カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-05-30 入門講座 7 神の国Ⅱ

英神父入門講座7神の国Ⅱ

 今日は神の国に生きていくとはどういうものかということをお話ししたいと思います。マタイの福音書5章1節マタイの5章から6章7章というのは山上の説教というところで、冒頭部分を見たいと思います。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。

『心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。』」山上の説教は有名なお話で、「イエス様はこの群衆を見て」群衆というのは4章の終りにあるように多くの病人、罪人、貧しい人など助けを求めた人がイエス様の元に集まったのだと思います。その人々と共に山に登られた。山に登った理由は、街の中では集まる所がなかったので、仕方なしに山に登ったのではなかろうかと思われます。山とは小高い丘ぐらいです。普通の人が登りで10分か15分ぐらいで、弟子たちが近くに寄ってきて弟子や群衆と共にイエス様のお話を聞いたということです。5,6,7章で全部話されたのか。多分マタイが編集して書いたのではないかといわれてます。冒頭が八つのまことの幸いというお話なんです。昔の訳だと真福八端というんです。八つの幸せな人について語っているわけです。一番初めの「心の貧しい人は幸いである」原文的には霊における貧しさです。日本の訳は心の貧しい人で定着しているのですが、普通の日本語では心の貧しい人は、不幸せに分類されると思います。心の豊かな人が幸せで、物質的に貧しくても、心が豊かであれば幸せだと、日本人の普通の考えです。心の貧しい人が幸せだといっているわけで、冒頭から分からない。たとえ話で響き合っているんですけれども、幸いはこの世の幸いと違うと思います。幸いの訳は祝福されているとも訳されます。心の貧しさには解釈があるんです。有名な箇所だけれどもよく分からないところがあって、いろんな解釈があるんです。釜ヶ崎の本田神父様は聖書を訳されて、ここを「心底貧しい人」と訳されている。ケセン語で聖書を訳されている山浦さんは、趣味で聖書を訳していてここを「心細い人」と訳している。似たようなものです。貧しい人は何かといったら4章の終りで書いてある群衆の話です。病人とか罪人とか貧しい人とか、苦しんでいて悩みを抱えていて心細かったり、あるいは心底貧しい人のことだと思います。幸いであるとは、哲学の文言で幸いと言っているわけではなくて、わたしの訳は「大丈夫だ」と励ましているわけですね。心が貧しくて悩みを抱えていたり苦しんでいる人に、イエス様が大丈夫だと言っているのが幸いであると。本田神父様はもうちょっと固い文面で、神様から力があると訳しています。だから大丈夫だという励ましの言葉です。心が貧しくて苦しみの中にある人に、わたしがいるから大丈夫ですよ、とイエス様が励ましているような、神の国はそういう人のためにある。世界の中で神の恵みを生きていく。その恵みの領域、広がりというか。神の国に招かれているのは、罪人とか貧しい人とか弱い人とか、ぶどう園で一時間しか労働できないような、弱い立場に立っている人が、神の国に招かれている。だから傷ついて苦しんでいる、群衆に向かって慰めの言葉を言っている。苦しんでいるあなたがたこそ、神の国に入れるから大丈夫ですよ。神様の恵みが注がれているから、大丈夫だという励ましの言葉を慰めの言葉を。神の国は、自分の心が貧しかったり心細かったりする人が招かれているんです。イエス様の呼びかけに応えて神の国を受け入れましょうということです。

アルコール依存を持っている方は、依存症立ち直りの「12ステップ」というプログラムで、回復を目指すことが多いです。アルコール依存症から始まった。日本で広めたのはカトリック神父様が、ご自身がアルコール依存症で、自分がやりながら周りの人に伝えた。いろいろな依存症にも当てはまりますが、その12ステップの最初は、自分の力でどうすることも出来ないことを認める、というのが第一ステップです。ハイアーパワーで、神様の力に委ねるのが第一ステップなんです。心の貧しさを認めて、神様に助けを求める。あるいは委ねるところから、神の国が始まるといえると思います。アルコール依存症、酒が止められない人は、明日から酒を止められるという自信があって、今日飲んでいる人。いつでも自分は止められると思って、余裕を持って酒を飲んでいる人は絶対止められない。止められないと降参した人しか止められない。自分で出来ないと思ったところから始まる。なかなか諦めがつかない。よく言われるのが底打ち体験といって、本当に駄目な体験をして、始めて止められないと認めることが多い。ギャンブルで借金している人が、家族が助けたら、何とかなってしまって全然立ち直れない。逆に家族の穴埋めや手助けが、依存症を助長させるだけです。全く援助もなくて、だめになったところから、立ち直らなければならないというところから、心の貧しい人は幸いだとするところからスタートするんです。だからここに罪人や貧しい人や今の話の依存症の人も集まって、イエス様に助けられるというものが始まるわけです。

