カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2017-03-06 入門講座 28 三位一体

英神父 入門講座 28 三位一体

 今日は二ケア・コンスタンチノープル信条お話します。使徒信条というのはかなり古い、初代教会の人が自分たちの信仰をある程度まとめて、唱えていたものです。使徒信条が唱えられたあと、 初代教会というのは自分たちの意見や考え方を統一しなければならなかった。一つとは何かと言ったら、イエス・キリストは一体誰なのかということを、ある程度の統一的な意見を考えなければならなかった。考え方が分裂していたところがある。最初の頃ですから極端な考えが出てきて、イエス・キリストは誰なのかと、いまだにたくさんの本が出ていますが、世界的に言ったら毎月一冊は出ていて、日本語にも1年に2、3冊は訳されている。それぐらい色々な意見がある。当時は何が問題であったかと言うと、神様は創造主なんです。つまりこの世を造った。神様以外は造られたものです。イエス様は被造物の側なのか、神様の側なのかということで、意見の統一が最初の頃はなかった。ものすごく素晴らしい人だけれども、人間の側にいるといったのがアリウスです。アイルス派と呼びます。その人たちもかなり多かった。逆にイエス様は神様の側だといったアタナシウスという人がいて、とても対立していました。司教様の間でも色々な考え方があったり、日本人はどちらでも良かったかもしれませんが、初代教会はギリシャから広まって、物事を哲学的に考えるような民族なんで、そういうことをはっきりしなければならなかった。325年にニケア公会議というものを開いて、結論はどうなったかと言うと、イエス・キリストは神と同一本質であるという最終的な結論がでました。イエス様は神様と同一本質であると結論づけた。つまりアリウス派を退け、認めませんでした。ある意味非常に画期的なはっきりさせたことになるわけです。初代教会ではなかなか意見の一致が見られないことについて、司教さんたちが集まって会議をしたんです。問題があるとたびたび公会議を開いて、このようにしましょうという統一の意見を作ったわけです。特に最初の頃はいろいろなことがあったから度々開かれたんです。特にギリシャ人に広まったあたりに協議というんですが、キリスト教の基本的な教えは何かと、度々公会議が開かれました。そこでだいたい色々な基礎的なことが決まりました。その後の歴史から言うと、ラテン世界に広まりました。つまりローマ中心に広がったらラテンの人々にローマ文化、キリスト教が広まっていきます。彼らはあまりギリシャ人の哲学的ではない。ギリシャ人は抽象的な政治学的な思考が得意だったんですけれども、ラテン系の人はローマ法とか法律が得意なんです。そういうことを考えるようになって、秘跡をどのように執行したらいいか、秘跡的なものをきっちり考えたのはラテン系の人達です。ラテン教会だから秘跡論が発展する時期がそのあとにきます。ニケアの公会議でイエス様は神様と同一本質であるとアリウス派の意見を退けたということです。イエス様は神であるということです。簡単な言葉だけれども難しい。どう理解したらいいのかというのを、実はそんなに簡単ではありません。山浦先生がケセン語で書かれた聖書で、ヨハネの福音書を訳すときに詰まったのがこういう言葉が多いのです。わたしは道であるとか、わたしは真理であるとか、わたしは生命であるとかわたしは復活であるとか、わたしは良い羊飼いであるとか、山浦先生が言うんですが、わたしは道であるとはどういうものなのか。イエス様は道であるとはどういう意味であるかと言うんです。つまり当たり前だけれどもイエス様は道ではありません。本質は違うわけです。イエス様は道ではないです。良い羊飼いですけれども仕事は羊飼いではありません。 A は B であるという 、B は何であるかというのはよく考えたら分からないところがあって、山浦先生はよく考えて、聖書学者と議論したり、構造からしてギリシャ語ではおかしくないけれども、道であるというのが道路かと、文字通りではおかしいんです。本当の日本語は何かと言うと、イエス様は道のような存在であるということです。道といっても道路の意味ではなく、何々であると形容詞的に言わないと、日本語という意味には本当はなりません。道のようなとか、山浦先生は、わたしは道であり真理であるとどう訳したかと言うと、全く違う訳なんですけれども、方言的に書いてあります。「俺ァ、人ォ本当の幸せに導ぐ」ということです。道とは本当の幸せです。真理は「俺ァ、人ァ本当に幸せになるなり方ァ教える」です。命については「俺ァ、人ォ幸せに活ぎ活ぎ生がす」でも実際にはそういう風に言わないと意味が無いのが事実なんです。だから何々であると言ったら、それは簡単に意味が通じているわけではない。イエス様は神であると言っても、実は意味がはっきりしていない。でもイエス様は神のような存在といったらずれてしまう。そう訳している聖書もないことはないです。ジェルサレムバイブルではヨハネの最初のところは、「光は神で、御言葉は神であった」というところを形容詞に訳しています。神的である、divineと訳しています。そうすると響きが変わってきて、神であると言っても、実際そう簡単に意味は捉えないものである。どう言うか、創造主の側にいるとしか言えない。イエス様が被造物の側にいない。