カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-06-06 入門講座 8 悪

英神父 入門講座 8 悪

 前回は神の国のお話で、神の国を生きるとかの反対というか、現実は上手くいっていないことが多い。なぜかといえば世界には悪の力というか、人間の罪というか、そういうものがあるわけです。もっと根源的にはサタンの力ということも働いているということです。マタイによる福音書4章1節「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 すると、誘惑する者が来て、イエスにいった。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』 イエスはお答えになった。『「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つのい葉で生きる」と書いてある。』 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 いった。『神の子なら、飛び降りたらどうだ。「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」と書いてある。』 イエスは、『「あなたの神である主を試してはならない」とも書いてある』といわれた。 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』といった。 すると、イエスはいわれた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。』そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」マタイの初期の頃のお話です。このあと4章12節から、ガリラヤで活動を始めるわけです。いま読んだものは活動を始める前のことなんです。大人のイエス様が活動を始める前にしたことは二つです。一つは前に書いてある洗礼を受けるです。これは第一回目の講義でお話したとおり、神の愛と聖霊をイエス様が受けて、メシアとしての使命を自覚して歩む一歩だった。もう一つは悪魔に打ち勝つということが活動する前に必要だったわけです。マタイ4:12「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」霊に導かれて、これは悪いものではなくて聖霊のことなんです。神様に導かれてわざと荒野に行かれた。しなければならないことをイエス様はされた。荒野はユダの荒野といって砂漠のイメージですが、山岳地帯でゴツゴツの山の岩山みたいなところなんです。そこにイエス様が四十日いたということですが、四十日という数字は、神様を表わす数字なんです。神様の時間帯。旧約でノアの洪水が四十日間続いたとか、四十日というのは、神様が決めた特別な期間という意味合いが強い。そこで四十日間過ごしたというんですが、今の人は四十日間も野宿ができないと思います。昼間は日照りで暑く、夜は凍えるくらい寒い中、四十日間断食された。その後に「誘惑する者が来て」これが一行目に書いてある悪魔とかサタンとか、いろいろ呼ばれるものです。イエス様の時代は悪霊が存在することが確かで、カトリック教会の正式な教えで、悪魔が存在しないとは書いていない。目には見えない実体的な存在として認められている。カトリック教会は公式に悪魔の存在を否定していないから、どう受け取るかは自由です。そのような悪の力がある。目に見えないけれど、そのようなものがあるということです。イエス様は悪霊に打ち勝つ必要性があった。悪魔の第一の役割は3節、人間を悪の方へ「誘惑する」ことです。聖霊の方は神様の方に促される。そこでイエス様は三つの誘惑を受けられる。一つ目は誘惑する者が現れて「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」四十日間も断食していてお腹が減っているわけですから。しかも荒野というのは、岩がゴロゴロしてこれがパンになったら美味しそうだなと思う。それに対してイエス様は、はっきりと御言葉で旧約聖書の言葉ですが「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つのい葉で生きる』と書いてある。」といって悪魔を退けるわけです。こういうところは寓話的に書いてあるので、意味するところはいろいろ解釈がありますが、簡単にいうと人間の対する物質に対する欲望です。物質も必要ですけれども、物質に捕らわれて、違う方に行ってしまうと、神様からずれてしまうのはよくあると思います。物に捕われて、様々な形で物とか食べ物とか、原始的な欲望に捕らわれるということはあるわけで、そういう欲をイエス様はパンだけで生きるのではなくて、神の言葉によって生きているとハッキリと宣言して、悪魔を退けたというところが大切だと思います。これは神の子ならと聞いているわけですけれども、前に話したイエス様の洗礼で、何を一番イエス様は感じたかというと、神の愛に満たされる。神の恵みの中に生きるという素晴らしさを悟ったわけです。サタンの働きは、神様の働きと全く正反対。人間の心の中に神の愛が無ければ、寂しかったり空虚感が心の中に生まれてくるわけで、それを埋める方法は、物で埋める。あるいは感覚的な喜びで埋めるというのは、人間の極自然のものです。本当の人間の喜び、神様からの幸いのような幸せ感といったらあまりない。アルコール依存の人にいわせると、一杯目のビールが美味しいだけ。二杯目からは全然美味しくないけれど飲んでしまう。穴埋めしているだけの感じでしょう。最初だけで、あとは幸せ感もないのでしょう。買い物依存症の人は、買う瞬間が嬉しい。でも買ったブランド品のほとんどは着ないそうです。買った時だけで、本当の喜びはない。神の口から出る言葉。人間の心を満たすものは別にあるということですから、誘惑するものはまさしく人間の喜びを奪いとってしまうといえるかもしれないです。