二番目もおかしいですね。悲しむ人は幸いである。普通は喜んでいる人が幸いであって、悲しんでいる人が不幸だと、当たり前のことですが、これは神の国に入る話ですから、ひっくり返っているんです。この世的に喜ぶというのではないわけですから、悲しみは何かというと、一つは自分の罪の痛みを嘆く悲しみです。あるいは神様の前で泣くことが出来る悲しみです。自分の心の貧しさを認めて、神様に助けてくださいと言った人が、神の前で嘆くことが出来る。ルカ7章の罪の女の人では、家に勝手に入ってきて、食事中のイエス様の足を涙で濡らした。あのような悲しみ方をイエス様が受け取ってくださるわけですから、そういう人々を神様が慰めてくださる。

神の前で悲しまなければならない。自分一人で悲しんでいても解決にはならない。過去の失敗したこととか自分を責め続けることではない。神の前で悲しみ泣くとかが救いに繋がるものだと思います。神様なしに嘆いても、出口がないかもしれない。それと反対に一番絶望的と思うのは、悲しみがない人です。自分が悪いと思えない人。悲しめるということはすでに恵みが働いているということです。依存症に捕らわれている人は、まず悲しむことがないと思います。お酒を飲むことに必死で、仕事や家庭を抑えてでも、お酒を飲むためにあらゆることをするから、悲劇だと思います。AAAの12ステップのプログラムで、自分の過去を思い出して、悪いことをしたと思えるようになるのは恵みです。良心が正常に機能して、悪かったなとか人を傷つけたとか、思えることがお恵みです。悲しむことはお恵みと思います。特に自分の罪とか自分が犯したことについて。本当の悲劇は良心が麻痺している人が可哀想な存在だと思います。悲しめるというのは実はお恵みである。その悲しみを神様に持っていった時に、癒しのお恵みを受けたり、赦しのお恵みを受けたり、そして慰められるというのが成り立つんだと思います。

