするだけではなくて、わたしたちの日常生活の中でこそ信仰を生きていくことができるように。そして日常生活の中で最も重要なことの一つは、家族との関わりだと思います。
わたしたちの人生の喜びも苦しみも、七割ぐらいは家族とのつながりのことかもしれない。人によってもちろん違いますが。しかも昔と違って核家族になって、家族でありながらバラバラに暮らしている方も多いでしょうし、高齢化社会の問題とか、さまざまな社会の変化の中で、家族のあり方も変わってきていて、ひとりひとり状況も置かれている場も全く違うようですけれども、それでもわたしたちは家族を大切にして生きるように、主が呼びかけているというのは確かだと思います。
ただ不思議なことに、聖書の中を読むと、特に新約聖書ですけれども、家族を一番大切にすると書いていない箇所の方が実は多いんです。今日のところもそうですが、イエス様の言葉は厳しいんです。「わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」ということをイエス様がおっしゃっていて、家族を一番大切にしなさい、とも言っておられない。家族よりもイエス様との関わりをまず第一にしなさい、というような言葉の方が実は多いです。
司祭修道者のように結婚しない生き方を選ぶのであれば、この通りにできるかもしれないけれど、当然ここにおられる大半は、家族と一緒に暮らしているか、あるいは家族がいながら離れて暮らしているか。でも家族との関わりは非常に大切なものだと思います。その中でわたしたちはイエス様のメッセージをどのように受け取るのか。それも一つわたしたちに問われている事だと思います。
イエス様よりも父や母を愛する者はふさわしくないと言われて、イエス様よりも息子や娘を愛する者はふさわしくないと言っているわけですけれども、このような複雑な社会の中で、逆にわたしたちは離れていてもどうやって、たとえば年老いた父親、母親を大切にしたらいいのか。あるいは離れている息子や娘を、どう大切にしたらいいのかということのほうが、大きな問いのような気もします。
わたしたちが家族との関わりを見つめ直す時に、家族との関わりでイエス様のやり方を求めていくときに、まず大切なのは、イエス様の願いとイエス様の心が何であるかということを、それをわたしたちははっきりと問いかけなければならないと思います。
この後にこうあるんです「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」とイエス様はおっしゃっている。だからわたしたちの自分の命とか自分の考えとか、そういうものを一旦置いといて、神様の望みは一体何だったのかという視点から、自分の関わりを振り返った時に、新しく方向性が見える、ということもあるのではないかと思います。
わたしが黙想指導やっていた時に出会った方で、その方の話はとても感銘を受けて、しばしば話をしているんですけれども、その方は御主人とは仲が良かったんですけれども、御主人が重い病気になられ、介護しなければならなくなった。だんだん寝たきりになってしまったので、最初はコミュニケーションは出来ていたけれど、だんだんとれなくなってきて、そして5年間、御主人の介護をやらなければならないような状況になって、自分の好きな事も全く出来なくなって、しかもその御主人とはコミュニケーションとれなく、大いなる苦しみの中、地獄のような5年間だったというんです。その時に出会った御言葉がまさしくこの箇所なんですね。「自分の命を得ようとする者はそれを失う。わたしのために命を失う者はそれを得る。」この言葉に出会って、彼女は自分を捨てて、自分の十字架を担って生きようと、自分自身の考えや望みとかを全て捨てて、十字架を担うということを決心したそうです。その途端、神様のイエス様のものすごい憐れみ、イエス様の深い現存をすごく強く感じたというんです。そして、御主人の介護はそれから5年間続いた。10年間介護したんですけれども、後半の5年間は、神様と共に過ごすことができた、特別な恵みの日々になったということをおっしゃっていました。そして御主人が亡くなってから、また普通の生活に戻って、自分の好きなことができるようになったとおっしゃっていました。
でも彼女が自分を捨てるという、イエス様の言葉の通りのことを決意した時に、神様がその人を全く違う次元に入れてくださっている。予想もつかなかった恵みの中に置いてくださった。そういうことはわたしたちの中にも当然起こり得ることだと思います。
もちろんわたしが言いたいことは、この中には介護をせざるを得ない方もおられると思いますけれども、歯を食いしばって最期まで介護をしなさいと言っているわけではもちろん無いわけです。やはり神様に聞いてどうしても自分に出来ないとしたら、病院とか施設に家族を預けるという選択肢も当然あり得ることだし、これやあれをしなければならないというわけではなくて、自分が誰かを愛するときに、自分の捕らわれや執着があるときに、それは上手くいかない。相手のためにもなっていないかもしれない。その上で自分の気持ちを置いて、自分の気持ちとか一旦置いて、神の望みとは何なのか、神様がどのような十字架を担うようにわたしたちを望んでおられるのかということを、それを問いかけたときに、家族との関わり、あるいはわたしたちの信仰のあり方が、ガラッと変わることもあります。あるいは徐々に変えていただくということもあるかもしれない。
解決できないと思われる、大きな家族の問題を抱えている方もおられるでしょうし、あるいは比較的何の問題もなくいっている方もおられるでしょうけれども、でもわたしたち全てが神様の御旨を大切にしていくときに、わたしたちの家族の関わりはもっと大きな輝きというか、もっと新たな光を得ることが出来るのではないかと思います。
既に亡くなっている家族に対してもそうだと思います。亡くなったり別れたりしてしまった家族についても、色々な捕らわれがありますから、あの時にああしとけば、こうしとけば良かったんじゃないかとかという後悔の念に苦しまれると思います。でもわたしたちがそのような思いを置いて、やはり主が今何を望んでおられるのか。自分の捕らわれを置いた時に、主は道を一人一人にちゃんと示してくださると思います。それは楽ではないと思いますが、自分の十字架を担いなさいと主は言われるのですから、逃げる生き方ではないでしょうけれども、でもそこに真実の愛が見出す道はしっかりとわたしたちに与えられていると思います。それを見い出し、その関わりを誠実に生きていく時に、わたしたちも信仰が生活の中で生きてく。そういうものではないかと思います。
今月は家族との関わりを祈りの中で見直したらどうかという、今月の祈りのカードのテーマですから、わたしたち一人一人が自分との家族との関わりをもう一度受け取りなおして、主の道を、主が望んでおられる生き方を果たしていくことができるように、このミサでお祈りいたしましょう十

 

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第一朗読 列王記 下 4章8-11・14-16a節
 ある日、エリシャはシュネムに行った。そこに一人の裕福な婦人がいて、彼を引き止め、食事を勧めた。以来彼はそこを通るたびに、立ち寄って食事をするようになった。彼女は夫に言った。「いつもわたしたちのところにおいでになるあの方は、聖なる神の人であることが分かりました。あの方のために階上に壁で囲った小さな部屋を造り、寝台と机と椅子と燭台を備えましょう。おいでのときはそこに入っていただけます。」ある日、エリシャはそこに来て、その階上の部屋に入って横になった。 エリシャは、「彼女のために何をすればよいのだろうか」と言うので、(従者)ゲハジは、「彼女には子供がなく、夫は年を取っています」と答えた。そこでエリシャは彼女を呼ぶように命じた。ゲハジが呼びに行ったので、彼女は来て入り口に立った。エリシャは、「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱いている」と告げた。

第二朗読 ローマの信徒への手紙 6章3-4・8-11節
 〈皆さん、〉あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい十

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                      2017 年 7 月 2 日(日)18時ミサ
                       年間第13主日 〈緑〉A年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記