二番目の誘惑はどういうものかというと「悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き」これはエルサレムです。「神殿の屋根の端に立たせ」た。当時の神殿は考えられないくらい大きいんです。そこから飛び降りろという。「『天使たちは手であなたを支える』と書いてある」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』」と言って退けるわけです。二番目の誘惑については様々な意見がありますけれど、個人的には人間は科学の力を過信する。つまり自然の流れに反するものが、人間の幸せになるかどうかは、たとえば原発や核兵器は人間の科学の力で、人間を破壊する力を持っている、そのような誘惑があるというのは確かだろうと思います。小さくいえば遺伝子操作で、バイオ生殖細胞を使うのは、カトリックはすごく反対しています。あるいは延命治療の問題とか、そういう自然の法則に逆らって、科学の力を使って、人間の思い通りにしようとする。線引きは難しいですけれど、そこに悪魔的な力が働いているようにも感じるわけです。科学の力によって人間が破壊に向かっているという面も、否定できないということです。もう一つは二番目についていうならば、飛び降りたらどうなるのかというと、神殿の境内はいつもたくさん人がいたので、そこで飛び降りて宙に浮いたりしたら、パフォーマンスになってしまう。人からの評判とかを集める誘惑であるといえます。世間の注目を集めたい人もいるかもしれないけれど、人の目、人の評判、評価、受け入れられるかとか、そういうことにこだわると、結局自分を見失ってしまう。神様の愛が心の中にあったら、周りの人を気にする必要は本当はないんです。心に寂しさがあったり、周りの人にどう思われているか、そういうところに気持ちがいくと、生き方がぶれてしまう、ずれてしまうというのは、わたしたちに多いと思います。特に日本人はみんながどうやっているかということで、自分を規定しているところが強いんです。自分は自分、というのがあまり強い文化ではないから、周りがどうかという価値判断をしてしまうと振り回されてしまう。プロテスタントの作家の三浦綾子さんの昔のエッセイで、自分で判断できない人の話で、入院中の事を書いていて、ある入院患者は、周りの人が何を着ているか見て、自分の着るものを決めるという。自分が暑いか寒いかではなくて、周りの人が半袖だから着る。いつもその判断を周りの人を見てから決める人がいたという。案外わたしたちは周りの人の反応に振り回されている。もちろんわがままになって良いとはいわないけれど、ある程度合わせなければならない時もあるけれども、それを一番に置くと、わたしたちの生き方は相当ずれてしまうと思います。特にクリスチャンの生き方は周りと同じでいいということはない。