三番目「柔和な人々は、幸いである」これも意見があるんですけれども、「その人たちは地を受け継ぐ」地を受け継ぐの意味はユダヤ人がエルサレムに戻るという意味なんです。先祖伝来の土地を自分が受け継ぐことが出来るみたいな意味です。地に足がつくと訳している。苦しんでいる人や悩んでいる人は放浪して落ち着き場所がないんです。居場所がないんです。地を受け着くどころか地を放浪しているだけ。特に病気の人とか苦しんでいる人は、落ち着きどころがないからふらふら、あちらこちら自分の居場所がないわけです。でも本当の意味で神様から慰めを得れたら、心が柔和になって、自分自身を受け入れるようになって、柔和であるというのはありのままの自分を受け入れることによって、自分の居場所を見つけることが出来る。地を受け継ぐことが出来て、落ち着き場所があるというのは、大いなるお恵みだと思います。多くの人は居場所がなかったり寂しかったりするけれど、地を受け継ぐことが出来るのもお恵みです。地を受け継いで生活の安定や心の安定したら、どういう気持ちが湧いてくるかというと、人によりますが、義に飢え渇く。義を簡単にいったら神様の御旨といえるし、自分にとって本当に正しいと思えることといってもいいかもしれない。何か善いものに飢え渇くようになることがお恵みだと思います。ホームレスの人と付き合っていて、その方たちが何に飢え渇くといったら、今日の食べものなんです。今日を生きるので必死だから、過去も未来もないんです。今日を一生懸命生きているだけ。その日暮らしで放浪になってしまう、落ち着き処がないんですけれど、生活保護をとって、衣食住が安定したら、始めて自分の過去を振り返ることが出来る。未来のことを考えることが出来る。人によっては生きがいとか、人生で何を求めるかということで、本当に大切なものに飢え渇くことが出来るということです。義に飢え渇くより、食べものに飢え渇いていたら、それだけで精一杯ですから。あるいは他のことで飢え渇いていたら。でもある程度の生活と気持ちが落ち着いたら、義というか、本当に自分を活かすようなことを求める。ホームレスの人のグループは二つに分かれてますけれども、衣食住があればそれでいい人もいるけれど、ある人はそれだけでは満足できないから、何かしたいとか、生きがいを求めたいとか、だから義に飢え渇く人はいうんです。そういう人は生活の質を高めたいとか、何か生まれてくると考えられます。それを求めていくならば、満たされることはあると思います。ただ聖書の中の義という言葉ですが、これが何を意味しているのか。わたしも相当考えて、正義の義といってもピンとこない。普通のユダヤ人の考えは、正義と律法を守るというのが基本で、日本人だったら法律を守って生きる。それが正義に適っている生き方、ということになるでしょうけれども、新訳のイエス様はそうではない。単に律法を守るということを超えた話をしているんです。義というのは単に法律ではない何かと言ったら、7節の憐れみ深く生きる、ということにしかならない。聖書の訳で本田神父様の聖書の訳と、山浦さんのケセン語の聖書の訳ところの二つが、割とわたしはインスピレーションを受けるというか、それなりに考えていて、本田神父様はこの義を何と訳しているかといったら、それは完全に貧しい人の側に立っている。住んでいるのも釜ヶ崎に住んでいて、完全に労働者と共に生きているので、貧しい人の側に立っているから、義の訳は「解放」なんです。貧しい人が解放されることが義であると訳されている。貧しい人や苦しい人が解放されるのが解放である。解放を待ち望んでいる人は幸いであるということになる。山浦さんはわたしと意見が似ていて、助ける側から考えたら、これは施しなんです。貧しい人を助けたりすることが義であるということになる。だから施しになるんです。施しに飢え渇く人は幸いであるというのが山浦さんの訳。義であるのが何であるかというのも、あるいは自分にとって正しいのは何であるかというのも、考えられたらいいと思います。わたしの結論は、義というのは憐れみ深く生きるということである。不正義とは何なのか。正義の反対ははっきりしていて、貧しい人が虐げられているということです。なぜかといったら、お金持ちは不正をして貧しい人を痛めつけたりして、私腹を肥やすことができる。でも貧しい人は不正義が出来ない。つまり不正義の犠牲になってしまう。