カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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5-24 自我が地に落ち 世の終わりまで共におられる

英神父 福音朗読とおはなし 主の昇天 

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 マタイによる福音書 28:16-20(そのとき、)十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」+

 今日は主の昇天の祭日にあたっています。今年度はマタイによる福音書を朗読し、今読んだのはマタイの福音書の最後のところです。マタイの福音書には主の昇天の描写はないんです。ルカによる福音書にははっきりあるんですが、マタイの方はイエス様が昇天するのではなくて、最後は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」というところで終わっています。イエス様の復活の出来事をルカ的に、あるいはマタイ的に表現しているので、本質的には変わらないわけです。今日はそのマタイの福音書です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」このことを少し味わいたいと思います。そろそろ緊急事態宣言が東京都も解除される見込みがついてきたということで、少しほっとしています。ただすぐにイグナチオ教会でミサが捧げられるようになるかどうかははっきりしていない。菊地大司教様の考えでは、少し様子を見てから、しかもミサを始めるとしても以前のように行うのは不可能なので、限定された形でいわゆるソーシャルディスタントを聖堂の中でしっかりとるような形でしかできないので、かなり限定された、人数的にもかなり制限されたミサになるのではないかと思います。これは今の社会生活全般的にそうです。私たちはコロナウイルスと共にどう生きていくかという話しになるわけです。ウィズコロナ、コロナと共にどのように私たちの生活を変えていくかということです。私たちはコロナとどう共にどのような形でと考えなければなりません。私たちクリスチャンはそれと同時に、それ以上に強く、今日のイエス様の言葉です。「あなたがたと共にいる」イエス様は私と共にいてくださる。イエス様とどう共に生きていくかということを合わせて黙想して考えていかなければならないと思います。コロナウイルスの方は1年ぐらい、長くても2、3年ぐらいのことですから、その間どう共に生きるかということで、それはそれでいいわけですが、イエス様の方は、世の終わりまでいつも私たちと共にいてくださる。イエス様と共にいるほうがもっと長いし、もっと深い関係を結ばなければならないということです。ではイエス様と共にどう生きていけばいいか、それを少し考えたいと思います。
昨日はご存知の方も多いと思いますが、イエズス会の元総長アドルフ・ニコラスという神父様が亡くなられて、昨日は葬儀がこのイグナチオ教会の主聖堂において行われたわけです。昨日はニコラス神父様の葬儀だったのでその印象が深く深く心に刻まれています。もともとニコラス神父様はスペインの人で宣教師として日本に来られて、イエズス会の様々な仕事をされていました。長い間上智大学神学部の教授を、秘跡論の先生をされていました。わたしが神学生の頃に彼が神学院の総長でした。わたしが叙階される頃に彼は管区長になって、しばらくして他の仕事もされていましたが、イエズス会全体の総長、Father generalというんですが、イエズス会員が世界中に2万人ぐらいいて、そのトップを勤められたという、ある意味重責を担われた神父様です。その神父様のことをいろいろ考えたのでお話したいと思います。
わたしが神学生の頃、彼は神学生の院長だったので共に暮らしていたんです。その時のニコラス神父様の印象というのは個人的ですが、世の中にこれほど完璧な人が存在するんだなというのがその時の印象でした。頭は抜群にいいですし、授業も最高に素晴らしい。何をやるのもそつがない。完璧な人というと堅苦しいかもしれませんが、ものすごくユーモアがあって暖かくて、彼と一緒に食事をしている時は彼が冗談を言うから笑いが絶えない、非常に暖かく彼と同じテーブルにいると和やかな雰囲気になる。しかもダラダラお話ししないで時間になったら次の仕事に行かれる。絶妙なタイミングで席を立たれる。そういう感じだったんです。実はその頃わたしは神学生だったんですけれど、その頃ニコラス神父様が少し苦手でした。あまりに完璧すぎたので逆に心苦しいような。ニコラス神父様には私は割と可愛がられていて、非常に評価を受けていました。それが逆に個人的に重荷みたいな感じに思っていました。何をやってもうまくできて、全てが良くできる人で、時々皆さんの知り合いにもおられるかもしれないけれども、その典型的だったのがニコラス神父様で、結局イエズス会の要職の総長、イエズス会のトップにまで上りつめられました。総長を辞職されて、2年ぐらい前までか、しばらくフィリピンで働かれておられ、いよいよ体が弱くなって、最後は日本に戻られてロヨラハウスにおられた。その時のニコラス神父様というのはヨボヨボになってしまって、頭ははっきりして心も元気だったんですが、喋ることもゆっくりゆっくりになってしまって、動作もゆっくりになってよく転んだり認知症もだいぶ入った。若いころの完璧だったニコラス神父様が、全くのヨボヨボのおじいちゃんという感じになってしまって日本に戻ってこられた。ニコラス神父様を見て、若い頃の完璧さというのはもちろん無くなったんですが、その代わりに神様の現存が彼に溢れているという感じになって、ものすごいありがたい人になったような。ヨボヨボなおじいちゃんなんだけれど、彼の姿の中に神の恵みが溢れていて、それが周りに流れてくるような感じになって、20年ぐらいは会っていなかったですから劇的に変わられたニコラス神父様に、人間てこのように神に近づく存在、神様と共に生きられる存在に変わっていくことができるんだなということをしみじみと感じたんです。何が言いたいかというと、今日のテーマのイエス様がいつも私たちと共にいるということですけれども、共にいると聞くとただ隣にいていいなという印象しかないかもしれませんが、いつも世の終わりまで共にいるということは、影響し合う関係だということです。物理的に横にいるわけでもないし、ただほっとするだけではなくて、関わりと交わりの中で、時にはわたしたちの自我が出て、自分の罪深さが出ちゃうこともあるけれども、その中で変えられていく、共にいるというのは大胆に私たちが変えられたり、良くも悪くも変えられたり、心の中にあるものが出てきたり、あるいはものすごく成長できたりすることができる。そのような生きた関係というのが共にいるということだと思います。私はそのニコラス神父様は神様とそのように共に生涯過ごされたということが、晩年の姿を見てはっきりそうだと思います。神様との生きた関係をずっと持っておられたということだと思います。晩年の神と共にまさしく存在そのものがあるというところまで人間が変えられることがあるということです。想像ですけれども総長という世界全体のトップというのは難しい問題がいっぱい山積して、それに当たらなければならなかったと思います。わたしも一つの教会の主任神父ですけれども次から次へと問題があって、今はコロナの問題ですけれど、いつもいつも悩んだりお祈りしたり、ああしたりこうしたりうまくいったりいかなかったりします。それはイエズス会全体のレベルでそれをされていて、彼の総長期間中は性的虐待の問題が割と大きな問題になり、様々な問題がありました。そのような大きな苦難や問題をイエス様と共に生きていく。それを誠実に受け止めながらイエス様と共に生きられたんだろうと思います。