三番目が「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き」これがどこかは分かりません。「世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』といった。」ルカの福音書ではハッキリと「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。」全部支配下であるように書いてある。マタイはそこまで書いていないですが。この世の権力は神の国とずれていると思います。イエス様はサタンを退けて、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』」神様を中心に置かなければならないわけで、サタンを拝むといったら、自分の欲望、傲慢、支配欲を発揮したいという、人間を神様にするとそういうことになると思います。そうすると恐ろしい事になると思います。この世とはいわず、自分の範囲、仕事や家族の中では自分の思い通りにしたいと思いがちです。神に委ねるのではなくて、自分で操りたい。問題解決を自分でこうしたいとか。それも人間の傲慢に繋がっていく。この三つの誘惑をイエス様が退けたということです。それがわたしたちにとっては福音であるということだと思います。二つの点があると思いますけれど、悪の力の根源はだいたい隠れています。目に見えない。悪霊は目に見えないところで一番力を発揮する。分からないところで、一番力を発揮できる存在である。大事なのはイエス様の前に悪霊が現れてきたというところで悪霊の負けなんです。正体を現わした段階で負けなんです。隠れていないと力が働かない。これが一つのポイントで、わたしたちの生活では悪霊は見えないですけれども、自分が何に振り回されているか根源的に分からない間は、ずっと振り回されている。何に振り回されているかに気づけば、振り回されないように対策することができる。でも何に振り回されているか分からないうちは、振り回されているままで、それから逃れられない。だから悪魔の顔を見ることが大事。そこに働いているものは何なのか気づくことが大事だと思います。悪魔がいるって分かったら半分勝利なんです。

二番目のポイントはわたしたちは分かっているけれど、分かっていても誘惑するものにいっちゃうところがある。それをイエス様は悪霊と戦ってすらないんです。御言葉で追い払っているだけで、格が違うというか、最初から余裕で勝っている。わたしたちは人間だから余裕がなく、仕方ないですけれども、でもイエス様がスパっとやっているところが恵みと思います。それにどう気づくかということです。だから誘惑だと思ったら、イエス様みたいに止めておこうとできることもある。イエス様がすでに勝っているからなんです。まずいなと思ったら勇気を持って退けて、神様とイエス様の方にしっかり歩む。だから活動する前にイエス様が知っておかなければならなかったことなんです。悪に勝っているということなんです。この後に悪霊を追い出したりするんですけれど、ここで勝っているから負けないんです。少々の悪魔つきが来ても、言葉で全部追い出すだけの力がイエス様にはあるということなんです。イエス様は全部勝つわけだから、そのイエス様に従っていくことができることと、イエス様を通して神様の愛がわたしたちに与えられているので、振り回される必要性はないです。神の恵みで足りているわけですから。変なところで誘惑されても、心がそんなにもぶれないような、わたしたちの生き方の一番大事なところの一つだと思います。わたしたちは神の愛を受けて、神様に従っていくんですけれど、悪を退ける、場合によっては悪と戦っていく、罪を退ける、その生き方をしっかり選んでいくことは、わたしたちにとって大事なものだと思います。

