カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-11-20 あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる

英神父 ミサ説教 聖イグナチオ教会 於  

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ルカによる福音 23章35-43節   そのとき、議員たちはイエスをあざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた十

 今日は王であるキリストの祭日にあたっています。この王であるということですけれども、この祭日は毎年のことですが、二つぐらいの意味で、受け入れにくいところもあります。一つは王であるということですが、実際はこの時代、民主主義になってしまいましたから、今のところ王様といったら、北の独裁者か、昔のフセインとかでしょうか。あるいはタイとか日本みたいに象徴的な権力のない王様であって、王であるというのはピンとこないかもしれない。
カトリック教会がなんでこの祭日を決めたのか。ほぼ王政が無くなっているときに決めているので、ずれているような気もします。しかも福音書が、A・B・C年違うんですが、この十字架につけられたイエス様のところが朗読される。これもまた、わたしたちがイメージする、おとぎばなしの王様のイメージと、全く離れているイメージがある。今日の第一朗読のダビデのところは、王様らしい王様ですが。イエス様の方は十字架に架けられたところが、王であるキリストの祭日に読まれるということ。王であるということと、十字架に架けられるということは、つながらない気もします。
イエス様が十字架に架けられたときに、十字架の所には「ユダヤ人の王」「INRI」そういう張り紙のようなものをつけられたのですが、なんのためか、侮辱するためです。王様ではないということを逆にいうために、ここでそのような張り紙がされていたのだろうと思います。
議員たちがあざ笑って、兵士たちもイエス様を侮辱して、十字架に架けられていた犯罪人もイエス様を罵るわけです。なんで罵るのか、王でないから侮辱している。王様らしくないからこそ、十字架上でイエス様は罵られているわけですね。人々が期待した王様と全く違ったので、イエス様は人々から最終的には十字架に架けられ、侮辱されることになったと思います。
イエス様が十字架に架かって、最後は右か左かどちらかの犯罪人から罵られ、もう一人の犯罪人からは、むしろイエス様から助けを願う形で、描かれているわけです。
イエス様にわたしたちは何を求めているのか、何を期待しているのか。そこにいた大半の人は、イエス様が王でなかったことをがっかりして、侮辱したり、責めたりしたのですが、みなさん一人一人はイエス・キリストをどういう方だと受けとめられているのか。イエス様に対してどういうところにがっかりしているのか。メシアであるならばとか、王であるならばというわけですけれども。わたしたちもイエス様にいろんな期待を持って、こうしてほしいとか、ああしてほしいとか考えているわけですけれども。願ったこともあると思いますが。それが叶わない時も多々あるのではないか。十字架のイエス様の両側に、二人の犯罪人がいること自身が、象徴的な意味があるのではないかと思います。何かというと、わたしたちの心の中に二人の自分がいる。一人はイエス様に頼っているところもあるけれども、他方はイエス様がわたしたちの願いを叶えてくださらないという、場合によっては憤りとか、がっかりするところとか、そういうところがあるかもしれない。
こんなに毎週日曜日に来て、お祈りしているのだけれども、なんで自分の家に不幸が来るのか。家族が病気になったり、急に何か起こったり。こんなに真面目にお祈りしているのに、信者生活送っているのになんでだ。というふうにみなさんの中にもあるかもしれない。つまり自分の期待に対して、自分の願いとか、多くの願いはこの世的な王様につながる。仕事がうまくいくようにとか、健康になりますようにとか、人間関係がうまくいくようにとか、そういうことをわたしたちは願うわけですけれども、その願いが全部叶うわけでもない。ほとんど叶わないこともあるかもしれない。そのときにもう一人の犯罪人の立場に、自分の立場を置くことができるかどうか。それはわたしたちに対する問いかけだと思いますね。
わたしたちの心にはいつも二つの自分があるような気がします。否定的な思いとか考えに囚われたり、もうだめだということもあるとすれば、イエス様助けてくださいと委ねることもある。善き犯罪人はなんと答えるのか。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」とお願いするんですね。あなたの御国、神の国においでになるときに自分もということですね。イエス様が王であるということは、どこの王様なのか。一番はっきりしていることは神の国の王様です。この世の国の王様ではない。イエス様が支配されているのは、神の国ですから、だから善き犯罪人の願いは正しいんですよ。神の国に行かれる時にわたしを思い出してください。イエス様が「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」はっきりイエス様は神の国に入ることを、この人に保障して、その意味で十字架上のイエス様は、王様だというんですね。神の国の王である。わたしたちにはイエス様が十字架に架かる姿があらわれているということは、王であると語っているのは、たぶんそういうことではないかと思います。神の国に入るように呼びかけて、一番早い入り口は、十字架だということですね。だからイエス様は十字架に架かられたし、十字架に架けられた犯罪人は、まず一番目に神の国に入ったんですね。
十字架というのはわたしたちにとって、小さな苦しみだったり悩みだったり、うまくいかないことであったり、この世的にみたらマイナスだと思えることを通して、イエス様はわたしたちを神の国に招いておられる。わたしたちの目標は、わたしたちが一番大切にしなければならないことは、神の国を生きていくことですね。この世の社会を上手く生きていくことが、第一目標ではないと思います。神の国を生きていくことを、わたしたちは心がけなければならない。そこに本当の恵みがあるからですね。その神の恵みの世界、そこを王であるキリストがつかさどっておられる。その恵みにわたしたちがあずかるように、呼ばれているのだと思います。神の国の一番大切なことは、神様の慈しみですね。今日でいつくしみの大聖年が終わりますけれども、神の慈しみこそが、神の国の中を支配されている、最大の原則だと思います。
わたしたちが日々の生活を通して、日々の小さな十字架を通して、悩むこともありますが、それを通してこそ、神の慈しみをしっかりとわたしたちが、受けとめて、わたしたちが日々の生活をとおして、日々の十字架を通して、悩むこともありますが、それを通してこそ、神の慈しみをしっかりとわたしたちが受けとめて、神の国を生きていけるように、あらためて、このごミサでお祈りしたいと思います十

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 第一朗読 サムエル下5・1-3

   その日、イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。

  第二朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 1・12-20

 皆さん、わたしたちは、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝しています。御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、購い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました十

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