カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2-9 神の恵みを受け 世の光となる

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会 於

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マタイによる福音書 5:13-16(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」+

  今日の福音書はマタイの福音書の5章、山上の説教のはじめの方の朗読です。「あなたがたは地の塩である」そして「あなたがたは世の光である」とイエス様がわたしたちにおっしゃってくださいます。わたしたちが世の光であるというのはどういうことなのか。夜だから光が必要なんです。太陽がありますから、昼間は光が必要ではありません。夜だからこうしてろうそくをつけたり、照明をつけたりしているわけで、暗い時にしか照明は必要ではありません。夜だから懐中電灯などをつけるのであって、昼間からあかりをつける必要はありません。そうしたら「あなたがたは世の光である」光であるのは、暗闇の時にこそ光であれと言っている。つまり昼間で、物事がうまくいっている時には、別に光を輝かせる必要性はないわけです。暗い時にだけ、わたしたちは光である必要性があるということです。 それをわたしたちは心に刻まなければならないでしょう。
光と暗闇で最近一番印象的だったのは、教皇フランシスコが広島で平和のメッセージを語られました。その時広島は夜でした。真暗の中から教皇様が現れて、暗闇の中で真っ白い服を着て、まさしく光の中で教皇様は核兵器廃絶を訴えられました。あのような姿こそが世の光であるということの典型的な姿ではないかと思いました。暗闇がなければ 光る必要性がないということです。でもわたしたちは暗闇の時にこそ光ることを忘れるような。今日の福音にも書いてあります 。「ともし火をともして升の下に置く者はいない」ともし火をともして枡の下に置く人はいない。ベッドの下に置くとか奇妙なことです。でもわたしたちはそうしているということなんです。なんでそうするかといったら、暗闇に負けてしまうからです。暗闇に振り回されてせっかくの光があるのにそれを枡の下とか、ベッドの下に入れてしまうことがしばしばあるということです。わたしたちの周りに暗闇があるでしょう。人間関係のトラブルとか、まさしく今の流行病とか、個人の病気もあるでしょうし、あるいは周りに嫌な人がいて、いろんな暗闇がありますが、闇に振り回されてしまうと、光を輝かせることを忘れてしまって、闇に捕われてしまうということです。それをわたしたちはしばしば経験することではないかと思います。闇が恐いというか、闇に怯えてしまって振り回されて、あるいは闇に怒りを爆発させたり。でも当たり前のことですが、闇と戦うことはできません。暗闇を手で払おうとしても無くなりません。暗闇を無くすにはどうすればいいかといったら、すごく簡単ですけれども、光をともせば暗闇は勝手に消えていきます。暗闇と闘ったりすること自体も意味がありません。ただ光を灯せば光が消えるということです。だからわたしたちは光を輝かせることが闇に戦う唯一の解決方法だということです。暗闇とかこの世のマイナスのこととか、否定的なものを見つめていて、結局それに巻き込まれてしまうならば、わたしたちの心に永遠に平安が来ない。イライラや不安に巻き込まれたまま。だからこそ光をともす、あるいはわたしたちが世の光であるということを思い起こすことが最も大切で、最も簡単な解決方法だと思います。だからこの光はどこから来るかのか。当たり前ですが、光を自ら生み出すことはできません。 本当の光は神様からしか来ないですから。わたしたちはどれだけその光を受け取って、神の恵みをしっかりと自分の心に受け止める時だけ、光として輝くことができるだろうと思います。
前の教皇のベネディクト16世が好きだった言葉ですが、教会は月のようなものだというんです。月そのものは輝きを放っているわけではありません。望遠鏡で見ればゴツゴツして綺麗でも何でもありませんが、でも太陽の光を浴びて反射させるから月は綺麗に輝くことができるんです。それが教会だとベネディクト16世はおっしゃっていました。まさしくわたしたち一人一人がそうでしょう。神の光を受けてそれを反射する時に、わたしたちは世の光になることができるということです。神の恵み、神の光をいつもわたしたちの心に取り入れて吸収する。それを持って暗闇に負けないで、周りをわたしたちは照らすことができるということです。神の恵みを充電しないと、わたしたちは世の光になることはできないということです。その恵みを願いましょう。
こうやってミサにあずかること自体が、光として輝くことができる恵みをまさしく頂く時だと思います。恵みをしっかり頂いて、そして明日からの一週間を光を輝かせて、闇を追い払い照らしていく光となって、わたしたちは歩んでいけるように、生きていけるように、恵みを願いたいと思います +

 第一朗読  イザヤ書 58:7-10
(主は言われる。わたしの選ぶ断食とは、)飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと呪いの言葉をはくことをあなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り苦しめられている人の願いを満たすなら あなたの光は、闇の中に輝き出であなたを包む闇は、真昼のようになる。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 2:1-5
兄弟たち、わたし(は)そちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした+

 

2020 年 2 月 9 日(日)18:00
 年間 第 5 主日〈緑〉A 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記