カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-07-04 入門講座 11 主の晩餐

英神父 入門講座 11 主の晩餐

 今日からはイエス様の受難、 イエス様が十字架上で苦しみを受けられるというところをみていきたいと思います。新訳聖書の中ではイエス様が苦しみを受けられるところが詳しく書かれています。イエス様の受難物語だけは克明に描かれています。ルカによる福音22章1節「さて、過越祭といわれている除酵祭が近づいていた。 祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。 しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。 ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。 彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。 ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」過越祭といわれる除酵祭が近づいてきて、過越祭というのは何かというと、ユダヤ人にとって最も大事なお祭りです。春分の日の後の満月ぐらいにお祝いされます。今から三千五百年前の頃に、イスラエルの民は今の場所にいるのではなくてエジプトにいた。エジプトで奴隷状態のような人たちは、モーセという預言者のリーダーにより、脱出することを経験した。脱出するきっかけになった出来事が、主の過越という、彼らが体験するわけです。そのことを除酵祭というのは、酵母菌を取り除く、種無しパンを食べるその時でもあります。除酵祭の時はユダヤ人達が巡礼に来る時があって、多くの準備で客が押し寄せていた。そのような時期だということです。律法学者がイエス様を殺そうと考えていたということです。だからここからも具体的にイエス様を殺す算段になっていくわけです。でも彼らは民衆を恐れていた。イエス様に人気があったので、公衆の面前で逮捕したりは、なかなかできない。だから過越の祭りというのは大勢集まってきて、気運が高まっていて、暴動も起きやすい状態でした。ローマ帝国の支配者で、一番権力のあるのは総督のピラトだったんです。ピラトはアレクサンドリアという海側にに滞在していたんですけれども、この時だけはエルサレムに来た。なぜかといったら暴動が来たら困るので、ローマ兵もたくさん入って治安維持に努めていたところです。そのような状況の騒然とした中で、イエス様を逮捕するというのは難しかった。その中で3節十二人の中の一人。十二人というのは弟子なんですけれども、弟子の一人がイスカリオテのユダという名前で、彼が手引きをして イエス様の逮捕 を手伝ったということで、出てくるわけです。これは本当に大きな悲劇です。弟子の一人がイエス様を裏切った。イエス様を売ったわけです。大変なる災難だっただろうと思われます。そして7節「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。」 ということで、その当日にあたる。この日は何をするかというと、過越の食事を食べるという。8節にある「過越の食事ができるように準備しなさい」ということです。ユダヤ人にとって一番大事な食事が過越の食事なんです。日本人にとって一番大事なのはお正月のおせち料理だと思いますけれども、ユダヤ人にとって一番大事な食事は過越の食事です。この辺りのことは興味があれば旧約聖書の出エジプト記など読んでいただいたらわかると思います。ファラオがいてエジプトの王様と奴隷がたくさんいなくなったら困るわけで、置いときたかったんですけれども、モーセを通して神様は特別な力を働かせて、結局ファラオは諦めてユダヤ人達が出るのを黙認する形になるわけですけれども、いろんなことが起こって、一番最後は極めつけで、エジプト人の長男を全員殺すという災難がおこる。その時にイスラエル民にだけはいうんです。子羊を屠ってその血を入り口の二本の柱と鴨居に塗りなさい。その血を見たら神様は、その家の中に入らないで過ぎ越す。そこから過ぎ越すという言葉が出てきたんです。次の日の朝、民が出かけるので、過越の夜は簡単に食事をしなければならない。出エジプト記12章「人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。」と言うんです。そして何で種無しパンなのかといえば、イースト菌で膨らますわけなんですけれども、時間がないからなんです。次の日に食べなければならないから、ぺったんこのナンみたいなパンを焼いて定番の食事なんです。それを家族で食べて、羊は全部食べなさい、と残らず食べて、と命令されて、過越の食事というのは大事なものです。それを三千五百年ぐらいずっと今でもやっています。だいたい定番のものを食べることになっています。絶対食べなければならないものなので、過越の食事を食べるところを準備しなさいということです。12節「席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」とにかく巡礼に行ったらそれはきっちりしなければならない。形式も決まっています。だから彼らは過越の食事をユダヤ人として食べたということです。ただ単にユダヤ人の過越の食事だけではなく、新しい意味が加わる。