昨日の葬儀ミサはなぜかわたしが福音朗読をして、英語でしたが、ヨハネ12章14節のところで「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」というところです。わたしはその朗読箇所を読みながら、まさしくニコラス神父様は地に落ちて死んだんだと思います。そこで豊かな実を結んだんだと思います。豊かな実の一つは彼の存在そのものが神の恵みに包まれるぐらいの彼の魂が神様と一致するような。その過程で何があったと言ったら、彼の自我が地に落ちて死んだということです。そつが無くて何でもできる、全てにおいて優秀というものが多分どこかで地に落ちて死ななければならない。そのような過程が何回もあったのではないか。そこで豊かな実りが彼の存在から晩年のおじいちゃんの姿から、神の恵みが溢れんばかりに注がれている存在に変えられたのでしょうか。だからわたしは昨日の福音朗読をしながらそのことを痛感しました。それを去年日本に来られイグナチオ教会で7月31日にミサをされた現総長のソーサ神父様の説教が昨日アップされたんですけれども、本当はニコラス神父様レベルが亡くなられたら、現総長がもう一度日本に来て司式する予定でしたし、ローマからもVIPの人が少なくとも何人か、アジアからも責任者の方々が何人か来る盛大なミサを昨日はしなければならなかったのですが、コロナウイルスのことで結局できないので、中継ライブと現総長がローマからビデオメッセージとして説教のところをアップしました。YouTube でニコラス神父葬儀が出てきます。総長の話も、地に落ちて死ぬというお話で、ニコラス神父の生涯がそうだったという象徴的なお話しでした。

