カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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190707イエス様がおられる わが家

英神父 講話 イグナチオ教会 於

 今年一年の教会のテーマが「共同体を生きる」ということで、わたしたちは何を心がけたらいいのか。さらに大きな教会として何ができるかというのは ずっと話し合っていることです。みなさんの意見とかアイデアとかを受け取りながら、何かこうしたらいいと自分の考えからも出てきたらいいなと思っている最中です。みなさんのお話しを聞いていて、簡単なコメントぐらいをお話しますが、先月イグナチオ教会献堂20周年ミサをささげました。大きなイベントもなかなか良かったなと思います。ここにいる方も半数ぐらいは出られたかと思いますが、2800人の方が参加されました。イグナチオ教会は12,000名在籍していますが、それでも2800人の参加で一つの共同体と思います。でもそういうところに出られない方々もおられるわけで、そういう方々をどうすればいいのかと考えなければならない。ミッション2030にはこう書いてあります。今日のテーマで【3】「共同体を生きる」「この教会が誰にとっても『わが家』であると思えるように、どんな人も迎え入れ、互いに支え合いながら、つながりを大切にしていく。」ことをやりたいわけです。「わが家」ということだけについても相当考えます。 伝統的なカトリック家庭に生まれた方もおられるし、崩壊寸前家庭で育った方もられる。それは良い面悪い面様々な要素があるし、今現在、家族である程度の人数で暮らしておられる方もいるし、一人暮らしの方もいっぱいおられるでしょうから、わが家ということが何を言っているのかを考えなければならない。わが家ということでキリスト教の辞典とか読んだり色々考えたりするんですが、 教会がわが家だとしたら一番の前提は、この家には神様が住んでおられる。それをとり除いてしまったら意味がないということです。わたしたちが、わが家とするとしたら神様あってのわが家であって、 神様がいなければ町内会と同じです。町内会すら今は崩壊しかけている。 わたしたちの家にはイエス様が住んでおられなければならない。イエス様がおられる共同体というのは、イエス様がおられる家をどう意識していけばいいかというのが一番大事でしょう。   教会の中心的な信徒さんというのは忙しすぎて活動ばかりで祈る時間がないかもしれない。特に小さな教会では活動の話し合いが多くて 祈る機会が少なくなる。余裕がないんです。だけど忙しく働く必要があるのは当然ですが、わが家で一番大事なのは神様で、神様が家におられるとしたら、わたしたちは祈りの時間を持たなければならない。 そこからどうやって「どんな人も迎え入れ」るか。    カルト集団の話しが出ましたけれども、ある方はカトリックの洗礼を受けていたのにカルト教団に入ってしまい、そして脱会して、またカトリックに戻りました。彼女が カルト教団にいて何が良かったかという話を聞くと、先ほども言われていましたが、共同体なんです。自分が大切にされていて仲間がいるという。カルト教団に比べるとカトリック教会は自分が入る共同体がなかなかできないから、気持ち的には寂しくなって戻りたくなるとも言っていました。 その女性はカルト教団にいた時に布教活動で海外に行かされる。海外布教の派遣先をくじ引きで決めて、なんとその女性はバチカン市国でした。 バチカンで寂しそうにしている神学生を勧誘していたそうです。カトリック教会はカルト教団の良いところを真似して、共同体で温かく迎える。教会は承認欲求が満たされるのが弱いかなという感じがします。入門講座係りにはいい人が多くて、最初はあたたかく迎えられるけれども、洗礼を受けた途端に何か居場所が無く感じる方もいる。実は以前、イグナチオ教会の庭でカルト教団員が勧誘していました。夕方に庭で座っている中高生に声をかけて、うちの教団に来ないか、と誘っていたとか。いろいろな話があります。どれくらい人とつながりを求めているかは人それぞれです。神様と祈りを深めたいという人は、人とのつながりは必要ないと思われるかもしれない。この教会の規模からいったら、 密な共同体をつくるのは難しいかもしれない。 都会型のさらっとした感じがいいのかなとも思います。でも教会によって全然違う。わたしは昔、黙想指導していて、九州のある所へ黙想指導へ行ったら、信徒さんが大歓迎で大盛り上がりでした。東京ではありえません。この教会でも色々なゲストの方が来られますが、主任司祭が出てきて、ようこそと言うぐらいで、ゲストに対して信徒はほとんど挨拶もできない。イグナチオ教会が都会型なんです。だから都会型のあっさりした人間関係にしても良いのではないかと思います。でも箱ものを作ればいいというものでもなくて、もっと大事なもの、迎え入れる奉仕者がいるかどうかがもっと問題で、 それがなかったら難しいです。出来ればみなさん一人一人が迎え入れて、どんな人でも互いに支え合っていくということが理想なんです。そのためにはちょっとした工夫とか、 一歩でも進めていくようなつながりづくりとか、先月の献堂20周年記念ミサもいいですし、今日あったような日曜サロンとか、小さな集まりはいっぱいありますし、さらに何をすればいいかということです。 だから課題別で集まると集まりやすいのかなとも思います。30代40代の集まりとか、シングルマザーの集まりとか。でもわたしは30代以上の集まりを月一回していたのですが、それでも仕事とかで忙しすぎて集まらないんです。 今では道しるべの会といって20代30代を中心に行ってはいます 。そのようにある程度その人達だけのためという集まりをしてもいいかなと思います。  長期入院をされて教会から離れている方はどうするかというと、ご聖体を運ぶ奉仕活動もあります。もうそれでも足りていない気がしますが。少しずつでも教会としてみんなでできることを考える。でも根本は一人一人の意識だと思います。迎え入れるとか寄り添うとか、離れている人をたずねるとかの地道な活動でしょう。迷い出た1匹の羊というのは元々離れていたんです。今日の課題は言葉通りに言えば、洗礼を受けたのに、その後から離れた人のことをいいます。教会に来ている方とお話しするのは簡単ですが、教会に来ていない方にどう促すのかが難しいことです。教会には12,000名在籍されていますが、来ている方は2000人ぐらいです。だから10,000人ぐらいは全く来られていません。そういう方にどうアプローチしていくか。年賀状の話が出ましたが、教会報告の手紙を送るだけでも膨大な作業になっています。 教会から離れた方が、何かの出来事がきっかけでまた来られたり、 誰かがきっかけで来られたりしていますが、そういうことは人間的な計画でできるかどうかというと分かりません。ただこれからも、また教会に戻られる工夫をしていければと常々思っています+

 

  

2019 年 7 月  7  日(日)13:00 第2回「共同体を生きる」

   ワークショップ「祈りにもとづく使徒的共同体とは」

    あなたはどのような「わが家(共同体)」をつくりますか

     カトリック麹町教会 ヨセフホール 於
      イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 講話記