カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2015-08-16 永遠のいのちの法則

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於

ヨハネによる福音書 6章51-58節〈そのとき、イエスはユダヤ人に言われた。〉「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」十

 今日の福音書はヨハネの6章、イエス様が生きたパンであるということ、いわゆるご聖体についてヨハネの6章では長いお話がされていて8月の日曜日はこれをずっと読んでいるかたちになるわけですが、最後の方になるんですがイエス様がはっきり言っています。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」そしてイエス様の肉を食べ、イエス様の血を飲むという表現を使っています。
わたしたちの命を保つための食べものは、残酷な上に命が成り立っていることを認めざるおえないところがあると思います。どういうことかというと人間の命も動物の命も、他の命を食べなければ命は保てない。草食動物は植物の命を食べなければ、自分の命を保てない。肉食動物は他の動物をつかまえて食べなければいけない。人間の命もそうで植物にしろ動物にしろ、そういう命を生きている命を食べない限り、自分の命を保つことができないという、命の法則というのは残酷な上に成り立っていることを忘れがちなところがあります。
最近では命の教育といってニワトリを育てて、育てた鶏を絞めて食べるということをやったりするそうですが、今やスーパーで肉やお魚は買えますから、動物を殺すところとか魚殺すところとか、ぜんぜんみないんですけれども、実際は誰かが殺して殺した命をわたしたちはいただいているわけです。生まれてからずっとそうなんですけれども、では菜食主義にすればいいかというと、植物も同じですから植物の命を人間が勝手に食べている。命というのはだいたい強いものが弱いものの命を飲み込むというか食べることによってしか命というのは成立しない、生存競争だと思います。他の命の犠牲の上にしか、わたしたちの命は成り立っていないという、その大いなる事実の上にいるわけです。
ある動物番組の中で捕食のところが出てくるので苦手ですが、それは事実なんですね。ライオンがカモシカを食べるのは倫理的に悪いとは思っていなくて、食べなくてはいけなくて、カモシカが犠牲にならなければ生きていけない。命の法則ははっきりしていて、弱いものが強いもののために犠牲になって食べない限り命を保たせることはできない、この世の命の現実の中に成り立っている。
金子みすゞという有名な詩人がいて、魚が大漁で港でみんなが大騒ぎして喜んでいるけれど、海の中では魚が仲間がたくさん死んだのでお葬式やっていると。ひっくり返してみたら恐ろしい法則でしか成り立っていないということです。
神様と人間の関係も基本はそうだと思うんです。強いものが弱いものを食べるので、わたしの家は仏教でしたから、ごはんの一膳目は仏様にささげる。自分たちが食べる前に一番いいところは必ず仏様にささげている。ヤマタノオロチにもそうですから、人間を犠牲にして神様の方が食べると考えるのが普通で強いものが弱いものを食べるというのが命の法則なんです。
唯一の例外は何かというと今日の聖書の箇所なんです。イエス様とわたしたちの関係だけが振り返っている。つまりイエス様の方がわたしたちに食べられる存在だということです。普通は強いものが弱いものを食べるのにご聖体の秘跡だけは逆なんです。強い神様が弱い人間に食べられることになっている。たぶん命の法則で唯一反しているのがご聖体の神秘だと思うんです。完全にひっくり返っている。ご聖体において、強いものが弱いものに食べられている。他はないんです。強いものが弱いものを食べるというのが普通な世界の中でですね。これは驚くべきことだと思います。

わたしたちはイエス様を犠牲にして食べているわけですから、食べるということは命を犠牲にしなければ食べられない。イエス様の犠牲の上にイエス様の命を毎日曜日食べているわけです。それはなぜかといったら、神様の行為が神様の親切心からだけだと思います。それ以外理由はないと思います。この命をいただいている、犠牲の上にいただいている。この地上では考えにくい命の法則に反しているもっと大きな命の恵みの中にわたしたちは生かされているということ。それをわたしたちは思い起こさなければならないと思います。
そしてその命をいただいている以上、わたしたちもイエス様以上の逆の命の法則を生きなければならない。強いものが弱いものを食べるんではなくて、強いものが弱いものに分ち合う命をわたしたちも生きなければならない。
だいぶ前ですけれども、日本ではあまり知られていないですけれど、世界レベルで聖体の大会が開かれていて、韓国の聖体大会が開かれた時に当時は、キム・スファン枢機卿だったんですけれども日本語もペラペラで素晴らしい方だったんですけれども、最後のミサ説教はこうだったんです。「わたしたちはご聖体をいただいてキリストの体になっています。わたしたちも食べられる存在にならなければならない。」わたしたちは食べられるだけの普通の命の法則ではない法則を生きるようにもう呼ばれているんです。強いものが弱いものに自分を犠牲にして命を分ち合う、そのような命の法則に招かれている。
強いものが弱いものに分ち合う命の法則こそ永遠の命だと思います。そこにだけ永遠という言葉がたぶん使われると思います。強いものが弱いものを食べる生存競争は生きていくだけのこの世の法則ですから、永遠の命の法則は逆なんです。強いものが弱いものに分ち合う。そこに永遠の命の法則があると思います。
一日三回はどうせごはんを食べますから、毎回他の命を犠牲にして食べていて、それを倫理的に関係なしに食べなければならないけれど、この世の命の法則だけではなくて永遠の命の法則にいけるようにわたしたちは呼ばれている。食べものをささげるわけではないけれども、わたしたちが持っているエネルギーとか時間とか愛情を分ち合う。それが永遠の命だと思います。
わたしたちが示してくださった永遠の命の法則にこそ生きていけるようにそれこそが永遠につながる魂の救いにつながる本当の命だと思います。
この命をわたしたちがこの一週間、生きていけるように神様に願いながら、命を本当に分ち合っていくことができるようにお祈りしたいと思います十

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第一朗読 箴言 9章1-6節

 知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。
 獣を屠り、酒を調合し、食卓を整え
 はしためを町の高い所に遣わして
 呼びかけさせた。
 「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」
 意志の弱い者にはこう言った。
 「わたしのパンを食べ
 わたしが調合した酒を飲むがよい
 浅はかさを捨て、命を得るために
 分別の道を進むために。」

第二朗読 エフェソの信徒への手紙 5章15-20節

〈皆さん、〉愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい十

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                      2015 年 8 月 16 日(日)
                       年間 第 2 0 主日 B年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記