だから貧しい人を圧迫したりするから、神様は怒って、王様に正しいことをやっていないじゃないかと注意されるわけです。だから義とは何かといったら、不正義をひっくり返したら、貧しい人や苦しんでいる人に、心を向ける憐れみ深さである。本当に神様の義を追及する人は、憐れみ深く生きていくように、呼ばれるということです。神の正しさということを、単に法律と考えたら大して意味がないわけで、神の憐れみというのは、周りで困っている人を助けるということに繋がると思います。だから憐れみ深く生きるように、わたしたちは降りかけられているということです。憐れみ深く貧しい人たちのために働いたとしても、成果が上がらないことが多いんです。だから神様は幸いだと。大丈夫だから頑張りなさいと、励ましているんです。憐れみ深くやるのは大変かもしれないけれども、そのような気持ちでこれからも続けたらいいと、イエス様が慰め励ましていると、いつかあなたたちも憐れみを受けるからと。神様の法則だと思うんです。憐れみ深い人が憐れみを受けるから、そうだと思います。色んな人を見ていますけれども、割と批判的な人は、人から批判されています。自分がやったことは自分に返ってくる。この世的に考えても。憐れみ深い人は憐れみが来るし、短期的にはそれが分からないけれども、人間的に長期的に見たら、人の評判て当たっているんです。悪いことをしている人は悪いことが返ってくるし、良いことをしている人は、やっぱり長期的にみて、人間的レベルから見ても返ってくるような感じはします。もっとわたしたちは世の終わりとか、死んで向かう世界とか、そういうことまで考えたら、報いがあろうがなかろうが、憐れみ深く生きるということの大切さが、あるのではないかと思います。憐れみ深さで生きていると、わたしたちに必要なのは心の清さです。清いか清くないかは、日本人はこだわるところなんですが、汚れたものに触れないで、清くしようと人間の中にありますけれども、それにこだわり過ぎると、ケチケチして心が濁ってしまう。本当の心の清さとはどこから来るのか。本当の愛を生きていくしかないのではないかと思います。自分に捕われない愛を生きていこうとする時に、この清さが試されるというか、与えられるというか。「 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」そのような恵みが与えられるという。ここで思い出すのは神を見る、心の清さと、憐れみ深さを思い出すのがマザーテレサです。今から40年くらい前だと思います。マザーが若くして、活躍していたけれど、それほど有名でない頃と思いますけれども、アジアで宗教者会議があったんです。各宗教の代表者が集まって、会議で色んな話をして、最後に決議文で宣言文を出す予定だった。最終日の一番最後のマザー・テレサが、ゲストスピーカーで呼ばれて、15分くらいの話しをした。有名なお話で「わたしは昨日、二回聖体拝領をしました。朝ミサでご聖体をいただき、その後、道に出て、倒れている死にそうな人を、自分の死を待つ人の家に連れていき、体を洗ってきれいにしてあげて、その人が亡くなる前に『ありがとう』と言われ看取りをしました。その『ありがとう』が凄く美しくて、わたしはその時に二回目の聖体拝領を受けました。そこでイエス様を見て、イエス様をいただきました。」とマザー・テレサが言った。神をみるという、マザー・テレサが苦しんでいる人を助けるからこそ、その人の中に神様をみえるんです。その話をマザー・テレサが宗教会議でしたら、静まりかえり、ようやく司会者が口を開いて、「今のマザーのお話の中に、わたしたちの宗教の大切なポイントが全てあります。だからもう決議文を出すのは止めましょう。」と言って会議が終わった。カトリックの聖体拝領について、説明しなければならなかったでしょうが、マザー・テレサは心の清さによって愛を生きていた。神の恵みの実感として聞いていた。わたしたちはそのようなものに呼ばれているというのも事実だと思います。そのような人が9節、平和を実現することが出来るんだと思います。なかなか平和を実現するのは難しいと思います。まずは自分の心の中の平和です。それは分裂しているし、平和運動しているほど分裂しやすいという。平和が実現するのに必要なのは、憐れみ深さと心の清さです。心の清さがないと絶対平和が来ないし、自分の心ですらなかなか平和を持てないし、そういう人々こそ呼ばれる。神の恵みの中で生きている人だということになるわけです。