それが22章14節「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。 言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。 しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。 人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」 そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。」時刻になったのでという。これは夕暮れで、これは過越の食事をする時間が来たということですが、これは時が来たと訳すべきだという意見もあります。時というのはまさしくイエス様がメシアとしての使命を果たす最後の時ということで、十字架にかかる時が来たという意味でもあると言われています。イエス様は食事の席について家族で食事をするので、ホスト役はお父さんですが、なんでこの食事をするのかという問答があって、いろいろ話をしたりして、それでパンと杯とお肉を食べるという。私は今後、過越の食事をとることはないということを、いわばはっきりと言われた。19節からここからイエス様が特別の意味を、この食事に加えるということになる。それは何かというと、それは「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。」ナンのようなパンを取って、感謝の祈りを唱える。大きなパンですから裂いて渡してみんなと食べる。その通りの動作なんですが、それは普通のパンだったんです。けれども「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。」ということを宣言するんだから、特別の意味を加えられるわけです。あなた方のために与えられるということは、この時弟子たちは分からなかったでしょうけれども、最初は何かというと、十字架上で自分の体ごと、命を捧げることを宣言する、その記念としてこのパンを、イエス様の体としていただきなさいということです。御聖体の制定といって、それが今カトリック教会でやっているミサの原型です。ミサで何をしているかというと、イエス様が十字架にかかって、わたしたちのために命を捧げてくださったということを、感謝の内にイエス様の体を 頂くという式をするということ。それを記念して行いなさいと宣言されたので、この後、初代教会からずっと、今もなお形が少しだんだん変わってきましたけれども、ミサを行っている。それはイエス様の十字架を捧げものと、復活の恵みを合わせているんですけれども、その捧げをわたしたちは記念として、感謝していただいているということなんです。「わたしの記念として、このように行いなさい」と言われたんです。記念という言葉が大事なんですが、どういうグループでも、普通は記念というものがあるんです。たとえば創立記念日とか、学校ではだいたい記念する日があるので、それでユダヤ人にとっては記念は何かといったら、過越の祭りなんです。何を記念してるかといったら、奴隷状態だったエジプトから救われたという記念で、神に感謝するという儀式なのです。いろんな形で記念日はあります。クリスチャンの場合は何を記念するからといったら、イエス様は十字架上でご自分を捧げられて、わたしたちの救いを実現したということを記念しているということです。この記念というのは、過去の事でもあるのですが、もう一度記念を行って、パンとぶどう酒をいただく。単に過去のことを思い出すだけではなくて、今、救いにもう一度預かる、という意味が含まれているわけです。さらに言うと、神の国 で過越が成し遂げられるまで、とイエス様がおっしゃっている。だからこれは将来のことなんです。イエス様を記念するということは、将来への希望も含まれている。だから過去を記念するということは、現在の救いを味わうということであって、それは未来に向かって希望を持って生きていくということです。そのような中に記念ということがあるということです。だから2二千年間キリスト教はミサを行っているわけですが、毎回のミサとはいえないですが、救いの実感を感じることがある。それは救いが再現されているということです。しかも記念で大事なのは何かというと、記念は共同体的である。あんまり一人で記念するというのは、あまりない。記念というのは共同体的なんです。つまりみんなでお祝いするから記念になったということです。記念するということは、共同体のアイデンティティというか、いわばルーツをはっきりさせているものであるわけです。ただ学校の創立記念日は何でお祝いするかというと、創立の時の気持ちを、必ずしも思い出すかどうかは分からないですが、学校のルーツとかアイデンティティとかを確かめて、過去を思い出して、そして現在のことを振り返って、未来に向かうためにする。健全な共同体は記念日があるということです。だから時々結婚講座やっている時に私が言うことは、やはり家族の中に記念日が必要であるということです。家族なりの記念日があった方がいいと思います。健全な共同体は、記念日があるということです。それが結婚記念日とか、子供の誕生日とか、毎年やってくるものを、みんなで思い起こして 、あの関わりを確かめて、これから頑張りましょうという。だから共同体というのが必要なんです。記念日がないと区切りがなくなってしまう。日本人としての記念日は、お正月とか8月のお盆とか、共同体は必ず記念日を持っています。