それでそのような理解を、二ケア・コンスタンチノープルにつけ加えたわけです。最初のイエス様は誰であるか。つまり「すべてに先立って父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られることなく生まれ、父と一体。すべては主によって造られました。」を付け加えたんです。ニケア公会議で決めた事を表現したらこういう形で入れざるを得なかった。そのようなことがつけ加わっているのですが、それでニケア公会議が終わって、ハッキリしたんですがその後何が問題かと言うと、聖霊が神様なのかどうかということが問題になって、はっきりしないものがあって、381年コンスタンティノープル公会議が始まりました。コンスタンティノープル会議で聖霊も神様の側だと。つまり創造主の側だということを決めて、表現としてこう入ったのです。ニケア・コンスタンチノープル信条、「主であり、いのちの与え主である聖霊を。聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。」聖霊が何かをはっきりと規定したということです。二ケア・コンスタンチノープル信条でキリスト教の根本的な教えが確定したわけです。だから日曜日のミサの時に使徒信条か二ケア・コンスタンチノープル信条を唱えましょうということになっていて、ここまでがカトリック、ギリシャ正教、プロテスタントの共通理解になる。世界的に言えば二ケア・コンスタンチノープル信条を唱えています。日本だけは使徒信条を唱えている、短いからだと思います。イグナチオ教会も月一回だけ二ケア・コンスタンチノープル信条を唱えますが、月一回だからなかなか覚えられなくて、忘れることもありますが、二ケア・コンスタンチノープル信条と使徒信条は同レベルのものであるといまのところはなっています。ここまでがわたしたちは共通理解で信じたらいいということになっています。これを聖書的に見ると、コロサイ人への手紙1章9節「こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」コロサイ人への信徒への手紙というのは、パウロが晩年に書かれたと言われていて、学者たちはパウロではなく弟子たちが書いたと言われる箇所です。今読むと何が書いてあるのかよくわからない。これはギリシャ文化にいる人に説明をするために書かれているから、難しい哲学的な表現で書かれているわけです。分からないところもあるわけです。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。」御父とは創造主である神様。御子というのがイエス様のことです。御子、The son定冠詞付きの言葉です。「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」わたしたちはイエス様の十字架と復活によって、罪を贖ってもらった。つまり罪の赦しを得た。このあとが二ケア・コンスタンチノープル信条に書かれていることにつながっていきます。御子は見えない神の姿です。つまり父なる神様というのは見えないんです。だから見えないから神様を信じませんという人もいますが、イエス様の一つのすごいところは、見えない神様を表している。見えない神様を見えるような形でわたしたちに表しているところがイエス様の大切な点です。イエス様の言葉と行いを通して、神様がどういう方であるか分かることが大切で、その後「すべてのものが造られる前に生まれた方」被造物ではないということです。被造物の前だから世界が作られた時はどうかと言ったら、「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。」創造の業にイエス様が神様として関わっているということです。ここは日本人の思考では空想に感じられるけれども、パウロは実感的に書いています。「万物は御子によって、御子のために造られました。」創造の要にイエス様の存在がはっきりいうわけです。全てのものは御子によって支えられている。「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」この創造の業に、創造主と関与しているのがイエス様の存在である。御子は体である教会の頭だということで、そのイエス様が教会全体をも巻き込んだ。しかも「御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。」しかも最初にということで、わたしたちも復活にいずれ預かることにはなります。19節「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て」た。ここは創造ではなくて、十字架の血による罪の贖い、それは平和をうちたてる。「地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」イエス様の十字架の神秘は万物を神様と和解させて平和を打ちたてるということで、このような表現を見る限り、イエス様を被造物の側に考えるのは難しい。神様の側にイエス様を置かないとだめではないか。よくよく考えるとそうせざるを得ない。コロサイ人への手紙2章8節「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。」