カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2018-02-18 時は満ち 神の国は近づいた

英神父 ミサ説教   聖イグナチオ教会於 志願式

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マルコによる福音書 1章12-15節(そのとき、)“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた十

  今日の福音書では、イエス様は荒野で四十日間過ごされたというエピソードが語られました。イエス様が宣教活動される前に、そのようなエピソードが語られたというわけですね。このような四十日の荒野の体験ということから、カトリック教会では主の復活の前に四十日間、イエス様と同じようにこの悔い改めの時を過ごす、そういう習慣を過ごしています。しかもこれは初代教会からそうですが、特に洗礼の準備をされている最後の準備の期間として、この四十日間を過ごすように、昔からずっと続いている習慣になっています。これから洗礼を受ける方々は、この四十日間を洗礼式の前の最後の準備として、自分自身を振り返り心を整える。そのような期間として過ごしていたただいたらいいのではないかと思います。イエス様は霊に送り出されて、荒野で四十日間過ごされたとあります。荒野というのは何もない、普段の町中ではない、あまり人が住んでいない、緑もあまりない、そういう所でイエス様は四十日を過ごされた。それもわたしたちにとって象徴的なものであるんじゃないかと思います。洗礼を受けてクリスチャンになって、イエス様に従っていこうということの中の一つは、荒野に向かって行くということでしょうか。この世俗に向かっていくのではなくて、この世俗の社会から切り離されて神様に向かっていく時に、わたしたちは荒野のような所を通っていく必要性があるのではないかというふうに思います。カトリックの作家で高橋たか子という人がいて、もう亡くなったんですけれども、個人的に好きでよく読んでいたんです。彼女がパリに住んでいた時に、その町の教会のミサに預かっていた。同じようにミサに預かっている人がいて、女の人だから服装とかに目がいくんでしょうけれども、信者の中で時々修道会に入り、シスターになる人がいて、そういう人を見ていると段々服装が変わっていくというんですね。段々化粧が薄くなっていったり、装飾品をつけなくなったり、修道会へ入る決意をしたときには、態度から服装が変わっていくというんですね。そういうことがエッセイの中で書かれていたのです。大なり小なりあると思います。神様に向かっていく時に、わたしたちは余分なものをそぎ落としていくというか、神に向かっていく時にいらなくなるものが確かにある。そういうものを落としていくというか。だからわたしたちは荒野に向かって歩んで行く。その四十日間をそのような気持ちで過ごすということは、意義があることではないかと思います。もちろん服装など自由にされたらいいのですが。やはり一人一人が手放していくものがあるのではないか。それが荒野に入る一つだと思います。それは霊に導かれてなので、努力してしなければならない事もあるかもしれないですけれども、自然とそぎ落とされていくというか、手放していく。そして自分の生き方がより神様の喜びの中に、神の恵みの素晴らしさに預かっていく。そのために置いていくものがあると思います。イエス様が荒野の中でどういう体験をされたかというと、マルコにはあまり詳しく出ていないのですが、悪霊からの誘惑を受けるんですね。本当にその通りだと思うんですけれども、自分自身が神に向かっていろんなものを置いていこうとする時に、自分自身の中にある捕らわれとか、執着とか罪の部分とか、それが逆に浮かび上がってくるというか、はっきりしてくることはよくあることだと思います。神に向かえば向かうほど、神ではないものがはっきりと意識されていく。それは洗礼を受ける前か後かもしれないですけれども、神に向かっていけばいくほど自分の中の不純物が、社会の中にある罪の部分がはっきり見えてくることがあるし、それは必要なことだと思います。手放せるかどうか分からないですが、そういったものを手放していこうという気持ちが大事だと思います。今日の福音書で言うならば、荒野の中でサタンも出てきて、獣も出てくる。天使達も出てくるんですが、支えてくれる。良いも悪いもその中で本当に自分の人生にとって何が本当に大事なものなのかも、おのずと浮かびあがってくるということです。何を大事にしていくのかということをはっきりしてくるのではないか。それを大切にしてこうと選んでいく気持ちが大事だと思います。わたしは絵が好きでよく美術展に行くんですけれども、以前に「闇」をテーマに描いた展覧会がありました。「闇」を描いているんですけど、真暗な闇だけを描いている人は誰もいない。闇というテーマには必ず光が描かれている。光を描かなければ闇というのが出てこない。不思議であるし当たり前。だからわたしたちも罪とか弱さが分かるということは、返して言うなら、神の恵みの世界がどういうものであるかというのが、より分かってくることとセットでくるということですね。そしてその両方がよく分かって、洗礼式の時に六つの質問をするんです。最初の三つは何かと言ったら、悪の働きを退けるかどうか。自分の中にある社会の中にある自分の罪の世界を捨てるという。それがどういうものか分かって、それを退けると神の前ではっきり宣言する。それが初めの質問と答え。次の三つは何かと言ったら、何を信じるかと聞くんですね。神の恵みの世界のものを信じる。はっきりそこで宣言するわけです。このあと使徒信条をお配りしますけれども、それを信じるという宣言をするんですがそれは神の恵みを、神の愛の世界を選んでいくとはっきり宣言するわけですね。そのための四十日間の準備をしっかり過ごされたらいいと思います。自分の中にある罪や捕らわれが何かが分かり捨てていく事。そして神の恵みがなんであるか。素晴らしさが何であるか。それが少しでも分かり、それを信じ選んでいくという。それは四十日間で全てが分かるというわけではありませんが。信者さん全てがそうですが、それは一生涯のプロセスです。悪を捨てて、神を信じる事を選び続けていく事。恵みの世界に生きていくこと。そのようなことをわたしたちは少しづつ意識して歩んでいけるように、特に今日、洗礼志願式を預かる方々が、有意義な四十日間を過ごしていく。恵み深い洗礼式を迎えられるように、心を合わせて共にお祈りしましょう十

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第一朗読 創世記 9章8-15節
 神はノアと彼の息子たちに言われた。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」 更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。」

第二朗読 ペトロの手紙 第一 3章18-22節
 (愛する皆さん、キリストは、)罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです十

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2018 年 2 月 18 日(日)10  時ミサ
 四旬節 第1主日 志願式〈紫〉B 年
 カトリック麹町教会 主聖堂於
  イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記