形骸化してしまう事はもちろんあります。わたしたちが生きていくこと自身の中に、記念日が必要だということです。教会は教会として記念日がある。しかも毎日曜日、記念しています。毎日曜日ミサに預かって、記念日をしますということは、毎日曜日に記念するということです。何を記念しているかというと、イエス様の十字架を、しかも日曜日に復活したので、日曜日にミサに預かる。世界基準でクリスチャンが増えたから、日曜日に休みになったわけですけれども、毎日曜日に記念することは大事かなと思います。つまり月曜日から土曜日まで仕事をしていたら、神のことを忘れてしまうから、だから週一ぐらいで記念するわけです。つまりイエス様の復活とお恵みを思い起こして、今日も味わって、次の一週間頑張ろうということです。思いますが、イエス様を記念できる、つまり神様を中心に記念できることは、人間にとっての幸せの一つだと思います。できればなんらかの共同体、人間とは基本は人間的共同体に生きるようにつくられている。だから記念日が必要です。記念があるということは、その家族なり何かしらでイグナチオ教会だったら、7月31日はイグナチオ・ロヨラの記念日です。皆さんの生活の中でも、記念日というのが意味があるというのは、大事にされたらいいと思います。もう一つは20節「杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』」この契約であるということが、もう一つのポイントになります。ユダヤ人の考え方でもそうですが、契約はどこでもあるわけです。部族間で政治的に契約を結ぶというのは、お互いにとっての利益になることです。契約するということは、お互い約束を守るのは大事なことです。それによってお互いが栄えるためです。家族間とか部族間とか、わたしたちは様々な契約を結んで生きていて、結んだ契約は守らなければならないです。結婚するということは契約を結ぶということだから、それによって様々な利益があるし、契約もするということは守らなければならないルールもあるし、契約条項みたいな、それに反するということはよくないわけですね。ただ契約が二つあって、お互いがはっきりと同意で結婚することもあれば、契約を結んだ意識はないけれども、契約を守らなければならない家族のメンバーとして、あるいは日本人として生まれてきたら、日本国家の法律を守らなければならない。生まれて来たら守らなければならない。基本的にわたしたちは契約社会の中で実は生きています。それは西洋であろうと東洋であろうと、契約の結び方とか守り方が 。ユダヤ人の考え方で、突出しているのは何かというと、イスラエルの民と神が契約した、いわば少し特異なところかもしれない。何で契約を結んだかというと、エジプトから奴隷状態から脱出したので、神様の特別な介入の力なしに出れなかった。脱出してしばらく荒野で生活するんです。その時に神様とユダヤ人が契約を結んだ。だからユダヤの民は契約の民と呼ばれるんです。神と人間が契約を結ぶ。個人ではなく民ですけれども、だからわたしたちは神様とも契約を結んでいくものでもあります。契約の条件は何かと言うと、人間の方は十戒、十の掟を守るというのが条件になるわけです。神様はユダヤの民を守る、導く。旧約聖書の長い長いお話は何かといったら、ほとんどはイスラエルの民の、契約破りの話なんです。神様は人間に対して、ずっと忠実、誠実で間違いないけれども、人間の方が、せっかく契約条項が守れない理由です。つまり十戒を守れないから、それでおかしなことになって、契約がうまくいっていない状況が続いている。だからイエス様が新しい契約を結ばれた。十字架上で自分の命を捧げられた。自分の血を流すことによって、新しい契約、そういう意味で新しいということになるわけです。  このイエス様の契約も、最初から公平な契約ではなくて、どちらかというと神様が勝手に契約をしてくれた。人間から頼んでいないから、神様が自ら命を捧げて契約を結ばれた。だいたい契約を結ぶ時は、印がいるわけです。だからたとえば、神道式の結婚ならば杯を交わす。だからイエス様が十字架上で血を流すというのは、そういう意味では杯と血を流す。契約である形のシンボルを使っているわけです。自分が十字架上で命を捧げることによって結ばれた契約であるということです。キリストを信じるということは、この契約に結ばれるということです。契約という言葉を日本語で置き換えたら、簡単にいうと、絆を結ぶということです。絆を結ぶということは、結んだ以上、お互いに守らなければならない。つまり結婚するということは、絆で結ばれるということだし、家族というのは絆を結ばれるということです。あるいはカトリック教会だったら、キリストの絆で結ばれているものであるといえるし、様々な形で絆があるということです。この絆によって、わたしたちは恵みの世界に入ることができているということです。よくよく考えたら人間にとって何が大事なのか。いろんなものがありますが、一つは記念すべきものがあるということです。自分にとってルーツがあるということです。神様に自分のルーツがあって、それを度々記念できるのは大きな恵みです。二番目は何かといったら、 神様と絆を結んで生きることができるということです。でも、記念もそうだし絆もそうだし、仲間と共に記念して、絆を生きれる。それをいわば最後の晩餐で、そのような恵みをわたしたちに与えてくださった。記念日に何するといったら、食事をするんですね。記念にするというのは、食事なんです。