カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2018-07-15 遣わされた者

英神父 ミサ説教   聖イグナチオ教会於

マルコによる福音書 6章7-13節(そのとき、イエスは)十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした十

  今日の福音書では、イエス様は「十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。」とあります。イエス様の弟子は、ただ単にイエス様と共に過ごすだけではなくて、遣わされる存在だったということです。どこに遣わされたのか、救いを必要とされる人の所に、イエス様は自分の代わりとして、神の国の恵みを伝え、癒しの業をしていくために、イエス様は弟子たちを遣わされた。わたしたちも遣わされているものであると、それを改めて思い起こしたいと思います。7月の初めぐらいから西日本の豪雨災害で、多くの所が被害にあわれています。昨日からこの教会でも被害にあわれた方に、募金活動をしましょうということで、特に若者が中心となって始めています。できれば、この教会の若者を被災地へボランティアで派遣できないかと思っています。多くの方がすでにボランティアに行っていて、この教会からも、できれば派遣できればいいのではというところです。そのために交通費などを援助できる資金を集めてもいいのではということです。私も行きたいのですが、仕事的にも体力的にも無理があり、熊本の震災へはボランティアには行きましたが、今回は難しいと思います。被災地へ行ってボランティアをするというのは、イエス様から遣わされて、苦しんでいる人の所へ行って、何か人のために働くということ、この遣わされるということと一つだと思います。聖書には色々な物を持つなと書いてありますが、被災地へは最低限の装備をして、必要な物を持って、現地では片付けの仕事など山のようにありますから、若い人たちが力を合わせてそのようなことをする事は、大変意味があることだと思います。私自身も被災地へは何回も行っているのですが、喜びがあると言うか、人のために働くというのは、自分のお恵みにもつながっていくようなところがあって、もちろん苦しんでいる方の苦しみを背負うというのもあるんですが、それと同時に人のために働くということも、大きな喜びを強く感じられることではあります。わたしなど被災地へ行けば、一ボランティアなので、リーダーから言われたことを言われた通りにして、しがらみがなく、非日常的なところで人のために尽くすというのが、勇気もいりますけれども、純粋な喜びが多いのではないかと思います。できれば若い方々がボランティアへ行ってほしいと思います。それはごく限られた、特別な遣わされたということでしょうけれども、多くの人にとってもっと大切なのは何かといったら、非日常的なところにある期間だけ働きに行くのではなく、わたしたちの日常生活の中に、いつものところに、ずっと派遣されているということを、もっと意識しなければならないと思います。ですがその方が難しい。なぜかといったら、毎日のいつもの決まりきった仕事や、人と会ったりすることですから、ついマンネリになったり、いつものことで気が抜けたりすることもあると思います。でもイエス様がみなさんを遣わしているのは、一番最初には皆さんの日常のいつもの仕事。いつもの家庭生活、いつもの教会活動かもしれない、いつものボランティア活動かもしれない。そこに主から派遣されているということを、度々思い起こした方がいいのではないかと思います。それを嫌々だったり、惰性でいつもやっているように同じようにやるのか。主から遣わされたものとして、喜びのうちに、感謝のうちに、神様の心を果たしていこうかとするかどうかは、大きな違いが出てくるのではないかと思います。   だいぶ前に雑誌で読んだことですが、地方で、ある主婦の方が子育てとかが済んで、長年夢だった花屋さんを開こうと思い立って、花屋さんを始めました。資金も限られているでしょうから、そんなにたくさんの花を置くことができない。仕入れの花が少ないとお客さんもたくさん来るわけではない。すると売り上げが少ないからもっと仕入れの花も少なくなって、開業しても売り上げが少ないから、置いている花がどんどん減って、続けられないような感じになってきました。その頃近所の経営コンサルタントのような人が訪れて、花の数が少ないことに驚いて、何気なくアドバイスをしました。他の花屋さんは同じ地域だと、仕入れてくる花も一緒だから、同じような花を売ってるお店になる。だからお客さんがこの店に来たくなるような、そんなお店でないとだめだと。ついでに言えば、同じ花でもその花も喜んで来るような花屋さんにしたらどうかと。売り上げが伸びないと心配して顔も引きつってしまい、お客さんもだんだん離れていく。その花屋さんはそれはそうだと思いました。せっかく始めたんだから、来る人来る人がもう一度来たくなるような一人一人を心から迎えて、花もそこに来てもらっているんだから花にも感謝した。それがきっかけになって、だんだんお客さんがリピーターで来るようになった。花もどんどん来るようになって、そのうち病気になった鉢植えの花を持ってくる人もいて、相談して、お花を再生させるようなこともするようになって、一年後に売り上げが30倍になりました。それはその人が仕事をどういう心がけでやるかで、全く変わってくるということです。イエス様がわたしたちに、日常生活の中で分かち合ってほしいことは、花を売るか売らないかではなくて、花よりもっと大事なことは、神様の恵みを分かち合ってほしいと思っているから、イエス様はわたしたちを遣わされるわけです。この世の最も尊い宝物を分かち合ってするように望んでおられると思います。この世で一番の宝の神の恵みを、どのような態度でどのような心がけで、分かち合おうとするかということが決定的だと思います。わたしたちは何でこんなところで働かなければならないかと思ったり、なんでこんなに問題があるところにいなければならないかと思います。でも問題のある職場や家庭だからこそ、イエス様が遣わされた。うまくいっているところには遣わされる必要はないのです。うまくいっていないところとか、問題があってどうしようもないところに、神様の愛が溢れてほしいから、わたしたち一人一人をそういう職場や家庭に、身近な問題があるところに、主がわたしたちを派遣された。そこで工夫をして神の愛と分かち合っていけるか。それはわたしたちの祈りであり工夫であり、愛の心をどのように生きていくかと問われていると思います。神様がわたしたちを遣わしたいところは、理想的な職場とか家庭ではないところに遣わしたいのです。そこで神様の恵みを多くの人が分かち合って、癒しや救いの恵みにあずかれるためです。いやいや遣わされるのではなくて、喜んで感謝と勇気を持って遣わされていくならば、日頃の生活のことなどが劇的に変わる可能性はいつでもあると思います。売上でなくても、自分のいるところで喜びが30倍になったら素晴らしいでしょう。笑いが30倍になるならば、慰めやほっとした気持ちが30倍になるならば、自分も嬉しいけれども神様もどれほど喜んでくださるかということです。わたしたちは遣わされているものだということです。このミサにあずかって、神様から力をいただいて、西日本で災害にあわれた方々のためにも、できる限りのことをしなければならない。それと共に身近な人にも精一杯、自分自身ができることを果たしていけるように、このミサでお祈りいたしましょう十


第一朗読  アモス書 7章12-15節(その日、ベテルの祭司)アマツヤはアモスに言った。先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。」アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。(ところが)主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。」

 第二朗読  エフェソの信徒への手紙 1章3-14節
 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。《キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。》十

 

2018 年 7  月 15 日(日)10時ミサ 
 年間第 15 主日〈緑〉B 年
 カトリック麹町教会 主聖堂於
  イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記