マタイ7:15「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」この偽預言者と書いてある。これは人間のことをいっているんですけれど、悪の存在というか似たような感じで来る。「羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。」赤ずきんちゃんに出てくるおばあさんの恰好をした狼みたいな感じで。一見サタンではないように見えるものの中に悪いものも働いている。何にでも変装するということだから、神様も見えないから神様も色んなものに変装したりできる。見分けるというのは識別するということです。これが神様の導きなのか、ここに悪霊が働いているのか、見分けたり識別する必要性がこの世の中ではいっぱいある。それは家庭でもあるし、職場でもそうでしょうし、これが絶対いいとも限らないわけです。たとえばイグナチオ・ロヨラは、夜に長時間祈るシスターに、神をたくさん感じるからと言って、夜中に長時間祈れば、翌日体調を崩すし健康を害するのだから、それはサタンの誘惑だから夜は長く祈らないように、と手紙に書いた。羊の皮を着ているとは、そんな感じでくることもある。お祈りするとは良いことで、しかもお恵みを感じていて、いいことだから手紙では、特に夜はそうなり易い。イグナチオもそういう経験があるんでしょう。夜になったら恵みを感じて、さて寝ようと思う時に光に照らされて、何時間も祈ってしまうようなことがある。イグナチオ自身が自分の経験で、これはサタンの働きだと、自分の健康を害してしまうことになるから、長く祈らない方がいい。イグナチオ自身がそうしているし、そのシスターにもすすめているんです。ちゃんと健康を大事にしなさい。そのようなことは良くないという。「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」「このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」そこからどういう実りがあるからで、それを見極めなさいといわれる。だから長い祈りを徹夜して、健康を害さなければそれでよいと思いますが、それで翌日仕事が出来ないとか、昼間に居眠りするとかしたら、それは悪い実を結んでいることになります。それは悪霊の働きです。いいことだからといって、手放しに喜ぶのも危ないということです。開く霊は見えないから、だからわたしたちは実際にやってみてそれはどういうことかと確かめて、そこに問題があるかとか。 もちろん祈るのはいいけれど、あまり祈りすぎて、バランスを崩すことはよくないし、全然祈らないのはいいとも言えません。その辺りはわたしたちの日常の中で、いろんな形で出てくることですから、注意とになります。 この辺りが識別をして見極めていくということが、今は複雑な時代だと思います。だからよくしっかり意識した方がいいのではないかと思います。意識するところの一つのポイントはどこかと言うと、マタイ15:1「 そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。 「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」 そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。 神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。 それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、 父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。 偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。 『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』」 それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。 口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」 そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。 イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」 するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。 すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。 しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。 悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。 これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」イエス様と敵対者、敵対者が誰かといったら、ファリサイ派と律法学者たちです。基本的には真面目で、ユダヤ人達にとって律法は大事なので、それを守っていくということなので、良い信者なんですけれども、それが逆に行き過ぎたり、あるいは形骸化しているような事が同時にもあったんだろうと思われます。今だにファリサイ派もいるし、律法学者もいるわけですけれども、厳密に守ることをイエス様はされなかった。例えば食事の前に手を洗うかとか。ファリサイ派や律法学者を一番怒らせたのは安息日に病人を癒した。今でも正統派のユダヤ人が行くレストランにの入り口には、蛇口があって手を洗うようにできている。綺麗に手を洗わなければ食事ができない。元々は衛生面のことでしょうけれども宗教的なことです。 でもあまりこだわりすぎるとずれてくる。イエス様が例にとるのは父母を敬えです。これは十戒の掟の四番目です。第四が父母を敬えです。絶対的な理由ですけれども、ファリサイ派や律法学者をたちは抜け道を作るわけです。法律を解釈するわけです。解釈してその時代の適用を考えます。未だに適用を考えます。適用を考えないとどうしていいかわからないことがあるので、それで彼らが考えた適用の一つは、困る時には父と母に向かって、これは神様へのお供え物にする。コルバンにするといったら、お父さんお母さんの義務から逃れられるという仕組みを後から適用を考えました。律法学者は適用を守ったと言いながら、色々な抜け道を後から作っているではないかと、そういうことに対してイエス様は怒られた。 イエス様はおっしゃいます。何を汚すのかと言ったら、 「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。 悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。」一番みなければならない汚れるとか汚れないとか、そういうことは心の中の問題だということです。 一番大事なのは心の在り方はどうなのか。左端に誘惑されるのは自分の心ですから、自分の思いとか、それをわたしたちは清めていく。神のみ旨にかなうような生き方に保つということは必要だと思います。 外面的に綺麗汚いよりも、もっと大事なのは、心を清めているかどうかの方が100倍ぐらい大事でしょう。家が綺麗であっても心の中が憎しみで占められていたら、イエス様は喜ばれないですから。 何を綺麗にして何を片付けるかというのは、わたしたちの心の中でことです。そこに悪の働きがあるし、悪の根っこがあります。 表だけを見て何を食べようとか手を洗ったかに話を持って行っても、本当のことは分からないと思います。だからイエス様の見ているポイントが本当に大事なポイントなんです。手を洗った方がいいし、おうちも綺麗な方がいいし、食べるものも選んだ方がいいと思いますが。もっと大事なポイントは何かということを、わたしたちは見なければならないと思います。そしてわたしたちはどういう態度をとるかということをもう一つだけお話します。マタイ17:14 「 一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、 言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。 お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」 そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」イエス様が悪霊に取り憑かれた人を癒すとか、悪霊追い出しとかは度々示されていることです。ここは弟子たちがやろうと思ったのにできなかったという話です。半分は悪霊の働きで、半分は病気と考えていたかもしれません。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。 お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」イエス様をすぐに追い出せるけれども、弟子たちはできなかったわけです。困ってイエス様のところに来たら、珍しくイエス様は嘆いておられて、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」とおっしゃって、信仰のなさをすごく怒っていらっしゃいました。「 そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。 」あっという間にされましたが、困ったのは弟子たちでした。「弟子たちはひそかにイエスのところに来て、『なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか』と言った。」できることもあったんでしょうけれども、そしてイエス様ははっきり言われます。「信仰が薄いからだ。」返せばこう言えるわけで、悪の力とか、罪の力と悪霊の力とかに打ち勝つのは、信仰によります。つまり神様の力で成し遂げられるから、わたしたちは神の力を信じることが一番大切なことだと。当たり前ですが、悪霊は人間では追い出せません。自分の罪すらうまくいけないんだから、神様の力が働くことを信じて、それを願うときに適う。だからわたしたちが悪霊とか悪に、自分の罪に向かうのは、信仰だということです。 「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。」これは物理的なことをおっしゃっているわけではありません。山は何かと言うと、わたしたちが抱えている大きな問題、山のような大きな問題でとても解決ができないと思うような、山のようなものというのは、時々あるわけです。誰が考えても解決できないようなものは。職場や家庭や社会のことかもしれない。でもからし種一粒ほどの信仰があれば、動かないと思った山が動くこともある。場合によったらあると思った山がなくなることもある。問題だと思っていたものがいつのまに問題がなくなっていることもある。山のようなものだと思っても、ごく小さいからし種、その信仰さえあれば、山をも動かすことができる。イエス様の言葉、だからイエス様が悪や罪に打ち勝ったように、わたしたちも打ち勝てることができる、そう信じていくということです。しかも、新共同訳の聖書を見ている方が多いと思いますが、一番最後に小さな十字架の印があります。これは何かといったら、この聖書の方針で、古い写本にない文章は省いたんです。だから文章は省きましたという印なんです。