まずは何か儀式的なことがある。ルーツを思い出話をしたり、なんとかしながらということです。契約を結ぶほうはそうなんです。言葉によって契約を結ぶわけです。誓約書を書いたり、そして杯を交わすとか、血をながすとか、その後に必ず食事が入る。契約の後に食事をするというのができているので、記念も契約も最後は食事なんです。ユダヤ人の契約は、出エジプト記24章で、神様とイスラエルの民が契約を結ぶんですけれども、どういう儀式かというと、言葉によって契約を結んだあと、生贄の血を半分神様にかける。祭壇にふりかける。半分は民にふりかける。その儀式の後に食事をするんです。神様と共に契りを結ぶというのは、言葉とシンボル的な動作と、食事。だから最後の晩餐もそうですけれども、今のミサという形にもなっている。その度にわたしたちは記念して、絆を確認する、絆を結び直すのかもしれない。その恵みの中に生きることを、イエス様が決められたので、ここで始められるのは、イエス様が十字架につけられて復活された後、思い起こしたりするのはそこから始まる。色々な形でわたしたちは記念することと、絆を生きるということです。西洋と東洋では感じが違うかもしれないですけれども、絆なしの社会はありえないですし、記念なしのグループもありえない。この二つを中心にということです。そしてその後 、24節から最後の晩餐での出来事が語られていると言います。「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。 あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」この24節からは、ルカの福音書にだけに書かれていることなんですけれども、いわば晩餐というか、記念という契約が含まれますが、どういう心構えでということを書いていると言えます。これだけ大切な話をしたあと、「使徒たちに自分たちの中で、自分たちの中で誰が一番偉いだろうかという議論が生じた。」しょっちゅう誰が一番偉いかということをやっているかもしれないです。最後の晩餐でもやっているんだから悲しくなります。その時ぐらいもう少しと思いますが、でもそこでイエス様は弟子の心構えと同じことを言っています。「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」仕えるもの が、イエス様の晩餐に預かる、心構えだということです。ここで聞くわけです。「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」食事につく人と、給仕をする。イエス様が給仕をするような人。イエス様の食事は全く逆で、給仕する人がホスト役だし、出てくる料理もイエス様だったわけです。全てがイエス様のお恵みをただ受けるだけ。それはイエス様が徹底的に仕える人であるから。仕える極致が何かといったら、ご自分が十字架上で命を捧げられて、その命をわたしたちに分け与えてくださっている。そのお恵みをわたしたちはいただくだけであるのが、イエス様の、神様の一番の本質的なこのであって、わたしたちは感謝していただくだけだと、お恵みをただ感謝して記念する。ただ感謝して絆をもう一度結び直すということが、わたしたちに求められていることだと思います。その直後に31節、シモン、ペトロのことですが33節「するとシモンは、『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と言った。」お師匠さんに、どこまでも着いていきますと約束しているわけです。数時間後に「イエスは言われた。『ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。』」と言って、記念と契約を結んだところなんですが、数時間後に人間の側が契約不履行ということです。人間のだめさ加減が明らかに描かれているということです。イエス様が十字架にかかっていくということは、大いなるスキャンダルだった。今日でいうならば、一つは弟子の一人が裏切った、イエス様を売った。それが直接の引き金になったと思います。二つ目はペトロは弟子のリーダーだったんですけれども、リーダーですらイエス様のことを知らないと言って、従うことができなかった。イエス様の十字架を通して、あらわになっている事の一つは、人間は弱い存在である、罪人である。つまり人間の側から契約を結ぶことができない。神様からの契約を結ぶしかできないということです。それがはっきりと書かれている。しかも32節「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」分かっていて、ペトロですらイエス様が祈りで支えている。だからこの最後の晩餐というところは、神の恵みの凄さと、人間の愚かさが両方描かれている。もしかしたら旧約、新約聖書、 全部そうかもしれないですけども、神様はいつも誠実で、わたしたちを愛してくださるけれど、わたしたち人間の側が契約不履行、契約を守れない弱い人間である。それが分かっている上で、イエス様はもう一度契約を、絆び直してくださる。それが今もそうだと描いているわけです。39節、「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。 『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。』