「人間の言い伝えにすぎない哲学」というのは当時のギリシャ哲学の事を言っていて、グノーシス主義、当時流行っていた哲学をさしているだろうとい言われています。16節「だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。」つまりグノーシス主義というのはかなり禁欲主義者だった。この世的なことには否定的で食べ物のことはいろんな規定があったので、そういうものに縛られないようにと言っています。「これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。」ということで、当時はグノーシス主義の哲学でしたけれど、今でも色々意見があって、そういうものに振り回されないでしっかりイエス・キリストを見つめて、揺るがないように生きるということを勧めています。それは今でも当てはまります。しかも教義的なことは何が大事だと言ったら3章1節「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。 あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシャ人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」 2章の終わりで21節「『手をつけるな。味わうな。触れるな』などという戒律に縛られているのですか。」23節「これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。」これがグノーシス主義、当時流行っていた哲学とそれに伴う生き方で、どちらかと言うと苦行的な、つまりこの世を軽蔑するような生き方が流行っていて、そういう人に捕らわれていたんだろうと思われます。「実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。」どうしなければならないかと言うと「キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」つまりイエス様は復活して神様と同等の存在であるから、神様に向かって歩むように心がけなさいということです。イエス様は神様であるということはそれに向かって歩むような積極的な生き方につながるということを言うわけです。「そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」イエス様であるということはやっぱり神に向かって歩んでいく。神様の世界を大切にするということを心がけましょうということに繋がっていくと思います。地上的な様々なことは捨て去りなさい、ということをはっきり言っているわけです。「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。」地上的なものは脱ぎ捨てなさいということが大事だということです。10節「 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」四旬節の四十日間というのは、基本的には洗礼を受ける人にとっては、最後の準備期間なんです。四十日間古いものを捨てるということです。自分の捕われを捨てて、そして洗礼と共に新しい人を身につけていくような生き方を心がけるということです。もちろん第一次的には洗礼を受ける人のためなんですけれども、当然洗礼を受けている人に対してもそのように四旬節は古いものを捨てて、神の恵みに生きましょうとなっています。新しい人を身につけると書いてありますが、これは洗礼式の中であります。女の人はベールを被り、男の人は小さな白いストラをかけるんですけれども、あれは新しい人を、キリストを着るという意味です。初代教会というのは真っ白い服を着ていたんです。一週間ぐらい着ていたようです。だから神の恵みによって新しい人にしてもらうというのは大事です。そこにはもはやギリシャ人とかユダヤ人とか割礼を受けたものとかの区別がないということです。キリスト教の神様は民族神ではありません。ある民族だけを守っている神様ではありません。すべての人、つまり創造主の側にいるから、誰かのためだけではないということです、今の普遍的宗教はそうですが、ヨーロッパとか南米はカトリックが多いですがヨーロッパのための宗教ではありません。誰にとっても恵みに与えられている人の中に与えられています。創造主の側にイエス様がいるからと思います。民族とか人種とか肌の色とかでイエス様を信じるということは区別されることはありえないということです。先ほどが捨てるならば、12節、今度は身につける。「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」新しい人としてこういうのを身につけていくように願っていきましょうということです。14節「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」特に愛を身につける。身に付けるという時は自分のものにする意味だと思います。「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。」愛と平和を生きるというか、それを身につけていくということが主の望みであるし、洗礼を受けるということはまさしくこういうことである。