これはマタイの福音書にまとめて三つか四つ書いてある。だから十字架の印は省いてますという印です。ではここはどういう文章が省かれているかというと、 「しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない。」それを省いたんですけれども、個人的にはこの箇所は省かない方が良かったと思います。一番古い写本になかったのかもしれないけれども、悪霊に立ち向かっている人々が、とても祈りと断食がなければ、戦えないということが経験的に分かっていた。逆にそれが伝統になっていることを、現代の学者的な考えで、省く傾向にあります。でもからし種一粒ほどの信仰とは何かといったら、祈りと断食だと思います。つまり山が動くように、あるいは問題とか悪いものが出て行くように、祈りだけではなしに断食までした方が有効であるというのは経験則でわかったから書いたと思います。断食というのは文字通り、 食を断つということでもあるし、いろいろです。自分の問題が解決しないから、自分の好きなものを一週間辞めるとか、イエス様は四十日断食されたが、そこまでしなくてもお捧げするというか、しかも健康を害するようなことをしてはだめですけれども、どうしてもこれは自分の力では動かないなという時は、祈りと何らかの犠牲を捧げると、そこにからし種一粒ほどの信仰の力が働くというのは、経験的には立証されている。そのような心を持ってわたしたちは悪霊とか悪の力に向かっていくというか、自分の力より神様が働いていくものである。信仰と祈りと、時によっては断食を通して、悪の力に、あるいはそこに癒しがあるように、神様の力の働くようにということが、勧めだということです十

 
 

2016 年6 月 6 日(月)
 第 八 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記