〔 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。 イエスは言われた。『なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。』」この最後の晩餐の食事が終わった後、イエス様がどこに行かれるかというと、オリーブ山に行かれるのです。少し遠いのですが、最後の晩餐はエルサレムのだいたい南側のところなんですが、オリーブ山というのはエルサレムの東側です。麓がゲッセマネの園で、他の福音書ではここで祈られていたと書いてあります。いつものようにオリーブ山に行って、いつものように来るとと書いてあるので、そこでイエス様が祈ったりされたという場所だと思います。ゲッセマネのそばで野宿をされていたのかもしれません。ここでイエス様が好んでおられた場所であるのは確かです。ゲッセマネの園が、東の真向かいなんです。ほぼ目の前にメシアが通る門があって、そこでイエス様が祈っているときは、メシアとしての自分の使命を考えたら、間違いないであろうと思います。「そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。」イエス様がどのように祈られたかは細かく箇所は書かれていないのですけれども、ここは唯一詳しく出ているところです。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」この杯なんですが、これは苦しみの象徴です。だからイエス様は人間的に十字架にかかるのは、やはり嫌だったということです。つまり十字架にかかって命を捧げるということは、喜んでできるということではなくて、大いなる苦しみを伴ったのです。そしてそのことは、正直にしんどいですと、神様に伝えた。イエス様人間的な弱さや葛藤が、正直に表れているところです。その後「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」ということです。ルカによる福音書の特徴は、極端な二つの立場を描くことが多いのです。ここもイエス様の心の中にある二つの立場です。十字架に上がるのが嫌だということと、御心のままというのは、十字架を受け入れるということです。だからイエス様のお祈りは、二つの心の葛藤のようなものがあった。だからものすごい苦しみの祈りを、この時は捧げたということです。「すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。」支える存在もあった。それでも「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」ということで、血の汗を流したということです。それがどんなに苦しかったということが想像できる。生理学的に時々ある。血の汗を流すことがあるということです 。だから体液に血が混じることは、有りうると思います。それぐらい苦しかったと思います。苦しむ時の前ぐらいが一番苦しいと思います。苦しみが始まってしまったら、どうのこうのないと思いますけれども。イエス様がこのように祈った以上、わたしたちもこの祈りに支えられて、わたしたちの苦しみに向かうことができる面もあるということです。弟子たちはどうかというと45節「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。」ルカは悲しみの果てにと書いてあって、これは何かというと、人間の防衛本能ということです。あまりに苦しいと逃げてしまう。関わりたくないということです。関わりたくないが逃げで眠ってしまうということもある。それで眠っていたかもしれない。旧約聖書のヨナ書では神様の命令に逆らって逃げてしまう。暴風雨で船が沈みそうなのに、川底で寝ていた。完全に逃げていたから、寝てたという感じでしょうか。でも私としてはそこまでいってたのかなを思います。かなり眠かったと思います。約一、二時間前には、羊の丸焼きを食べて、たらふくぶどう種を飲んでパンを食べて、お腹もいっぱいで、急に祈れと言われても、わからず寝てしまったというのが、実際ではないかと思います。いずれにしてもイエス様の苦しみに付き添えないです。それでは契約違反ですね。全くついていけない、弟子たちの姿が書かれているわけです。わたしたちも苦しみから逃げようと思って、眠ってしまい祈らないことは、いわゆる一つの逃避になるということです。できればこのイエス様と共に苦しみから逃げないで、自分の葛藤を引き受けて、果たさなければならないことを、果たしていく選択をすることも可能である。イエス様が苦しまれたからこそ、模範というべきか。イエス様がそうされたからこそ、わたしたちも苦しみや葛藤から逃げないで、イエス様に支えられて、共に祈りを捧げて力を得ることも、わたしたちにはできるということです。場合によっては辛すぎる時は、逃げる時がいいかもしれません。でもしっかりそれを受け止めて、イエス様と共に、自分の葛藤を引き受けながらでも、自分の望みにおいて、神の望みを優先して生きていける方が、選択できれば、それはそれでお恵みだと思います。それができたりできなかったりしますが。ここにしかイエス様のお祈りが詳しく書いていませんが、この祈りもわたしたちの祈りの基盤として、歩むことができるのではないかと思います 十

 

2016 年 7 月 4 日(月)
 第 十一 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記