八つ目10節「義のために迫害される人々は、幸いである」これも意味が分からない。これは励ましと考えられない。ここでいう義というのは、憐れみ深さと心の清さと、平和を実現するというのが合わさっていると思います。そういう人々はなぜか人々から称賛されるよりも迫害されることが多い。マザー・テレサですら死を待つ人の家を作った時は、周りの人からすごく石を投げられたんです。ヒンズー教の閉鎖寺院を使って。そうすると周りのヒンドゥー教の人々が、キリスト教が変なことを始めたと、大変な目にあった。別にキリスト教が自己宣伝や改宗させるためではないと分かってきたので、多くの人に受け入れられるようになった。義のために、神様に適うことをやって、かえって批判されることはよくある。なぜならこの世は悪の力がはびこっているからです。いい事だから批判されることもよくあることだと思います。だからここでいう、義のために迫害される人は幸いであるという幸いというのは、イエス様の大丈夫だ、という励ましとして考えるしかないということです。迫害されてがっかりするかもしれないから、大丈夫だから上手くやりなさいと、イエス様が励ましているわけです。あなたたちの行いこそ、神の国の恵みが働いているから、それを信じて続けて、神様のために御心にかなうことを、がっかりしないで続けなさいと励ましているわけです。11節「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」普通で考えたら不可能である、大いに喜びなさいなどあり得ないです。だからここはイエス様が励ましているものとして受け取って、そんなにがっかりしなくていい事だから、喜べなくても淡々とした気持ちで受けとめていけばいいと。この喜びは神の国の喜びが与えられているからです。神様の国の喜びが与えられているんだから、喜ぶことができるぐらいのものなんだという事を、イエス様が励ましておられるわけです。神の国に招かれて神の国に生きるとは少しづつだと言えます。みなさんが八つの幸いのどれに今、自分が当てはまるのか。どのようにイエス様が大丈夫だとおっしゃっているか。人によって違うでしょうけれど。そういうものとして神様が、今の自分を励ましているものとして受け取ったらいいのではないかと思います。12ステップもなかなか最後まで行かないですけれども、でもわたしたちはこのような幸いに招かれていて、生きる恵みも与えられている。そのような恵みが与えられているからこそ、マタイ5:13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」このような八つの幸いを生きている人が、地の塩であるといっています。地の塩になれと言っているのではなくて地の塩である。あるいはあなたがたは、世の光であるといっているわけです。それは八つの幸いを生きているあなたがたは地の塩だと。あるいは世の光だと、イエス様の励ましだと思えます。塩というのは貴重なものであり、地に塩があるからこそ、清めに使ったり、食べ物の保存に使ったり、味付けに使う。八つの幸いという中で、わたしたちの存在が、社会の中の何らかの清めに繋がるようになる。あるいはこの世の中にはいいものを保存するために、あるいはこの単調な世界の中に、味付けをするような存在として生きるようになると、イエス様は励ましているし、助けを与えていると言っておられる。世の光であるというわけで、光であるとはイメージしやすい。光は照らしたり温めたりするようなものになる。この世は闇の力が強くなっている。闇の力も強いわけだから、善意の人、キリストを信じる人々が光となって、周りを照らしていくような生き方に呼ばれていると思います。仏教用語で一隅を照らすです。一隅を照らすように一人一人が呼ばれているという仏教の言葉で、そのまま重なると思います。小さな暗闇のところを照らすようにという。小さな照らしでいいと思います。「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。」キリスト教の生き方はあんまり引っ込み思案ではないほうがいい。目立つわけではないけれど、愛するというのは積極的な気持ちが必要。あまり隠してばかりでなく、どこか照らすようなつもりは必要ではないか。ただ灯火とか使わないし、今の社会は照明を照らし過ぎている。心の中には暗闇が広がるように思います。神の国で照らすから、神の恵みで照らす、自分の力で照らすのは出来ないから、神の恵みで照らすようなつもりで、わたしたちが生きれるように心がけるということです。苦しんでいるところに光を灯すような、そういうつもりで生きていくような。本当に輝くのは暗い時に輝きますね。暗い時ににこそ光が輝いて、明るい時には分からない。闇の世界になればなるほどピカピカ輝くという感じです。困難とか苦しい時になればなるほど光の価値が分かる。日常生活でそれほど輝くことはないかもしれない。ある時はピカピカ輝く必要があると思います。これが神の国に生きていく最初の入り口みたいなのを、山上の説教を最初に描いて、その後から神の国はどう生きたらいいかという細かいことが書いてある。神の恵みの中でどれだけ生きるのか。人間的に考えたら出来ないことがいっぱいあります。そのように考えるよりも、恵みの世界でどのように生きるのか。神の国で出来る視点が違う。神の国で生きる生き方を示しているのだから、そのような方向性をわたしたちが生きるようにということで、イエス様は励ますつもりで書かれている。出来ないということを悟らせるために、落ち込ませるために書いているわけではない。落ち込ませるために書いているんだという学者もいて、わたしたちは罪人であることを意識するためにと言っていますが。そういう恵みの世界に招かれている、と考えたらいいのではと思います。同じようなテキストでマタイ18章1節「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った。 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。』」弟子たちが一つのイエス様のところに来て、一体誰が神の国で一番偉いのか問いた。イエス様は子供を呼び寄せて「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」神の国に入るということですが、子供のようになるというのが条件になる。いかに子供から大人になるかという教育を受けているわけで、判断とか礼儀作法とか常識とか大人になるように、社会に出られるようにならなければならない。あの人は子供のような人だというのは悪い意味で言われる。でも神の国に入られないと言っているのだから、別の言葉で言うと聖性の理想というか、どういうふうになりたいかという理想の問題も入ってきて、神父様やシスターと話してもそうだし、信徒さんと話してもそうだけど、結局みんな立派な人間になりたいわけです。祈りも深くて、親切で教養もあってリーダーシップもあって、働きもので、全てが出来るようになりたいという気持ちがあって、誰も子供のようになりたいと思っている人はいないです。なるべく立派な人になろうとしている。でも神の国に入るなら、子供のようにならなければならない。教会に来るのは、立派な人にならなければならないのではなく、神の国に入るのが目的のような、神の国に入るには子供のようになるということを考えなければならない。子供のようにということは、心の貧しいものとか、前回の話でいえば、一時間しか働けなくても、一デナリオンもらえるような、自分が謙遜だとか貧しさを認めるとか、そういうような生き方を察しているし、自分の惨めさを認めるようなことも入ってくる。そして自分だけでは生きられないので、神に頼るように親や子に頼る。そういうものが求められているように思います。これだけ高齢化社会になってきて、周りの神父様とか見ても、やはり人間死ぬまでに子供のようにならなければならない。若い頃に出来たことが歳とって出来ない。どんどん人の世話にならなければならないわけで、やはり人間というのは子供のようにならないと、神の国に入れない。素直な子供になるというのは、老後を過ごすために大事なことかもしれない。神の国に入るために、子供のようになるように呼びかけられている。何でもできる立派な人ではないからこそ、気づくことができるし、神様のお恵みに、神様に出会えるところがあるのではないかと思います十

 

2016 年 5 月 30 日(月)
 第 七 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記