12節以下は美しいところで、結婚式でよく読むところです。ここを選ぶ人は多いです。結婚生活するということはこれを大切にするとも読める。新しい生き方もこのような形でするということです。いつも感謝していなさい。 だから信仰者の心構えですが、いつも感謝することと、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」御言葉に神様の言葉で養われるということが大事なことだということです。「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」祈りが大事です。祈りと詩編と賛歌を通して、神をほめたたえ祈りを心がけるということも新しい生き方の中心的なことだということです。「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、」なさい。 このあたりが洗礼を受ける人の心構えになるし、イエス様が神であるからこそこのような所を日々大事にしていたらと思います。わたしもここは大好きな所で、時々よく味わったりするところです。このようなこととしてイエス様は神様と同等の存在であるということの意味になるわけです。        コンスタンティノープル公会議が終わったあと、次に問題になったのは父なる神も神様だし、イエス様も神様だし、聖霊も神様だったら、唯一の神様なのに神様が三つなのかということで、そこからカッパドキアの三教父ではっきりした形式で三位一体ということが受け入れられる。それが解決です。三位一体ということで、ここでキリスト教の教えがはっきりしたと言えると思います。ペルソナで意味はパーソナリティです。人間だったら人格と書くんですけれども、神様は人ではないので人格が使えないから位各と書くんです。三つのペルソナ、父と子と聖霊で一体とは何かと言ったら本質が一つであるということです。三つのペルソナと一つの本質だということで、キリスト教的な教えはここで決まったということになります。これは一体何を言ってるかと言うわけですけれども、一つの説明で、三位一体の説明で色々ありますが、わたしなりにわかりやすく言いますと、 本質とペルソナの違いは何かと言ったら、普通の人の場合、人間の場合は本質というのは与えられるもの、そうなるもので変わらないです。ペルソナというのは与えられるものではなくて、人間の場合は育てるというか成長させなければならない。例えば結婚したら夫と妻になります。夫という本質は結婚した時に与えられ、妻は結婚した時に妻という本質を与えられるけれど、ペルソナと夫とか妻は結婚生活でだんだん養われていくようで、結婚したら結婚は成立するけれども、本当の夫婦の関わりというのは、お互い助け合ったり愛し合ったりしない限りパーソナリティは生まれないんです。人間のパーソナリティというのは育つもの、育てなければならないものということなんです。それが本質でペルソナの違いなんです。お医者さんになったら国家試験通ったら医者になれて、本質は得られるわけです。でも医者として患者さんを見たりお仕事をしないと、パーソナリティそのものは得られない。人間はそのようにできています。だから例えば神父様と同じで、叙階を受けたら神父になり本質として神父にはなるけれども、だからといって何もしなかったら。親でもそうですし子供を産んだら親になるけれども、養育を放棄したらペルソナ的には親ではないです。全部そうなんです。だから信者になることも同じで、洗礼を受けたら本質として信者なんですけれども、本質だけだったら意味はありません。永遠の信者だから本質だけど、その人が信者としてお祈りしたり互いに愛し合ったりしないと、ペルソナとしての信者にはならない。それは時間がかかるし育てなければならない。ペルソナと本質は全然違うんです。だから神様がなぜ三つのペルソナがあると言ったら、それは愛のダイナミズムがあるわけです。つまりパーソナリティというのは愛されたりすることでしか成長しないんです。親であるということも、妻であるということも、信者であるということも、神父であるということも、愛することによってパーソナリティが成長しなければ意味がない。お互い助け合ったりすることでしか成り立たない。キリスト教の一番の本質は何かというと、神は愛であるということです。でも神は愛であることを本質として捉えたら意味はないです。愛である以上、ペルソナ的なダイナミズムで互いに愛し合っているからこそ、本当の愛になるわけです。パーソナリティー的には愛せないけれども、本質だけ愛しても仕方がないということです。だから神が愛であるということを、キリスト教ほど神は愛であると強調している宗教はありません。それはパーソナリティ的に互いに愛し合うから。愛のダイナミズムが神の中にあるから、三位一体はキリスト教の最大の特徴になるということです。この説明はわたしが気に入った説明であります。つまり神様がパーソナリティーとして互いに愛し合っている。互いに愛し合っているそのダイナミズムとしてわたしたちは愛し合う。コロサイの3章12節以下美しい愛を身につけなさいとか平和を身につけなさいとか、神の中にダイナミズムはあります。ペルソナ同士がこのように愛し合っている。だからわたしたちもそれをしなさいという流れになるわけです。神様がされている世界です。憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容というものがペルソナ、神の中にあるわけです。だからわたしたちもそれができる、それをしなさいというふうにわたしたちの勧めにつながるわけです。これが三位一体の一番大事なところだと思います。神様を愛し合っている姿がわたしたちも愛し合うことに呼ばれるということです。    三位一体のエリザベートというカルメル会の聖人がいて、最近の人ですけれども、彼女はこの洞察なのです。三位一体の愛のダイナミズムが一人一人の心の中にありますということを、三位一体のエリザベートは言っていました。それは本当だと思います。わたしたちの一人一人の中に三位一体の愛のダイナミズムがあると思います。それを生きるように。洗礼を受けていなくてもそれはあるといいます。だから洗礼を受けることによって活性化する。活性化するのはどういうことかといったら、コロサイ人への手紙3章のような生き方が生まれてくるわけです。わたしたちの中にダイナミズムが含まれているからです。それは罪があるからそうじゃない現実があるのも事実です。それが基本なんです。ミサのお祈りというのは三位一体のダイナミズムがありますけども、ミサもそうなんです。ミサでお祈りする時は父なる神にお祈りしています。すべての意味がそれをイエス・キリストと共に捧げている父なる神です。聖霊の恵みがわたしたちに与えられています。聖変化、これがわたしの体であるという時には必ずエピクレシス、聖霊の働きを開いています。聖変化するのは聖霊の恵みだからです。全てがそのようになっていて、集会祈願で~になりますようにとイエス・キリストによって父なる神に願っているお祈りなんです。ということでどこにでも三位一体のダイナミズムはあるわけだし、わたしたちの生き方もあるように呼ばれているということが、一番大事なポイントだということです。この三位一体というのは一番分かりにくいんだけれども、これがあるのがキリスト教で、これがないのがキリスト教ではないです。だから三位一体があるかはキリスト教であるかないかの違いです。キリスト教は三位一体を認めることで、プロテスタント、東方教会、ギリシャ正教会、ロシア正教会、カトリック、とか初代教会で色々あって、全部キリスト教会です。三位一体が一番のポイントになるということで、それも頭の隅に置いておいてもらったらいいのではないかと思います。十字架のしるしはカトリックではどうするかと言ったら親指、人差し指、中指3本で十字を切ります。頭、胸、左肩、右肩、の順番できります。元々は祝福の印でした。神父様が何をかをやるため十字を切りました。それを神様のものにするという意味で、十字架のしるしをするんです。人に与えるものでした。だから今でも祝福をしてくださいというのは、十字を切って祝福します。それが祝福の基本です。入門式の時に十字の印をします。それは祝福と悪霊の追い出しも入っています。祝福するということは神様のものにして、コロサイ人への手紙では地上的なものを追っ払うつもりで十字のしるしをします。洗礼志願式のところでは分からなかったと思いますが、共同祈願の最後に唱えるところは、悪霊からの解放の祈りです。入門式も洗礼志願式も悪霊を追い出したり、解放する祈りがあって十字架のしるしというのは半分はそのためで、その意味も入っているんです。十字架ということは明らかですけれども、何かと言ったらイエス様の受難と復活の恵みを祝福するということです。あるいは思い起こすということが入ります。だから与えていたものがだんだん自分でもするようになりました。それは十字架と復活によるイエス様の恵みを思い起こすためです。一番ハッキリしているのは聖堂に入る時に聖水をつけて十字をする。あれはまさしく洗礼のお恵みを思い出す。お水と一緒に十字を切ると洗礼のお恵みを思い起こして、一番短い信仰告白になります。つまり使徒信条の極短縮版になります。それをするということはそういう意味があります。その動作を伴ってということで、それで途中から父と子と聖霊のみ名によって、父と子と聖霊の御名が入ったのです。それは三位一体的な祈りにしたわけです。ギリシャ正教会とロシア正教会は右肩からで逆です。そういうものとしてやっているということです。ミサの最初は信仰告白から始まるので、父と子と聖霊の御名から入ります。一番後ろで神父様が祝福する時は、皆さんは十字を切らなくていい。切ってはいますけれど未信者の方はやってもやらなくてもいいです。信仰告白だから、プロテスタントの方はしなくていいということです。カトリックの洗礼を受けている方はした方がいいということです。そしてお祈りの前と後は、カトリックの習慣です。父と子と聖霊の御名によって、最後にお祈りをする。何かといったら祈りを三位一体にする。真ん中にどんなお祈りがあろうとも、どんな子供の稚拙なお祈りがあろうとも少々間違った言葉が入っていようとも、最初と最後に必ず十字を切って、三位一体の祈りをするということは、三位一体の祈りとして捧げるという意味があって、最初と最後にだいたいするのがカトリックの習慣です。カトリックは三位一体の祈りでしめるというのが習慣です。そのような意味合いで十字の印を切っているということです。三位一体の十字のしるしのお話をしました十
 

 

2017年 3 月 6 日(月)
 第 28回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記