私たちが神と生涯共に生きるというのは具体的にそういうことだと思います。ただいつもの自分のまま共にいるのではなくて、劇的に変えられることもある。神と共に誠実に歩むなら、多くの場合は自我に死ぬということです。苦しみや辛さを通しての事が多いとは思います。でもその先にあるお恵みはどれほどのものがあるかということをニコラス神父様は示して下さったと思います。
私たちはコロナのことでどうしようとか、ミサに行けないとか、うつるんではないかとか、心配はいろいろありますけれども、神様と共に生きる大胆さを中心にしたほうがずっといいです。自分の捕らわれから解放されるチャンスでもあると思います。共に歩むということは自分の自我もあらわになりますけれども。
私たちが本当に神と共に歩む喜びの人生、それは辛いこともあります。本当の喜びを味わっていけるように、コロナとも共に歩みながら、私たちの本当の信仰の道を貫いていけるように、共に祈りあっていきたいと思います。
つけ加えで、ニコラス神父様がつくられたお祈りがあるんです。まさしくイエス様と共に歩む心がけを記したニコラス神父様のつくられたお祈りがあります。昨日のミサの聖体拝領の時に朗読されたものです。最後にそれを朗読して終わりたいと思います+

 

 

主イエスよ、
私たちのどんな弱さを見て、それでも、あなたのミッションに協働するよう呼ばれたのですか?
あなたが、招いてくださったことに感謝を捧げます。世の終わりまでともにいてくださる約束をどうか忘れないでください。
しばしば、私たちは、あなたがともにいてくださることを忘れ、無駄に力を費やしたと落ち込むことがあります。
どうか、私たちの人生となすべきことにあって、今日も、明日も、そして、来たる未来も、あなたの存在を感じさせてください。
あなたに仕えるために差し出した私たちの人生をあなたの愛で満たしてください。
「自分たちのこと」だけにとらわれ、「自分のもの」に執着してしまう、共感と喜びに欠けた利己主義を私たちから取り去ってください。
私たちの知性とこころを照らし、私たちの思い描いたように、ことが進まないときでも笑顔でいられますように。
1日の終わりに、毎日の締めくくりに、あなたとの絆を思い起こさせ、日常の中に大いなる喜びと希望を見いだすことができるようお助けください。
私たちは、弱く、罪深いものですが、あなたの友なのです。
アーメン
          アドルフォ・ニコラス神父 S.J.

 

 

第一朗読  使徒言行録 1:1-11
テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

答唱詩編47:2.3.6.7.8.9
主はのぼられた、喜びの叫びのうちに。

すべての民よ、手を打ち鳴らし、
神に喜びの叫びをあげよ。
すべてを越える神、おそるべきかた、
世界を治める偉大な王。

主は喜びの叫びのうちに、
角笛の響きとともにのぼられた。
神をたたえてほめ歌え。
わたしたちの王をほめ歌え。

まことに神は世界の王。
力の限りほめ歌え。
神は諸国の民を導き、
とうとい座についておられる。

第二朗読  エフェソの信徒への手紙 1:17-23
(皆さん、)どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です十

 

2020年 5 月 24日(日)
 主の昇天〈白〉A 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記